9話 敵わない相手
賭けだと、執事は思っていた。
勝率は五分五分といったところだろう。
転生者であることを指摘してしまってから、
子供は王や私に怯えていた。
彼の体に刻まれていた従紋のことを考えれば、
無理もない反応だ。
きっと理不尽にさらされてきたはずだ。
転生した先の魔界で、庇護する母親を失い
わけがわからないまま虐げられた。
転生者というだけで、子供はすでにハンデを負っている。
ただでさえ荒れている魔界は、子供にとっては
さらに生きづらい環境のはずだ。
彼を取り巻く環境がいかに絶望的か、
ひとつひとつ言葉にして叩きつける。
子供の顔色がどんどん悪くなる。
無理もないことだ。
(すまないな)
執事は心の中でそっと彼に詫びる。
生きるということは苦難を越えていく道にほかならない。
いっそ死んだ方がましだったと、嘆く日がくるかもしれない。
(それでも、選んでほしい。王と魔界のために)
愛用していたナイフを床に転がし、彼に提案をもちかける。
彼の勝利条件は、朝に設ける時間内に与えた
ナイフで自分に傷を負わせること。
報酬は、安全な生活の保証。
(のるか、そるか)
生きるか死ぬかを今、自らの意志で選び取れ。
子供の決断を執事はただ見届ける。
床に転がったナイフは
子供の手に収まり、刃の切っ先は執事へと向けられる。
「その意気やよし」
子供の覚悟に、執事は笑みをこぼす。
賭けは、勝ちに傾いた。
「ということになりました」
子供が部屋に戻るのを見届けてから、
執事は後ろに隠れていた王に声をかける
「手加減してやれよ?」
返ってくる答えなどお見通しだろうに、
王は笑って執事にそう言った。
もちろん、執事が
「ヤダっ」と
即答したのは言うまでもない。
そんな会話が繰り広げられていることなど、僕は知る由もない。
部屋に戻り、受け取ったナイフごとベッドに体を滑り込ませる。
少しでも体を休めるべきとは分かっていても、
妙な興奮で目がさえてしまう。
結局ほとんど眠れないまま、僕は朝を迎えることになった。
朝日が差し込むころになって、ようやく軽い眠気が襲ってくる。
ウトウトしている所に、バンッとドアが開く音に続き
さらに大音量の声に僕の鼓膜がびりびりと震える。
「起きろッ!やるぞッ!」
掛け声とともに入ってきた執事は、いかにも気合十分という様子だ。
むくりと体を起こし、ベッドの中のナイフを手に取る。
挑むと、自分で決めた。
ならやるしかない。
ナイフの重みが初めて心強いと思えた。
執事に連れられて、敷地内の庭へと移動する。
生まれ育った森と似た空気を感じる広い庭だ。
あたりをきょろきょろ見回していると、
手を振る人影が見えた。
僕らを待っていた元魔王の彼だ。
「おはようさん。俺は単なる見物人だからなー。
せいぜいがんばれよー」
そう言って、元魔王はにへらと笑う。
「審判はやっていただきますからね。あとタイムキーパーも」
執事の突っ込みに、魔王はぶーぶー言っている。
二人のじゃれあいを見ていると
僕も気が抜けたのか、くすくす笑ってしまった。
「さあ、来いよ!…とその前に、念のため条件を確認をしておくか」
執事が僕に向き直る。
それだけで、場の空気が一気に張り詰めた。
「これは、本気のゲームだ。
私に一回でも傷を負わせれば、お前の勝ち。
望みは叶えたいのなら、殺す気で来いよ。
それでも当たらないとは思うけどな」
夜に語られた勝利条件そのままだったので、
僕はただ頷きを返した。
さらに、執事は指を立てながら条件を付け加える。
「あとハンデとして、
私は庭より外には出ないと約束しよう。
どうだ、いい条件だろう?せいぜいがんばって
追い詰めてみるんだな」
広い庭とはいえ、外に出れないのであれば
行動範囲はずいぶんと狭まる。
彼女が言うように、僕にとってはいい条件だ。
相手は「ただの執事」。
元魔王だったら勝ち目はなさそうだが、
彼女相手ならいけるのではないか?
