6話 希望
ぽたりぽたり、器に雫が落ちていく。
時間の経過、注がれた想い、
そして生きて成し遂げる覚悟。
生きるか死ぬか。
ヨゼに向けられた魔を殺す鋼の刃が、心臓に迫ってくる。
思い出したのは母親の姿、
託された願い、生きたいという希望。
器を壊す前に、刃は最後の軛を解き放った。
もう、制約はいらない。
あふれた力は物理法則を捻じ曲げる。
耐用寿命がきたおもちゃと最後に遊ぼう。
ヨゼにとってはそれだけのことだった。
目の前の子供は、自分に逆らえない。
体は契約で支配している。
心はもう折った。
なのに、ヨゼは子供から
あふれだす圧に何故か怯んでしまったのだ。
動揺した手はナイフをうっかり取り落とす。
この瞬間、絶対的な支配関係は覆った。
落ちたナイフは空中で翻り、持ち主のヨゼに牙を向く。
「君、マギアを使えたのか…や、やめ…」
ナイフの勢いは止まらず、身を貫く。
試してみたかった魔殺の鋼の効果をヨゼは
その身で味わうことになった。
ひゅーひゅーとヨゼはかすかな息を吐いた。
飛んできたナイフは致命傷をわずかにそれていた。
けれど、さすが魔殺の鋼だ。
数分も経たずに、自分は死ぬだろう。
細胞死。
いやそれとも別の機序なのか。
ヨゼの世界はもうすぐ終わる。
「自分が負けのゲームオーバー、は、想像してなかった、な」
魔界を統治する魔王だって死ぬ。
命を弄んだ神だって終わりは来る。
それだけのことだとヨゼは受け入れた。
一つ心残りがあるとするのなら、1年かけて壊した少年から
発露したマギアのこと。
せっかくの面白い症例を研究できないのは残念だ、
そう声にならない想いをこぼし、
ヨゼはかすかに笑みを浮かべ、死んだ。
僕は、ナイフがヨゼに向かっていくところをただ見ていた。
ヨゼの体を刃が貫き、彼が息を引き取るところまで、
呆然と眺めていた。
突然わきあがった力にも目の前の死にも、
実感が追いつかない。
(こ、殺してしまった?)
そう、いきなり発露した僕のマギアがヨゼを殺したのだ。
ヨゼは死に、僕は生きている。
(に、逃げなきゃ)
ひとまず、もう地下室にいる理由はない。
手首を縛っている鎖さえなんとかできれば、
屋敷の外に出られるだろう。
(もう一度、マギアを使えれば…)
僕は、必死にマギアの感覚を思い出した。
体のうちからあふれでた、
自分に向けられた刃を跳ね返した力。
僕はあのとき、どうやって使った?
記憶をたどりながら、全身に力を入れて歯を食いしばる。
あの力は僕のものだ。
自分の人生を勝ち取り、切り拓く意志そのものだ。
(僕は、生きるんだ…!)
太い鎖が捻れ、バキリと音を立てて壊れていく。
あとは、この足で走るだけだ。
地下からの階段を駆け上がる。
体に傷はないのに、心臓が痛い。
息が切れる。
いきなり使ったマギアは
体の負担も大きかったらしい。
それでも精一杯走った。
屋敷のエントランスから外へ。
ヨゼの命令はもう聞こえない。
門の前で、誰かの声が聞こえた気がした。
どうぞお元気で、と見送るやわらかな女の声。
少しだけ迷ったけれど、僕は振り返らずに歩みを進めた。
「ありがとう」と呟いた声が、姿も見えない彼女に
届いていればいいと思う。
門を抜けて、しばし歩いた。
ここがどこかもわからない。
どこに行けばいいのかも分からない。
現在地も目的地もわからないのにどうすればいいのか。
立ち止まると、一気に疲労が襲ってきた。
僕は壁に手をついて、呼吸を整える。
ふと、路地の向こうから
黒いフードをかぶった二人連れの姿が見えた。
彼らは、追手だろうか。
僕を脅かす者たちだろうか。
もしそうでないのなら
現在地だけでも確認してみよう。
そう思って一歩足を進めた途端、景色がぐらりと揺れた。
(あ、だめだ、倒れる…)
視界がどんどん歪んでいく。
せっかく脱出できたのだ
死にたくない。
薄れゆく意識の中で、フードの彼らが敵ではないことを願った。
「お?」
フードの二人が、倒れた子供を発見したのは偶然だった。
彼らは人探しの最中で、この街を訪れたばかりだった。
「おい、大丈夫か?」
小さな体を揺さぶる。
脈はあるが意識が戻る気配はない。
子供はずいぶん消耗しているようだった。
「ありゃー、完全に気絶してるよ。なんとかしてやって」
男は、後ろにいた女に声をかけた。
女は一言、「御意」とだけ応え子供の体を担ぎ上げる。
「どこが安全かわかりませんから。一度戻るといたしましょう」
女の言葉に、男は頷きを返す。
そうして、彼らは街から姿を消した。
目を開けると見知らぬ天井だった。
僕はふかふかのベッドに寝かされていたらしい。
ヨゼの屋敷でもない、森の家でもない。
ここは一体どこだろう。
ゆるく頭を振る。
ずいぶん長い悪夢を見ていた気がした
夢を引きずらない目覚めは随分久しぶりだ。
「目を覚ましましたか」
鋭い目をしたポニーテールの女性が僕の顔を覗き込んだ。
屋敷にいた召使いとは違う人だ。
貴女は誰なのか、と声を出そうとする前に
彼女は自分の背後に向かって声をかけた。
「王よ、目を覚まされましたよ」
僕は寝たまま、彼女の後ろへと視線をやった。
そこには、逆向きに椅子にもたれて笑う男がいた。
「おう!元気になったか?」
僕に向かって、男はゆるく笑う。
僕は彼らと会ったことはない。
ないのに、なぜだろう。
涙がこぼれそうになる。
やっと会えた。
魂から、そう感じたのだ。