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第11話 行こう


 あたしは行くと決めた。


 台風が来ようが、寄り道で家までの旅費が足りなくなろうが、誰がなんと言おうが、あたしは行くと決めた。哲也もそのつもりだ。姿を消した夏樹さん、病院にいると言われる夏樹さんに会いに行こう。


 本当のところは、何が起きていたのかわからないけれど、夏樹さんが教えてくれたんだ。できないことと、しないことと。


 午前零時に何が起きるというのか、あたしたちが行くことに意味があるのか。なにも確かなものはない。ただ、夏樹さんの透明感のある声と笑顔を思い出すと胸が苦しく、行かないわけにいかないんだ。


 行かなければ、きっと後悔する。


 気持ちばかりが焦るけれど、フェリーは定められた時間、定められた航路でしか進んでくれない。


 台風に追われるようにしながら、昼過ぎには無事に鹿児島市内に着いた。 帰りの切符を払い戻し、さらに、バスと電車で病院へ向かう。


 次第に風雨が強まり、台風の影響で運休や遅れも目立ち始めていた。


 阿蘇山が見えてきた頃には、すでに日も落ちていた。完全に台風に追いつかれ、阿蘇駅から二駅ほど過ぎたあたりで、列車が停止した。病院はまだ先だ。あたりが暗くなってくるなか、歩いて戻れる駅方向へ誘導するとアナウンスが流れてきた。


「哲也、どうしよう。いまから駅へ戻ってたら間に合わない」


「だよな。でも、どうしようもないだろ。しないことと、できないことと言ったって、なんでもできるわけじゃないさ」


「うん、でも……」


「とにかく駅へ戻ろうぜ。それから考えよう」


「……うん」


 二両編成のローカル列車に乗っていたのは、あたしたちのほか数人で、簡易な雨合羽を渡されて並んで外へ出た。暗い空を突いて樹々の梢が揺れている。

 激しい雨風がビニール製の合羽を叩き、不規則で不快な音を立てる。内に籠もる湿気と熱が気持ち悪い。息苦しい。


 まるで海の底に潜っているみたいだ。


 学校や家で息ができずにいたあたしを救ってくれたのはサマボだった。明るく脳天気で、飄々としながら、どこか儚く寂しい人。旅人を山へ誘い込む狐か、あるいは、さまよう蛍の光のような。

 夏樹さんの魂が、夏に誘われて病院を抜け出したんじゃないか。そう思える。山は魂が帰る場所。蛍は亡くなった人の魂。


 蛍の成虫は二週間ほどしか生きられない。


 できないことと、しないことと。列車から降りて、行く手を見ると、かぼそい線路が延々と続いている。暗い穴ぐらのようなトンネルへと消えていく、その先に夏樹さんがいるんだ。


「涼子、どうした?」


 雨風に掻き消されそうな哲也の声に、ゆっくりと振り返る。あたしは、息苦しいフードを外すと、口にヘアゴムを咥えて、髪の毛をまとめた。凶暴な風が、雨が、容赦なく降り注ぐ。でも、


 負けない。負けて、たまるか!


 ヘアゴムで髪の毛を留めると、眼鏡を外して哲也に手渡した。両手を降ろして拳を握りしめる。ばちばちと、平手打ちのような雨が頬を叩く。


「哲也、あたし、行かなくちゃ。

 意味なんてないのかもしれない。もしかしたら、別の人なのかもしれない。狐に化かされたのかもしれない。でも、それでも、行かなくちゃ」


 くるりと背を向けて、戻るべき駅とは逆方向へ走り出したあたしに、


「涼子!」


と哲也の声が追いかける。


 その声で気付いたのか、列車の前方から降りてきた車掌さんが立ちはだかった。どこへ行くんだ、そっちは危ない、と真っ当な意見と心配から、あたしを引き止める。

 さらに哲也も。哲也もあたしを引き止めるかと思ったけれど、そうじゃなかった。車掌さんとあたしの間に割って入って、


「行け! 行けよ、涼子」


と声で背中を押してくれた。あたしは頷くと、暗い線路の先を見据えて、もう一度走り出した。


 等間隔で置かれた枕木をテンポよく踏んで走る。暗い中でも、だんだんと目が慣れ、足が慣れてきた。

 長距離は苦手だけれど、走り出すと体が自然と動いてくれる。汗と雨粒が混ざり、あたしが起こす風と吹きつける風とがぶつかりあって、よくわからない熱と力が湧き上がってくる。


