婚約破棄と、幼馴染と。
「すまない」
謝罪は、驚くほど淡白だった。
サリアがぽかんとして何も反応できなかったのも無理はない。
なにせ彼から話しかけられることが珍しすぎて、むしろそちらに驚いてしまったのだ。
「君との婚約は、なかったことにしてほしい」
だから、続く言葉もまったく頭に入ってこなかった。それは音としてのみ、彼女の鼓膜へ届いた。
艶のあるブロンドの頭が下がっていくのを、サリアはぼんやりと見守ることしかできなかった。
「信っじられない!」
どん、と机を叩く音が数回。拳をぶるぶると震わせながら、彼女はここにいない元婚約者に怒りをぶつけていた。
「さ、い、あ、くーーーーっ!」
机を親の仇のごとく拳を下ろし、足をバタバタさせながら、サリアは行き場のない怒りを爆発させていた。
「それ、痛くないの、サリア」
「痛い! でも腹立つの!」
振り乱した髪ごとぐるりと振り向くと、くすくすと押し殺したような笑みが帰ってくる。
その人物は机の向かい側、肩肘をついた手の甲に頬を乗せながら、本の頁を捲っている。やたらその姿が絵になる、そう思ってしまう自分に、サリアはまたイライラを募らせる。今の自分の状態と対比してしまったせいだ。
サリアも、普通にしていれば特別劣るとは言えない容姿はもっているつもりだ。少々平凡な、埋もれてしまう地味な容姿というだけ。年頃の少女ではあるし、日頃の手入れや化粧も人並みには頑張っているつもりだ。
とはいえ、ぼさぼさの髪に、つり上がった目とへの字にまがった口では、そんな普段の努力も飛んでゆくくらいにはひどい状態だということを、彼女は自分でわかっているつもりだ。
それに引き換え。そのやたら華やかな美貌――しかも男だからたちが悪い――をうんざりと見ながら、サリアは痛む拳をもう一度机へ叩きつけた。
「荒れてるなぁ」
「当たり前でしょ! 私フラれたんだよ!」
何度も繰り返されたフレーズを叫ぶサリアに、彼は困ったように息をついた。
「わかるけどー。けど物は壊さないでね?」
まるでだだっ子をなだめるかのような物言いに、サリアは少しむっとしながら小さくわかってるよ、と口のなかで呟いた。
壁一面の棚に所狭しと並んだガラス製の小瓶や実験用の器具、本、などなど、物が整列しているこの空間はサリアのテリトリーではない。むしろ目の前で本を読むこの青年、ルカの仕事場だった。
この場所は、サリアにとって自室の次に過ごすことが多いところだ。ルカに話したいことができるとすぐに飛んできてしまう。仮にも仕事場だというのにその職業性なのか、まわりも研究に没頭していて干渉されることはない。
「だってお断り理由が両親がそう言うからって、なんなの!」
内容はあくまで曖昧。両家の意思としか伝えられず、もやもやが残ってばかりだ。既に親には伝えられていたらしく、ご縁がなかったわねぇ、とのんびり母が言うのみだ。
「なんかやらかしたのがバレちゃったんじゃないのー?」
「……私が理由じゃないんだって」
やらかした方は否定しない。サリアはその辺り、おとなしいタイプではないのは自覚していて、しかしその部分も好意的に受けてもらえていた。はずだ。
「じゃあ気にすることないんじゃない。なんか都合変わったんでしょ」
ルカはひらひらと手を降りながら、気のない返事しか返さない。サリアはムッとしながら口を尖らせた。
「ルカだって、フラれちゃえばわかるよ」
「僕はフる専門」
事も無げに言い放った言葉に、やさぐれたくなる。それはそうだろう。男だというのに研究室の華と言われるその中性的な容姿は、研究者という肩書きで知的イメージもプラスされ、貴族のお嬢様の間で大変に話題だという。
親同士の付き合いで昔からよく遊んだサリアにすれば、生意気なことばかり言う弟分にしか見えないが。
イライラを収めるためのげんこつは、手が痛くなってきたために別の手段に出ることにした。部屋の一面を埋め尽くす書棚の本の背を、片っ端から眺める。
基本の植物学、薬草辞典、身近に潜む毒草、タリハラ大陸野草全集。
「わたし……何がダメだったんだろう」
思った以上にダメージを受けている。その言葉が自然に溢れて、そのことをようやく自覚した。
すき、だったんだろう。きっと、こうして胸の奥が苦しくなるくらいには。
特別うまくいってなかったわけではない。愛想も言葉数も控えめすぎる彼に対して、積極的に話しかけるのはサリアからばかりだったが、決して嫌がられている感じはしなかった。ここ最近は、サリアのたまに出てしまう毒づきにひっそり笑んでくれることだってあったのだ。
表面的には穏やかな関係を気づけていたはず。
その矢先の、婚約の白紙撤回だ。いつもどおり無表情な顔が深々と下がり、綺麗なお辞儀の形になるのを思い出す。
