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第9話 屋久杉


 樹齢数千年の屋久杉の森まで数時間。


 ほぼ登山だ。あたしは足首に痛みが出ないか、不安を抱えながら歩いていた。走るのでなければ大丈夫。そう言い聞かせながら。


 幸い、足が痛むことはなく順調だった。


 整備された道を外れたら、そこは深い森だ。夏樹さんの背中を見失わないように、足元の道を外れないように十分に気をつける。


 昼食後には小雨が降り出し、薄く霧が出てきた。先頭から、夏樹さん、あたし、哲也の順で慎重に進む。奥へ行くほど、木霊こだまが住むような雰囲気のある森が広がり、だんだんと霧が濃くなってきていた。


 あたしは、夏樹さんの背中を追う。


 けれど、先へ進めば進むほど夏樹さんの歩く速さが増し、その背中を霧が覆い隠していく。夏樹さん、待って。夏樹さん。

 あたしの声が聞こえないのか、少しも足を緩めることなく、どんどん、どんどん先へ。追いつけない。

 その背中が森に溶けるように消えてしまった。夏樹さんを見失ってしまい、後ろの哲也に声をかけようとしたけれど、いつの間にか、哲也の姿もなかった。


 霧に覆われた足元は整備された道でもなくなっていた。前にも、後ろにも、横にも、どこを見ても誰もいない。

 不安が押し寄せ、あたしは叫び声をあげようとした。しかし、まるで声は出ず。自分がどこにいるのかわからない、そのことが。


 自分の居場所を確かめるように携帯を手にしてみる。けれど、やはりそれは圏外だった。


 霧に覆われた森の奥で、ひとり。


 迷い子? いや、もしかしてこれは遭難? なんだっけ、こんな時は闇雲に歩き回らない方がいいって聞いたことがある。

 じっとしていれば、夏樹さんや哲也が探しに来てくれるだろう。そう思うと少し安心して。からからに乾いて舌を張り付かせていた喉が、少しだけ潤った。


 夏樹さん! 哲也!


 あたしの声が霧の向こうに消えていった。返事はない。決めた。少なくとも霧が晴れるまで動かない。


 じっとしていると決めると、また不安が襲ってきた。あたしはここにいると叫んでも、誰も気付いてくれないのかもしれない。本当の1人がこんなに心細いなんて。姉ちゃん、母さん、父さん、夏樹さん、哲也、美奈、あたしはここだよ。


 見失う前、夏樹さんの背中を追っていたけれど、森の中へ溶け込むように消えてしまった。昔読んだ狐の話みたいだ。

 不思議なところのある人で、そういえば、夏樹さんがどこに住んでいて何をしている人なのか、あたしは全然知らない。電話番号とアドレス、IDとハンドルネーム。自称大学講師、また塾講師。夏美さんという妹さんを亡くしている。それぐらいか。

 もしかして人を惑わせるオバケだった? ううん、違う。たとえオバケでも、悪いオバケじゃない、絶対に。


 誰か探しにこないか、他の登山者が来ないか。耳を澄まして待つうちに時間だけが過ぎていき、霧が晴れた頃には、あたりは薄暗くなってきていた。

 日が落ちると暗くなるのも早い。

 まだ7時か8時か、そんな時間なのに、真夜中のように思える。樹々の影がずっしりと重く、鳥か虫か、草薮を揺らす。


 怖くてたまらない。


 あたしは、いま食べてもいいのか迷いながら、行動食にと持たされていたウイダーinゼリーを口にして待つ。待つ、待つ、待つ。でも、誰も来ない。


 完全に夜を迎えた。夕立がなかったのは助かったけれど、真夏でも夜は冷えてくる。今度は寒さに震えて座り込んでいる。

 寒い、寂しい、どうして誰も来てくれないの。どうすれば? 暗い土を見つめていたあたしの目に、優しい光の粒が見えた。顔を上げると、そこには、無数の蛍が舞っていた。


 ちらちらと光を放ち、黒々とした樹々を浮かびあがらせる。幻想的で、寂しく、儚く、なぜか少し怖い。ヤマは魂が帰る場所。ホタルは亡くなったヒトの魂。そんなことが頭をよぎる。


