閑話・みしらぬばしょにて
こんにちは、世界。
宮辺紫こと紫には、大切なものがある。
それは彼女の相棒だったり子犬の様な少年だったり、双子の様な彼女だったり。
昔は片手で足りた。
しかし今では両手両足を使っても足りなくなった。
きっと喜ばしいことなのだろう。審査と銘打って遊びに来た彼女も笑っていたのだから。
紫のいた世界は、数年ほど前に時間を失った。
日は昇り沈む。人々は動く。――それなのに、老いることがない。
食料は減る一方。しかし、飢餓に苦しむことはない。いっそ殺してくれと喚き死んだ人間は数え切れない。
自害もできない。それなのに、誰かが刃を向ければ死ぬことができた。
皮肉な話だ。
死に切れなかった紫はいま、異世界で生きていた。
「むかしむかし、あるところに……」
ふと、志貴に聞いた昔話を思い出す。
そして同時に、自分がこの世界に来たばかりのころの話も思い出した。
* * *
「いい? これがお米。こう……こうして書くのよ」
白紙の上に丁寧に書かれた文字に、紫は無表情のまま頷いた。そして、目の前でお椀に盛られた白米を見つめる。
義母となった志貴は、馬鹿にするでもなく呆れるでもなく熱心に紫を向き合った。嫌に隠したがる左目用に眼帯を買い与え、礼儀〈マナー〉を教え、小学生でも知っている物の名前を挙げる。
砂が水を吸収するように、紫は知識を頭に入れていった。志貴が一度漢字を書けば、筆跡さえ似せて書く。
それがなんだかおかしくて、志貴はにこにこと笑いながらさまざまな話をした。
「それで……ああ、そうね。これで神様ってかくの」
言った志貴に、ぴたりと紫が固まった。
紫は何も言わずなにもせず、じっと志貴を見つめた。
「紫? どうしたの」
「カミサマ?」
「……あ、ええ。そうよ。神様」
いったとたん嫌そうに眉をひそめた紫に、志貴は首をかしげた。
何かあったのだろうか。ぼうっとしたところで、紫の声がかかる。
「こう?」
「……」
馬鹿と書かれた紙を一目して、志貴は苦笑した。
「紫は神様が嫌いなの?」
「いなくなればいいとは思う」
紫は無表情のまま志貴の書いた手本を見つめる。その表情からは何もよめない。しかし、嫌がっているのは確かだった。
「何故? 神様は私たちを創ってくださったのよ?」
「それは嘘かも知れない」
「あら……じゃあなんで貴方はそんなに神様をきらうの? いらっしゃらないかもしれないじゃない」
「……そう」
紫は、それきり黙りこんだ。
悔しそうに震える小さな体は、同情を誘う。
志貴は、困ったように笑った。
「ねえ紫、私の昔話を、聞いてくれる?」
紫はやはり、答えなかった。
「私にはね、大切な人がいたの」
何よりも、大切な人が。
紫は、こっそりと顔を上げて志貴を見た。
志貴は、何処か遠くを見ていた。
「その人がね、言ったのよ。神様は一生のうちで、人に難題を与えるって。それは人によって大きくも小さくもあるけれど、神様は一生懸命になれば必ず解けるものなんですって」
くすくすと笑って、志貴は紫の手に触れた。
「ねえ紫、世の中嫌なことばかりじゃないわ。勿論、嫌なことだってあるけれど。……哀しいことも、楽しいことも、辛いことも。全部つまったのが、きっと人生なのよ」
人生。
紫はその時、志貴の言っていたことが分からなかった。
きっと、そんなことを考える余裕すら、無かったのかもしれない。
それでも、今。
三人そろってチームだと。三人で一人だと。
そう言って笑った二人が、大切だと思う。
当時の志貴は、哀しそうな顔をしていた。
それなのに、目に浮かんでいたのは柔らかな光。愛しい恋しい、そんな言葉でしか言うことはできない。しかし、志貴はその人を大切だと確かに言っていた。
きっと“いた”のではない。
今でも、きっと大切だ。
それならば。
紫もまた、志貴と同じように誰かを永く大切だと思いたい。
たとえこの手で足りぬほど大切なものができたとしても。
大切だということを、誇りに思えるようになりたい。