いつもどおり。そう、いつもの表情だったのだ。
こんなにも動揺してしまったのは、自分だけ。
目の前がもやもやと霞んできて、目の前の机に思わず突っ伏した。
「別にサリアが断りの理由ではないんでしょ?」
「……うん」
サリアの耳元でことりと陶器が置かれる音がした。バサバサにかかった髪の毛を払いもせず、ぼんやりと立ち上る湯気を見る。その向こうで、迷い猫でも見つけてしまったような笑みを浮かべたルカがこちらを見下ろしている。
「それ飲むまではここにいていいよ」
さんざん暴れたのに、まだ居て良いと遠回りに言ってくれる。そんな幼馴染みの優しさがじんと染みる。
顔はあげられないまま手のひらでマグカップを包む。それは、いつか幼馴染みにあげたそれだった。
「なつかし……、まだ持ってたんだ」
「どうも貴族様に用意されるティーカップは使いにくくてね。たっぷり入るし保温も利くから、僕的にはこっちの方が好きなんだよね」
表面がごつごつして、厚みも均一ではない。決して売り物のようなとはいえない、あきらかな手作り品。その作成者であるサリアも、胸を張って使えるかと問われれば遠慮したいものだ。
研究者らしい合理性だが、不思議に思われたりしないんだろうか。
「これ、作り直そうか? もうちょいマシに出来ると思うんだけど」
「まだ陶磁器づくり続けてたの? 良い年したご令嬢が泥んこまみれって……」
呆れたように言うルカ。他の人も例に漏れず苦笑いされるたぐいの趣味だ。理解してはいるが、元婚約者も何も言わなかったためやめる機会を失っていた。
「…………ああー」
「なんで今勝手に落ち込んだんだよ」
関係ない話をしても、結局元婚約者のことにつなげてしまい落ち込む。これは困った。自爆しに行っているようなものだ。
そのまま思考停止を選択したサリアは、完全に机に突っ伏した状態から動けなくなる。
「サリア」
頭の上にかすかな重み。やさしく滑るその手のひらが、温かくて気持ちいい。子供みたい、と思いながらその手は振り払えない。
「……ごゆっくり」
ふ、と離れる手。少し名残惜しかったが、そんな自分が幼く思えて、その気持ちには知らないふりをすることにした。
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「君は、サリアのことが好きなのかな」
単刀直入。何度か、数えるほどしか会ったことがないその相手から出た言葉は、これ以上ない直球だった。
相手の真意が測れず返せないでいると、サリアの婚約者であるはずの彼、フィードも、やはり困ったように笑んだ。
ルカは無言で先ほど閉めたドアに鍵をかけた。どうやら他に漏れると支障が出そうな話だと踏んだ。
確かにこの研究室は防音ではあるし、両隣も同じような研究室のため、内緒話をするには良いだろう。
「サリアが、どうかしましたか?」
「いや。彼女は何も」
ルカはさらに内心首をかしげる。あのどこか天真爛漫な幼馴染みは、普段の行動こそ少々突拍子もないが、婚約者に疑惑を持たれるような迂闊さはない。だいいち、彼女にとってルカは幼馴染み以上の何者でもないはずだ。
「そう遠くない未来に、俺の家はなくなる」
二度、単刀直入に紡ぎ出された単語は、物騒な響きだった。
「……それは、また何を」
「あまり詳しくは。どちらにしろ今その"準備"をしている所だ」
淡々と語るその声音からは、感情は読み取れない。サリアが以前「何考えてんのかわかんない」と愚痴っていたことを思い出して、なるほどと思った。
「親か、親族ですか」
「そのうち広まることだ」
家を潰してしまうようなスキャンダルだ。しかも、フィードは筋金入りの騎士家系の出である。その途方もなさにはぁ、と間抜けな声が出てしまった。
「表沙汰にするには少し時間がかかる。その間にサリアとの婚約も白紙にもどそうと」
婚約は、家同士の繋がりにメリットを求めて行われる。もちろん、サリアとフィードの場合も例外でなく、政略以外の何物でもないものだった。
サリアもその点は淡々としていたし、そのうえでフィードと少しでも円満で居ようと努力していた。
「家の事情が公になる前に破棄を伝えることになる。理由も曖昧なものになるだろう」
少しでもサリア側にダメージを残さないためのものだろう。わずかばかりの誠意というやつだ。
神妙に聞いていたルカは、ふと違和感を感じた。
説明は、淡白であくまで実直。余計なことも遠回りもない。
「なぜ、それを僕に話すんですか」
唯一、必要ではないことだ。
完全に部外者である、ただのしがない研究員のルカに話す理由。
フィードが、初めてそこで躊躇うような、口ごもるしぐさを見せた。
「……嫌いではない相手から拒否されるのは、辛いはずだ。大小問わず」
