第7話 上陸
フェリーを降りると、そこはもう屋久島だった。といっても、見た目は、そこらの港町と変わらない。普通にビルや家もあって、秘境の地をイメージしていたあたしとしては拍子抜けだ。1万人以上の人が住んでいるらしいので、当たり前のことだけど。
ただ、グーグルマップで見て驚いた。
人が住んでいる街並みがあるのは島の外周だけで、あとはもう、森、森、森だ。
「ちょっと、涼ちゃん。こんなとこまで来てスマホと睨めっこ? やーねぇ、現代っ子は」
「いや、でもすごいですね。人が住んでるところなんて、ちょっとじゃないですか」
「そうよ。今回の旅の目的地は、その人の住んでいないところ。屋久杉を見に行くの」
にっと笑って夏樹さんが宣言する。でも、その前にまずはベースキャンプの設営ねと続けて。あたしたちは、島の外周を走るバスでキャンプ場へ向かった。
あたしも哲也もキャンプをするのは初めてで、何をどうすればいいのか。夏樹さんは手馴れたもので、管理棟でテントから寝袋からレンタルして、テキパキと準備を指示してくれた。
5人用の大きめのテントで、荷物を置いても広々としている。なんとなくワクワクするけれど、
「夏樹さん。こいつも一緒に寝るの?」
「こいつって、俺のことかよ」
「あんた以外に誰がいるのよ」
「まあまあ、お二人さん、痴話喧嘩は……」
「「違うっての!」」
「はいはい。さすがに外じゃかわいそうでしょ。まあ荷物で区切るし、襲ってきたら、ちょん切ってやりなさい」
「ナニを?」
「ナニをね」
くすくすとほくそ笑む女2人に、ひぃ、と顔を青ざめさせる哲也である。まあ冗談はさておき、と夏樹さんがいう。
「さて、屋久杉見物は明日にして、まずは海を堪能しつつ食い扶持の確保だね」
道中で買ってきた水着に着替え、レンタルしてもらった足ヒレ、シュノーケル、ヤスを持って海へ向かう。モデル体型の夏樹さんの後ろ姿は、あたしが見ても魅力的だった。哲也が鼻の下を伸ばしていたので、とりあえず無言で蹴り飛ばしておいた。
「いて! なんだよ〜」
「べつに〜」
「ははぁ、あれか。ヤキモチか」
「な! ち、ちゃうわ、ボケ!」
「まあ、お、おまえも、か、か、か……」
「か?」
「か、かわいいぞ」
言った哲也が、一気に顔を真っ赤にしてしまった。こっちが照れる暇もない。
「あんたが照れてどうすんだ? 照れるぐらいなら言うな! こっちが恥ずいわ!」
もう一度、哲也を蹴り飛ばす。ちょうど海に着いたところで、夏樹さんが手を叩いていう。
「はいはい、夫婦漫才はそこまで。こちらに注目!」
「いま夫婦漫才って言いました?」
とのあたしの突っ込みに、夏樹さんは表情も変えずに応じる。
「言ってません。いまは真面目な話の最中です。素潜りでは、耳抜きもしないといけないし、ふざけてると危ないから、言うことをよく聞いてください」
「「はい」」
「うんうん、返事がそろってていいね。きみたちは、本当に仲が……」
「「よくない!」」
「……突っ込むのも疲れてきたねぇ。まあよろしい。素潜りでは、十メートルも二十メートルも潜る人もいるけど、この海なら五メートルも潜れれば大丈夫。十分、魚を突けるよ」
夏樹さんは、慣れた様子で素潜りの注意点を伝え、あたしたちを1人ずつ指導してくれた。
潜ろうとしても、最初は足を水の外でバタバタするだけだったけれど、そのうち空を蹴るような感覚が身についた。すっと頭を下にして、水面下に足ヒレを潜らせると、垂直に、すいっと落ちていく。ほんの数メートル潜っただけでも、プールで潜るのとは違う面白さがあった。
一方で、底に向かうほど不吉な暗さが増す。
足のつかない場所で、人工物のない海に入るのは怖い。自分の無力さを思い知る。もし、いま足が攣ったら。もし、いま海蛇に襲われたら。ああ、なんて小さく弱い生き物なのか。
でも、その怖さがあるからこそ、海の底から空を見上げた時、その明るさと美しさに身を震わすことになったのだろう。
見上げた空は、きらめき、絶え間なくゆれ動く海面の向こうで、たしかに光を放っていた。波にあわせて表情を変えながら。
苦しくなってくる息をつなぐために海面へ向かう。薄い光の幕を突き破って顔を出すと、焼けつくほどに眩しい太陽が青空に輝いていた。
ただいま。
足ヒレをゆらゆらと動かしながら、波に揺られて立つ。海と空の間で、あたしは、ふわふわと浮かんでいた。うまく言い表せないけれど、大切なことを学んだような気がしていた。
しかし、肝心の魚突きは成果がなく、あたしも哲也も、一匹も突けなかった。カワハギのような魚から熱帯魚、頭にコブのある大きな魚まで、たくさんの魚を見つけたけれど、潜るだけで精一杯だったのだ。落胆した様子のあたしたちを見て、夏樹さんが笑う。
「まあそんなもんだよ。後は私に任せなさい。きみたちは戻って、ごはんを炊いておいてくれるかな?」
「え〜! 無理だよ」
「それは、しないこと? それとも、できないこと? 米は買ってあるし、飯ごうも借りてあるから頑張ってみなよ」
後は、あたしたちの返事も待たず、とぷん、と海へ消えてしまった。