 闇雲に動いちゃダメだ。


 あたしの中の冷静な部分がそう叫ぶけれど、あたしの足は、蛍の飛ぶ方へ勝手に歩き出していた。


 いくつものかすかな光は、消えたり現れたりしながら、ふわふわと森の奥へ誘う。どれだけの時が経ち、どれだけの距離を歩いたのか、あたしは屋久杉の森に着いていた。


 樹齢千年以上の巨木が独りで立っていた。


 蛍の光が薄れ、代わりに空が白みはじめていた。苔むした幹や血管のように伸びる木の根を、柔らかな日差しが温める。


 あたしと古木のほか誰もいない。


 ビルのように大きな幹の向こうから太陽が顔を出す。何千年もの間、こうして日が昇り、あるいは雨が降り、そこに立ってきたのだろう。

 あたしは理解した。このヒトは、何千年もの間、陽を浴び、風に揺られ、雨に濡れてきたんだ。千年前には、あたしは居なかった。姉ちゃんも、母さんも、父さんも、夏樹さんも、哲也も、美奈も、みんな。

 千年後も、このヒトはここに黙って立っているかもしれない。でも、そこにあたしたちはいない。当たり前のいまじゃない。いまが奇跡なんだ。


 日の光に不吉な暗がりがはらわれ、ほろほろと静かに洗われていく森の中で、あたしも黙って立っていた。そのままどこかへ連れ去られてしまいそうな気持ちになった時、


 おーい、おーい。


と、哲也の声が聞こえてきた。ふっと緊張が解け、なにかを掴みかけていた、あるいは、なにかに掴まれかけていたあたしは、この世に戻ってきた。哲也がほっと息をつく。


「涼子、やっと見つけたよ」


「よかった。探してくれたんだね。ありがと」


「ん、何言ってんだ。俺がはぐれてたんだぞ。もうダメかと思ったよ。夏樹さんは?」


「ちょっと待って、あんたも迷ってるってこと? 帰れないじゃん、バカ!」


「バカ、バカ、言うんじゃねぇ! おまえも迷い子なのかよ! バカ!」


「バカは、あんたよ!」


「いや、おまえだ!」


「なによ、このバカ! 唐変木のおっちょこちょい!」


「なんだと、このバカバカバカ!」


「あんたこそ、バカよ、バカバカバカ一代!」


 と罵りあっていたところ、ちょっと静かにしてもらえますかと怒られた。夏樹さんじゃない。大木の向こう側が登山道になっていて、たくさんの登山者が訪れてきていたのだ。


「帰れるね」


「だな」


「でも、夏樹さんが……」


 どこにいったのかと考えながらうつむくと、ポケットからかすかな光がこぼれた。朝日に消えた蛍の光のような。

 あたしのズボンのポケットには、帰りのチケットといくらかのお金、それに手紙が入っていた。サマボちゃんより、と書いてある。



 涼ちゃん、元気になったでしょ。

 もう神様はいらないね。私の食べるだけじゃない生きるは、あなたを元気にすることだったのかも。私は満足です。

 明日午前0時に、私はいきます。あなたには未来がある。失われるその日まで、しっかり生きて。哲也くんにもよろしくね。楽しかったよ。



 内容はよく分からなくても、どこか不吉で寂しく、夏樹さんが自分から姿を消したことが感じられた。どういうことなのか、なにが起こっているのか、嫌な予感を抱えながら山を降りた。


 山のふもとまで降りたにも関わらず、ごうごうと強い風が吹いている。雲を吹き散らして遠くに雷が轟き、光がきらめく。南から台風が近づいてきていた。


 携帯電話が繋がることを確認して夏樹さんに電話をかけてみた。誰も出ないのではないか、そう思ったけど、長く重い呼び出し音に続けて応答があった。


「はい、川辺ですけど……」


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