ナイフの感触を確かめながら、僕はそんな見通しを立てた。
「時間は3時間でいいか。王!時間計ってくれますよね?」
さっきまで文句を言っていたのに、
元魔王はノリノリでタイムキーパーをやるらしい。
ぐっと親指を立て、「任せとけ」と笑う姿は
子どもみたいに楽し気だ。
「じゃあ審判やるぞー。カウントダウンの後、開始な」
彼の声に、僕はぐっと体に力を入れ直した。
ナイフのカバーを外して、草むらに置く。
「3」
目の前の執事まではおよそ2メートル。
スタートダッシュで懐を狙える距離だ。
「2」
執事は特に身構えている風もない。
ぼんやりと突っ立っているようにも思える。
「1」
なら、一気に間合いを詰める。
「始め!」
両手でナイフを握り、加速する。
殺す気で来いといったのは執事だ。
ためらいは不要。
狙いは心臓だ。
「オラアッ」
掛け声とともに一閃。
本気で突きにいったのに、
執事はひらりと最低限のステップでかわしてしまう。
(動きが速すぎる、目で追えない)
向き直って、ナイフを振るう。
残像にすら、刃は届かない。
ひらりひらりと舞うように、
執事は僕のナイフを避けていく。
どう考えても、遊ばれているのは僕だ。
「1時間経過~」
間の抜けた元魔王の声が響く。
息が上がって、体が思うように動かなくなってきた。
ナイフの重さすら、わずらわしくてたまらない。
もう何度攻撃を無駄にしてきているのだろう。
避けられた勢いのまま、
僕は地面に突っ込んだ。
口の中に土が入り込んで、じゃりっと音を立てた。
(あまりに実力差がありすぎる…)
どれだけ動いても、執事にナイフが届くイメージが描けなかった。
地に付したまま、僕は歯ぎしりを繰り返す。
「おい!本気でやれッ!!」
執事からの叱咤が飛んできた。
重たい体を必死で動かし、ナイフを手に立ち上がる。
「くそっ!」
(ナイフが届かなくても、せめて一矢報いたい)
限界は近かった。
それでも、気合で体を動かし続けた。
「はい、3時間終了~。
まあ結果は見えてたけどな、お疲れさん」
タイムキーパーをしていた元魔王が終了の合図を告げる。
体を動かしていた気力も品切れで、僕は地面に倒れ伏した。
もう一歩も動けない。
疲労で吐きそうだ。
必死で呼吸を整えていると、
僕を見下ろしている執事に気が付いた。
泥だらけの僕とは違い執事の服には汚れはない。
汗すらほとんどかいていないようだった。
息一つ乱さずに、彼女は淡々と事実を口にする。
「今日はダメだったな」
「また明日。だが、明日があると思って
挑んでくるようじゃ永遠に無理だろうよ。
気合だけじゃ無意味、今度から頭も本気で使ってこい!」
執事の言葉に、僕はぎゅっと目を閉じて考える。
この3時間を振り返って、僕はどう動いていただろう。
特に後半、体力が底をついてからは、
気力だけでがむしゃらにナイフを振るった。
ただでさえ実力差がある相手だ。
まぐれなんて起こらない。
もっと考えて、観察して
隙を突かなければ勝ち目なんてない。
「もっと準備…あと体力も、つけないと、な」
いつか絶対に、見返してやる。
吐く息と合わせて、僕は想いを小さくつぶやいた。
「さて、ペナルティだ。
言うことを聞いてもらおうか。そうだな…」
僕に背を向けたまま、
執事はこう言った。
「『今日一日、王の指示に従うこと』としよう」
「お?なるほど」
元魔王は、ぽやんとした顔で
相槌をうつ。
そうして、ゆるっとした声で
こう言ったのだ。
「じゃあ、お願いしちゃおっかな。1日中草むしり!!」
は?
と反応してしまった僕は悪くないと思う。