夏樹さんが海で奮闘していただろう時、あたしたちも飯ごうと奮闘していた。飯ごう炊飯なんて初めてで、何をどうすれば良いのか。結局、米は黒焦げになり、出来上がりは食べられたものじゃなかった。戻ってきた夏樹さんに謝ろうとしたけど、
「ごめんなさい!」
と夏樹さんの方から謝られてしまった。
その表情は暗く、あたしたちと目を合わせようとしない。ヤスとシュノーケルと足ヒレ以外に荷物はなく。どうやら魚は獲れなかったらしい。
「ま、まあ米と塩があれば。ね?」
「……米は、全部黒焦げになりました」
「ぜ、全部?」
驚いた様子で飯ごうの蓋をあけた夏樹さんが、がっくりと肩を落とした。哲也とあたしと、あんたのせいよ、おまえのせいだろ、などと肘で突つき合っていると、
「よし! こうなったら力技よ」
と夏樹さんがガバリと身を起こした。炊事場の流し台に、財布を叩きつける。
「だいじょうぶ、お姉さんに任せなさい!」
おおー、ぱちぱちぱち。拍手を送るも、夏樹さんは、思い出したように財布の中を確かめて、今度は小さな声で謝った。
「ごめんなさい。そんなに大丈夫じゃなかった。あは、ある程度は大丈夫だから安心して」
なんとも頼りない話だったけれど、ここまでの電車やフェリーの運賃、キャンプ場の利用料から諸々のレンタル代まで、お姉さんに任せなさいと、すべて出してもらっていたのだ。
あたしも哲也も、そんなに持ち合わせがあるわけもなく、夏樹さんと3人あわせて一万円しかなかった。帰りのチケットは買ってあるから、あとはバス代と食費、着替えや洗濯代だ。
3人で頭を突き合わせて、うーんと唸ったあげく、売店でカップ麺を買って食べることにした。屋久島に来て最初の記念すべき昼食がカップ麺か、と残念に思いつつも、どこで食べても美味しいカップ麺の破壊力を再認識した。
昼からは、海と旅の疲れか、3人揃って涼しい木陰で昼寝をして過ごした。気温は高くても、カラッとした空気と風が心地良かった。
夕方にはスコールみたいな激しい雨が降り、それが上がると一気に涼しくなった。むしろ肌寒いくらいだ。洗濯をして、シャワーを浴びて、もう一度、カップ麺を食べて晩ごはんを済ませた。日が落ちると、街の灯りも届かないためか急に暗くなってくる。
雨用の覆いを外すと、テントの中にいても星空が見えていた。星空の美しさを感じると同時に、妙な寂しさと心細さを覚える。
外と内を区切るのが薄い布一枚と思うと不安を感じずにはいられない。我が家のありがたみを思う。
あたしは、いま、山のあなたへ来ている。
おかしなもので、家ではどこか遠くのことを思いながら、旅立った先では家のことを思う。きっと山のあなたは、逃げ水のようなものなのだろう。
見えているのに近付くと消えてしまう。幻の水は、人を誘い、惑わし、悲しませるけれど、そのために足を前へ進められるのも確かだ。
いつも仕事でクタクタの父さん。職場の上司の悪口や愚痴をいう姿は格好悪く、母さんも苦い顔だ。母さんは母さんで、家事をこなしてパートに行って、えらい、えらいと繰り返している。それでも洗濯や弁当をサボったりはしない。
しょぼくれた大人にはなりたくない。夢とか趣味とか、それこそ旅をしたりしないのか。そう思っていたけれど。しないんじゃない、できないんだ。
学資のことで喧嘩してたこともあったっけ。自分は関係ないなんてことはなかったんだ。食べて寝て、服を整えるだけで、こんなにお金がかかるんだ。
ぐーぐーと腹の虫が鳴く。
穴場のキャンプ場で、ほかの利用客は少なかったけれど、その日の夜、がやがやと大勢の人が入ってきた。テントの中からそっと様子を伺うと、夏樹さんと同年代の男の人ばかりで、パッと見は、ちょっとチャラいような、少し悪そうな感じの人たちだった。
満点の星空の下、薄い布一枚を隔てて。あたしは、かなり不安を感じていたのだけれど、少し経って、腹の虫を刺激するような良い匂いが漂ってきた。
楽しそうな笑い声とともにバーベキューだ。
そのうち外から、騒がしくしてすいません、まだお休みでなければ一緒にどうですかと誘いがあった。
腹の虫で返事をして、みんなでテントを出ると、ぱちぱちと弾ける炭火の音が広々とした夜空に溶けるように。見た目と違って、優しい人たちで、なにくれと世話を焼き、あたしや哲也に、焼けた肉を取り、ジュースやお菓子を振る舞ってくれた。
もちろん、夏樹さんみたいに綺麗なお姉さんならいつでも歓迎ですなどとチャラいところもありながら、屋久杉を見に行くと伝えると、
「いいよなぁ。屋久杉は、心が洗われるよ」
「おまえの心じゃ汚れすぎてて無理だ」
「おい!」
などと楽しそうにしていた。
その日は、お兄さん方の好意に甘えて、お腹いっぱいになって眠った。翌日には、マンゴー農園へ向かうという一行を見送りながら、世の中、良い人ばかりじゃないけど、悪い人ばかりでもないと思った。
そんなあたたかい気持ちでキャンプ場を出発するつもりだったのに、夏樹さんと哲也と、喧嘩しながら出発する羽目になってしまった。