第一話
数年前のあの日、理事長こと志貴は泣いている少女を見つけた。
相変わらずの恋人にふられる毎日を過ごし自棄になった時。大きな橋の下で、座り込み泣いている少女を見つけた。
事故があったわけでも殺人があったわけでもないその場所で、少女は血まみれになったまま座り込んでいた。
謝り倒し震えながら、泣いていた。
着物のようなものをシャツの上に羽織り、下はズボン。奇妙な格好をした少女に、志貴は近づく。
ラベンダー色の長い髪、ぼろぼろの包帯で申し訳程度に覆われた左目、体中にかぶった生乾きの血。
はっとしてこちらを睨みつける少女に、彼女は息をのんだ。
青空のように澄んだ目を、していたのだ。
日本人の様な顔に取ってつけたような目の色。ハーフだろうかと思いながらもそれは違うと何かが悟っていた。
びりびりと肌を刺激するのはなんだろう。不思議と動悸が激しくなって不安になってきた。これが、殺気というものなのだろうか。
志貴は涙を止めこちらを睨みつける少女に、目を細める。
そして、娘にならないかと、唐突に尋ねる。
少女は睨みつけ警戒をしながらも分かりづらいほど小さく、うなずいた。
その日から、少女は彼女の娘となった。
彼女は痛々しく泣いていた少女の、母となった。
名前を尋ねると、少女は黙り込んだ。
何と答えればいいのだろうと考えているようだった。
しばらくすると、少女はゆかりとつぶやく。そして、にこりと何処かかけた笑みを志貴によこした。
私は志貴だと名乗ると、紫はさして気にも留めていないようにそう、とだけ答えた。
その後、志貴は驚愕することとなる。なぜなら紫は、食に関してすら常識を知らなかったのだから。
その時はまだ、今以上に紫のことが分からなかった。
さまざまな常識を紫に教え、歪な笑い方を指摘し、先の話をした。
初めのころ、紫は何も言わずにしたがっていた。しかしあるとき――その瞳をのことを知った。
紫は初めのころのようにこちらを睨みつけ、何かに耐えるように唇をかみしめた。
「紫は、ここではないどこかから来た」
紫の傷は告げず、志貴はその事実だけを口にした。
そう言いきって、彼女は息をのんだ。
思い出される、紫の痛々しい姿。
乾いた咳に吐き出された血。
いらないことをするなとくぎを刺されても――
「きっと、あの子は」
きっぱりと、彼女は二人に言った。
「異世界から、来たのよ」
奇妙な服装も、妙な緊迫感も、知識も、身体能力も、教えていない魔術も。
それならば、全て理由が分かる気がしたのだ。
「い……異世界って、そんなファンタジーな」
真面目な顔をした志貴に、岬は震える手をおさえていた。それを指差し、翠が笑う。
「変な顔」
「黙ってろよばか!」
キッと睨みつけようと、翠はどこ吹く風で志貴の話を聞いている。
その姿を見て、岬は小さくため息をついた。
「つか、なんでそんな冷静なんだよ……」
「紫が異世界が来たんだったら、今までの違和感がわかるだろう?」
そうかよ、とため息交じりにかえして、岬はぼんやりと考えた。
体が震えるのは恐怖からではないことを、岬は分かっていた。
不謹慎だが――岬は、その手の話に興味があるのだ。
図書室の本を手当たり次第調べ、異世界に対することの実験したことだってある。
誰も彼も手が届かない、未知なる異世界。それを――あの紫が体験した。
どくんと大きく脈打つ心臓。異世界とは一体どんなところなのだろう。紫にとってここは一体どんなところ?
そう考えて、岬は小さくため息をついた。
自分は一体何を考えているんだ。欲に満ちた思考に自己嫌悪をした。
そして、「血だらけ」で泣いていたという紫を想像する。ちくりちくりと痛む胸に、ほんの少し目を伏せた。
「つーかファンタジーってさ。この力もってんだから今さらだよな」
肩をすくめて翠は笑う。
それを見て、岬もそれはそうだと笑って見せた。
「案外、複雑なんだなあ……」
ぽつりとつぶやいた岬に、志貴は何も言わなかった。
* * *
ぐらっと揺らいだ視界に、紫は思わず舌打ちをした。
八月とはいえまだ長期休暇中だ。生徒たちは寮に数人程度しかいなかった。
不幸中の幸いだと自嘲し、壁に背をあずけた。
そして、ふと見覚えのある人物を見つけた。
「ん? おう、珍しいな一人でいるなんて」
何枚かのプリントを持って曲がり角に立っていたのは、まさしくカイトだった。
「せんせーじゃないっすか」
嫌そうにに紫が言えば、カイトは首をかしげて訝しげに紫を見つめる。
紫はそれに動じず毒をはくと、肩をすくめた。
「先生は今日もお仕事ですかー?」
「ん、ああ……まあな。補習やってる奴もいるし」
ふうんと大して気にもとめていないようにいうと、カイトはやはり首をかしげた。
「……なあ」
「なんですか?」
紫がにこりと笑いかけると、カイトはむっと眉を寄せた。
「お前、顔色悪いぞ」
「……まっさかあ」
紫は何かを言いかけ取り繕う。
それにカイトは小さくため息をついて、唸るように言った。
「マジだって。お前、ちょっと寝て来いよ」
カイトが紫の腕をひく。
体制を崩した紫はふらり前のめりになり――
「……お、おい!!」
気を、失った。
(交差する。交差する)
(世界も運命も過去も命も、何もかもが)
(全てが交差して、偶然が積み重なって。そして今ができていく)