ぐっ、と胸を掴まれるような苦しさを感じる。サリアは、取っつきづらいフィードとの距離もなんとか近づけようと頑張っていた。それをルカも散々聞かされていたのだ。今日は結構喋ってくれただとか、少し笑っただとか、笑うと優しげになるだとか。
それは決していやいやの負の感情からではない。婚約者だからという打算でもない。純粋に仲良くしたいという、好意的なものだったはずだ。
"嫌いではない"というなんとも微妙に気を使ったような言い回しに、表面上保っていた外面が崩壊する。
「で、僕にフォローして欲しいってこと?」
フィードの目が一瞬丸くなって、またすぐ元の表情に戻ると神妙に頷かれる。一応、同じ年ではあるはずだし、今この話に立場もなにもないだろう。
「君しかいないと思った」
「買いかぶりすぎ」
言いつつ、内心ルカはこの実直すぎる青年に嫌な感情を持てずにいた。
会ったのは本当に数度。この話をするのもリスクがあったはずだ。だいたい、一番手っ取り早いのは、家のことについてサリアにも正直に話せばそれがいちばん彼女も納得する。
それができないのは、彼女を知っているからだ。それでも婚約者の義務だとか言いながら、婚約継続を選んで将来のいらない苦労を背負いこもうとしたり、納得したとしても知らないふりができなかったり。それでは先に白紙にした意味がない。
意外と人を見ていて、話し方がどこか不器用で、それはまるで。
「フィード」
話は終わったとばかりに部屋を出ようとする彼に、鍵を解除しながらその名を呼ぶ。
ひとつだけ。聞いておきたいことがあった。
「あんたの気持ちを聞いてない」
答えるかわからないと踏んでいたその問いは、あっさりと返ってきた。
「俺には、もったいないひとだ」
その声音は淡々としているようで、何かを押し殺すようで。
ルカは扉が閉まるまで、なにも言わずにその背中を見つめていた。
本を選んで戻ってくると、サリアは変わらない体勢のまま、机に伸びていた。
なるべく音を立てずに近づくと、小さな寝息が聞こえてきて呆れてしまう。仮にも男の部屋だというのに。
さすがに起こそうかと肩に伸びた手が、目元に涙のあとを見つけて止まる。
傍らには底に少しお茶を残した不細工なマグカップ。追い出されないように飲みきらなかったらしい。そんな律儀な彼女に、思わず頬が緩む。どうせ追い出せるはずがないのに。
自分の椅子に戻って本をパラパラと捲る。作業台はしばらく使えそうにないので、調べものを先に済ませてしまおうと決めた。
あいつの思った通りになったな、と頭をよぎった瞬間、一気に渋い表情になるのを抑えられなかった。
婚約破棄を伝えられた、その日に研究室へ無言で入ってくるなり大暴れだ。たぶんここへ入ってくるまでは相当我慢をしたのだろう。この部屋へ入ってしまえばルカ以外には誰も入ってこない。防音の使い方がよくわかっている。
正直、年頃の男がいる防音の部屋にしょっちゅう通うのは外聞的にどうかと思った時期もあるが、本人が血の繋がっていない弟になんの遠慮がいるの?という態度のため今さらとやかく言う人もいない。
「おとうと……」
そこは兄だろ、私がおねーさんよ!とくだらないやり取りは散々交わしたが、ちくりと胸の奥が痛むのはそういう時だ。
婚約破棄後のサリアの行動パターンに関して、フィードの読みは当たっている。悔しいくらいに。
それはたぶん、彼なりにきちんとサリアに向き合っていたからだ。だからこそ、ただのフォロー役であるルカにまで話を下ろした。
そんなフィードを憎たらしいと思いながら、それ以上の負の感情を持つことができないのは、どこか境遇を重ねてしまっているからだろうか。
サリアの大事な幼馴染み、それ以上にはなれない自分。
たぶんこのフィードへの気持ちが癒える頃には、また新しい婚約者があてがわれる。一度破棄されたとはいえ、彼女自身の問題ではないからすぐに次は決まるだろう。きっと彼女は前向きにその人を愛そうとするはずだ。
見合いなどこりごりとなれば、恋人を探すかもしれない。それもそこまで難しい事ではない。望めばそう遠からず相手は見つかるはずだ。
そして、またルカはその相談という名の愚痴大会を聞くことになる。
どちらにしろ彼女の相手となることはない。決して。
そうなるのがわかっていて、苦しいのがわかっていて、しかし望んでしまう。他の人にそんな姿は見せてほしくない。その居場所は、ルカであってほしいのだ。
歪んでいるのはわかっていて、自分からは突き放すことができない。
なぜだか、彼女の横にあるマグカップが目に入った。
いびつに寄り添うそれは、もしかしたら自分なのかもしれない。
――サリアのことが、好きなのかな。
「愛してるに決まってる」
元婚約者に言えなかった言葉は、静かな研究室の中に溶けるように沈んでいった。