 いまなら、どこまででもいける。


 そんな風な気持ちになった。走りながら携帯電話を取り出す。いまは何時か、目的地まで何キロくらいか。明日まで、あと何時間か。今日という日が、あとどれだけ残っているのか。間に合うのか間に合わないのか。しかし、携帯の電源はつかなかった。雨合羽の隙間から水が染み込み、ずぶ濡れになっていたんだ。

 あたしは、立ち止まって雨合羽を剥ぎ取った。邪魔なビニールが無くなって体が自由に動く。体をほぐしながら考える。


 電車が止まったのが九時ごろ、目的地まで残り二十キロほどだった。ハーフマラソンならニ時間強でいける。だいじょうぶ。十分、間に合うはず。


 暗い山の中、誰もいない場所でクラウチングスタートの姿勢を取った。頭の中で、号砲を鳴らす。行く手を阻むように降り注ぐ、雨と風と闇とが足を止めようとしてくるが、いまのあたしの敵じゃない。

 一度ずぶ濡れになってしまえば、雨なんて怖くない。風だって、あたしが作っているんだ。闇も、目が慣れてしまえば、足が慣れてしまえば、何も怖くない。まるで自分が雨になり、風になり、闇になったみたいだ。何も怖くない。


 走って、走って、走って。


 足首に、ずきんと痛みがあった。前に味わった以上に激しい痛みだった。でも、あたしは立ち止まらない。空も見上げない。

 いま立ち止まってしまったら、再び走り出すことはできない。そんな気がしていた。痛む右足を庇いながら走り続ける。


 走る。走る。走る。


 ずきん、ずきん、ずきん。踏み込む度に、右足首から背中へ突き抜けるような激痛が走る。


 ああ、神様、サマボ様、もう、一生走れなくても構いません。どうか今晩だけは、あたしから足を取り上げないでください。


 夏樹さんの病院まで、あとどれだけ? 明日まで、あとどれだけ? 何時間? 何分?


 海の底から見上げる空は遠く暗い。


 海面はどこにあるの。暗い夜の出口はどこ。あたしはどうして走ってるの。もう走らなくてもいい?


 がくんと右足の力が抜けて、あたしは派手に転んだ。枕木と砂利に顔を埋めて、思いがけない転倒に呻いた。両手をついて立ち上がろうとしても、右足に力が入らない。ぐらぐらと揺れる船の上にいるみたい。


 左足一本で立つ。


 ゆっくりと右足を下ろすと、ずきずきと鈍い痛みが伝わってくる。それは自分の足じゃないみたいに言うことをきかない。

 歩くことすらままならず、かかりつけのお医者さんの言葉を思い出した。歩けることに感謝しなさいと。

 まったくだ。かなりの距離を走ってきて、体感では、そろそろ目的の駅が見えてくるんじゃないか、そんなところまで来ている。


 それなのに、あたしは立ち止まったままだ。


 深い夜の底に一人。誰も助けてくれない、誰も道を示してくれない、誰も未来を教えてはくれない。だから、あきらめる?


 いや、もし間に合わなくても行こう。


 あたしは、ずぶ濡れになって冷えてきた体を無理やり動かした。左足を前へ。右足を引きつけて。左足を前へ。また右足を引きつけて。

 風も雨も闇も、あたしの邪魔をすることはなかった。風が吹きつけるほど、雨が叩きつけるほど、闇が深まるほど、自分の体がそこにあることを強く感じた。あたしの体は、どこまでもあたしの味方だった。たとえ右足が言うことをきかなくても、疲労が足を止めようとしても、それでも、あたしの最後の味方は、やっぱりあたし。


 夏樹さんの笑顔と声を思い出した。あたしが間に合わなければ夏樹さんは死んでしまうのだろうか、それとも間に合っても死んでしまうのだろうか。


 雨に誘われたのか、涙が出てきた。


 足の痛みによる涙なのか、何かを後悔しての涙なのか、馬鹿げたことをしている自分を憐れんでの涙なのか。雨に涙を溶かしながら、一歩ずつ、一歩ずつ歩く。無限と思える長い時間を歩き続けて、ようやく目当ての駅へ着いた。

