第五話
東也翠と東也葵は六つ歳のはなれた兄弟だ。
嫌に金持ちな父と、母を親に持つ仲の「良かった」兄弟。
兄である葵は、院長である父の跡を継ぐため幼いころから勉強を強要されていた。
日に日にたまっていくストレスのやり場はなく、幼いながらも疲れを感じ始めた時に、翠が生まれた。翠は、珍しい緑色の目だった。
人一倍日本の血を重要視していた父はその目の色を嫌い、翠に構うことはなかった。
しかし、お前はこの父の跡を継ぐのだと言われ続けた葵にとって、それはうらやましいことだった。
母は父に従順な人だった。家事は得意、しかし誰かに意見することのない流されやすい人。
だから父が翠を嫌い、あまり構わないようにと言われたことにも何も言わず従っていた。
次第に大きくなっていく翠の面倒を見ていたのは、興味深々な兄の葵だった。
放っておけと言われようとも、幼い弟の面倒をみるのは楽しく、幸せだった。疲れは吹き飛び、毎日が充実した。
翠が初めて口にした言葉は、「あお」という言葉だった。恐らくは、葵が必死に自分の名前を教え続けていた成果だろう。
笑いながら言った翠に葵は飛び上がるほど喜び、二人しかいないその子ども部屋で叫び続けた。
弟に構ってばかりの幸せな時間が終わったのは、葵が十一歳、翠が五歳になった時のことだ。
受験を控えた葵は翠の部屋に行くことを禁止された。
毎日毎日遅くまで勉強をさせられ、たまにお茶を持ってくる母親はいわば監視役と言ったところか。
懐かしい、行き詰って苦しい毎日だった。
ある日葵は父母の目を盗んで翠のいる子ども部屋へと向かった。
何カ月もあっていなかったので、緊張で胸が高鳴った。どきどきとする胸をおさえつつ、葵は扉を開く。
しかし翠は、子ども部屋にはいなかった。
慌てて辺りを見回すと、窓の外で遊んでいる姿が見えた。
その時初めて、大好きな弟が酷く憎らしく思った。
自分が血反吐を吐く思いをしているというのに、弟はのんきに遊んでいる。
憎らしくて、悔しくて、寂しくて、葵はそれ以来翠のことを考えなくなった。
以前は苛立った父の翠に対する嫌悪も、母の控えめな拒否も、気にしなくなった。
自分は正しく、翠は悪いのだと分かった。
ストレスがたまれば見かけた翠を蔑んだ。
必死に勉強する翠に、自分よりも上に行くことは無理だと見下した。
いつしか、葵にとって翠は大嫌いな存在になっていた。
野垂れ死ねば良い。苦しめばいい。一人になればいい。
そう蔑む葵の口とは裏腹に、どこか足りないものを感じていた。
二十歳を過ぎ、大学の長期休暇として誰もいないはずの実家に帰ってきた。
そこで会った翠は、同級生と楽しげに歩いていた。
お前は一人でいるべきだと、憤った。
お前はそんな輩とつるむべきではないと口にして――気付いた。
「俺は、お前の中でずっと“唯一”の存在でいたかった。俺の背中を見て、追いかけて欲しかったんだ」
気付いた時にはすでに遅かった。
翠は葵に対し何も感じないようになっていた。家族「全員」を嫌うようになっていた。
唯一の存在は、幼馴染の「岬」と、それからあの少女になっていた。
今まで口に出してきたのは多分言い訳だった。翠さえ一人になれば、また、昔の様に二人でいられると思った。
「認めたくなかった。だから一人になって、また、俺といて欲しかった……」
ふと顔を上げて空を見たとき、けたたましいエンジン音にきがついた。
(多分俺は、「こども」みたいなんだ)
(でも、それでも俺は)
* * *
「紫は、わけがわからないな」
「え、なんで」
ふとつぶやいた翠に、紫が非難気味に叫んだ。
同意した岬にはひじ打ちを喰らわせ、不満気味に翠に詰め寄る。
「ちょっと、どういう意味で? なんで僕が意味不明なの」
「ちょっと……なんで俺を殴ったの……」
ふらふらとした岬にはベンチを進め、立ち上がった翠がふと笑う。
「何が言いたいのか分からないからだろ」
「いや、翠のがわけわからないからね?」
言ったところで、ぴりりと携帯の着信音が鳴った。
「あ、電話」
携帯を取り出したのは、笑っていた翠だった。悪いと一言残して、二人に背を向ける。
そうしてしばらくしていると、億劫に携帯を仕舞った。
「病院行ってくる」
「え、なんで? どっかわるいのか?」
首をかしげた岬に交通事故にあったと簡潔にこたえると、ベンチに無造作に置かれていたバッグを取った。
「交通事故? 誰が」
「あの人……あー、兄さんが」
重傷らしいと何でもないように答えた翠に、紫はそうとだけ答えた。