 無人駅を降りて、そう遠くないはずの病院を探す。それは、まだ少し先の丘の上に建っていた。駅前に設置された時計は、午後十一時五十分を示している。周囲に、バスはもちろん、タクシーの姿もない。


 目測で、走れば五分、歩けば十分。


 歩いていたら間に合わない。それも右足を庇いながらじゃ無理だ。あたしは、すっと深く息を吸って、右足をガッチリと地面につけた。


 びりびりと電気が走るような痛み。


 絶対に間に合わせる。痛いのは足首だけだ。足全体を動かせば、機械のごとく前へ出られるはず。


 あと五分だけ、お願い。


 あたしは、生まれてこの方、ずっと一緒に歩いてきた右足に感謝を捧げた。これが最後になるかもしれないね。でも、行こう。


 悲鳴をあげる足首をそのままに、降り続く雨の下、風をきって走る。走ることの嬉しさ、爽快さを糧に、前へ、前へ。あたしの足、体、心、みんな、どうかあと五分だけあたしを助けて。


 果たして五分ほどだったのか、あるいは十分を超えてしまったのかわからないまま、病院にたどりついた。右足を引きずりながら、緊急窓口を探す。

 ずぶ濡れのあたしを見て、窓口にいた年配の職員さんが驚きの声をあげた。足を引きずって、手や顔にも擦り傷だらけ。交通事故にでもあったのかと思ったらしい。そんなことより、時計、時計は?


 時刻は、午前零時ちょうど。間に合わなかった? しかし、時計、時計、と半狂乱になって時計を探していたからか、職員さんは、ここの時計は五分遅れてるんだと教えてくれた。それより、いったいどうしたのかと聞いてくる職員さんの制止を無視して、夏美さんから聞いていた病室へ向かった。


 ちょっと待ちなさいと追ってくる声に捕まる前に、半ば転げるようにしながら壁伝いに走る。


 暗い廊下、暗い病室が続く中、電気がついている部屋があった。吸い寄せられるように向かった先、そこが夏樹さんの病室だった。


 ドアを開けると、せわしない雰囲気でお医者さんや看護師さんが立ち働いていた。突然の闖入者に驚きながらも手を止めることはない。代わりに夏樹さんによく似た二十歳くらいの女性が、ふらつくあたしを受け止めてくれた。夏美さんに違いない。


「水島涼子さん? 本当に来たの? こんなにずぶ濡れになって。あちこち怪我してるじゃないですか」


「夏樹さんは?」


 問いかけに、夏美さんは弱々しく首を振った。


「あなたの電話が気になって、私も様子を見にきました。少なくとも明日を迎えるまでは一緒にいようと思って。でも、つい先ほど、急に顔色が悪くなって、脈が弱くなってきたのです」


 夏美さんの言葉を裏付けるように、お医者さんが脈をみている。その手の持ち主は、たしかに夏樹さんだった。飄々として能天気で、頼りがいかあって、そのくせどこか抜けていて、悪戯好きで、でも憎めない。愛すべき人。


 病室内の時計が零時を指した。


 お医者さんが腕を離し、心臓マッサージを始めた。やっぱり、あたしなんかが来ようが来まいが、零時に逝くというのはこういうことだったのだろう。


 夏美さんの「姉さん!」と呼ぶ声。


 無力なまま立ち尽くすあたしの前で、夏樹さんが逝ってしまう。お医者さんが額の汗を拭い、心臓マッサージの手を止めた。


 残念ですが、と言いかけるのを遮って、あたしは転げ込むようにベッドに突撃すると、夏樹さんの胸を叩き、頰を叩いた。


「夏樹さん! 起きてよ、ちゃんと起きて。勝手に満足しないでよ。人に託すな、バカ!」


 もう一度、その胸に拳を叩きつける。


 できることと、しないこと。でも、なんでもできるわけじゃない。人は、いつか死ぬ。


 夏美さんが、あたしの肩に手をおいて眼を押さえた。あたしは夏美さんの顔を見て、夏樹さんの顔を見た。その顔は、旅の間、あたしたちをからかい、楽しませ、笑わせてくれた優しい顔そのものだった。ただ青白く色褪せていく。その顔に、


 少しずつ赤みが戻って。


 夏樹さんの手がぴくりと動いた。ゆっくりと持ち上げられた手が、軽く、ぽんとあたしの頭に乗った。


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