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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

秘密の国

作者: 七尾 朗

 静かに降り続ける雨の中を、男は走る。

「逃がすな、追え!」

 常人よりも良い男の耳は、背後から迫る足音に混じって犬の鳴き声を聞き取った。その獰猛な鳴き声は、間違いなくドーベルマンのもの、訓練された警察犬のものだった。

「畜生、畜生!」

 ゴミ箱を蹴飛ばし、浮浪者を足蹴にしながら灰色の路地裏を何度も曲がる。お世辞にも綺麗とは言えない埃っぽい空気を吸っているせいで、とてつもなく息が苦しい。

 もう少し、もう少しの辛抱だ。

 複雑な裏路地を何度も迂回しながら逃げたおかげで、追手から随分と距離を置くことができた。

 もちろん時間をかければ警察犬による追跡で捕まってしまだろうが、それよりも隠れ家で匂いを消す方が先だ。

 慣れない運動に空気の悪さが重なり、肺や筋肉が悲鳴を上げていた。次に止まったらもう動けないほど酷使した足に鞭を打ち、必死に両手を振って駆け抜ける。

 今の男は、まるで短距離走の速さでマラソンをやっているようだと言えるほど無茶なことをしていたが、追手に捕まることを考えるとまだ良い方だ。

 もう少し、もう少し、そこ!

 長かった逃避行に終わりが見えた。

 目の前にある脇道に逸れれば隠れ家にたどり着く。そこで、これから始まるであろう長い逃亡生活の準備をしよう。

 そう思った男が最後の力を振り絞って足を速めようとしたまさにその瞬間、男は目の前に突如現れた光に視界を奪われた。

 さながら太陽のように強い光を背に、数人の人影が男の前に立ちふさがる。

 ようやく回復してきた目は、その人影が灰色の制服と同色の制帽を身に着けているのを捉えた。見紛うことなき内務省公安部の制服である。

 先回りされたか。

 男は舌打ちした。体の状態が万全ならば、立ちふさがる人影の一人に体当たりでも喰らわせるぐらいの抵抗ならできただろうが、間の悪いことに彼はつい一分前まで全力疾走をしてきた身。そんな体力など爪の先にも残っていなかった。

 人影が何か取り出すが、もちろん逆光で何も見えない。実際、相手も見せる気などさらさらないのだろう。

「リンド=カストル。この令状の通り、君には国家混乱予備罪の疑いがある。同行願おう」

 偉そうな声に反抗する術もなく、男は両手に手錠をはめられる。

 前後を固められ、裏路地を歩かされる。

 ……もう俺は終わりだ。だけどせめて何か、こいつらに吠え面をかかせたい。

 そう思った男は、前を歩いている制服男の首筋に目を付けた。

 一つ深呼吸して、足を止める。

「おい、止まるな」

 不審に思い近づいてきた後ろの護衛のすねを踵で蹴り、両手を前に突き出して制服を掴む。

 そしてそのまま、首筋に噛みついた。

「この野郎!」

 男の口の中に鉄臭い味が広がる。

 振り払われた男は、たちまち起き上がった後ろの護衛に組み伏せられた。

「クソッ、殺してやる、国家の敵め!」

 首筋を真っ赤に染めた護衛は拳銃を抜き、男の額に銃口を向けた。男を組み伏せているもう一人も、あえて止めはしなかった。

 溢れ出んばかりの怒気で震えている銃口の先を、男はぼんやりと見つめる。不思議と死に対する恐怖はなく、俺が死んでも妻と娘は上手く生きていけるだろうかとか、そういうことを考えていた。

「何とか言えよ!芸術家ってのは感情がねえのか!」

 その言葉に男は怒りを覚えた。だが、それ以上の憤怒に染まった表情をしている護衛を見て、口元を歪めた。

「へっ。撃てよ公僕、呪ってやるぜ」

「ああ、やってやるとも!」

 そして、音楽家であった男が最後に聞いた音は、芸術からは程遠い無粋な銃声だった。

 後から威厳を振りまきつつやって来た制服の男は、死体を見て眉を顰めた。

「銃声を聞いてわざわざ駆けつけてみれば……マイスナー少尉、私は『殺すな』と命じたはずだが、なぜファング曹長は彼を射殺したのだ?」

「ですが中尉、この男は激しい抵抗を示しました」

「全く……仕方ない、総員引き上げ!」

 中尉と呼ばれた男の号令で、粛々と後片付けが始まる。そして男の亡骸は車に乗せられ、辺りには何も残らなかった。

 車の中には、今流行りのエレクトロ・ヴォーカル・ミュージックが流れていた。元来の音楽を愛した男、リンドにとってそれは、死よりも忌み嫌っているものであった。


 電子の音が溢れる今、楽器の音を生で聞く機会は激減している。

 現在、音楽と言えばデジタル音楽を指す。そして、様々な楽器を使うアナログ音楽は絶滅したとさえ言われている。

 だがしかし、それは嘘だ。

 アナログ音楽、いや本来の音楽は、今でもこの世から去ってはいない。


***


 溜息を吐き、グランドピアノの蓋を閉じた。

 昨晩、リンドが公安部に殺されたという知らせを聞いた。そこで私は、最期まで勇敢であった仲間のために鎮魂歌を弾いていたのだった。

「ハンス、お前は幸せものだよ」

 亡くなったリンドの口癖だった。酒が入ると私によく絡んできては、そんなことを言ったのだ。

「むしろ、妻子持ちのお前こそ幸せなんじゃないのか?」

 私が聞き返すと、彼は決まって大きくかぶりを振った。

「なぁに言ってるんだお前え。……いいか、人ってのはなあ、守るべきものがあると……弱くなるんだよお。いっくら強くても、弱くなるんだよ……」

「……」

「お前は天涯孤独を嘆いてたけどさあ、それは結構恵まれた事なんだぜ?特に俺らみたいな奴はそうさあ……」


 確かに、彼は弱かったのだ。弱かったから死んだのだ。それ以外、彼が死ぬ理由などなかった。彼が死んでいい理由などなかった。

 ……。

 手書きの楽譜を棚に戻して、地下室を後にする。

 所々腐っている階段を一段一段慎重に踏みしめながら地上に上がる。

 戸棚の隠し扉から出るときが一番緊張する。少しだけ扉を開けて、周りに人が居ないことを確認してからでないと出ることはできない。

 無事に戸棚から出て、やっと一安心。これで少なくとも、公安に現行犯逮捕されることだけは避けられた。

 紅茶片手にソファに沈みながら、地下のグランドピアノの事を考える。

 父から受け継いだ立派な代物なのに、今のご時世では黴臭い地下室に押し込むしかできない。綺麗な音色も聴衆に届くことはなく、寂しく防音壁に吸いこまれるのみ。

 私は嘆息した。


 その時である。家の呼び鈴がけたたましい音を立てた。

 私は一気に心拍数が上がるのを感じた。まさか、地下のピアノの事がバレたのだろうか。

 恐る恐るドアスコープを覗くと、予想に反してそこにいたのは灰色狼のような公安の集団ではなく、一人の女性だった。

 しかし油断は禁物だ。ゆっくりと扉を開ける。

 扉を開き切ると、女性はいきなり頭を下げた。

「こんにちは!隣に引っ越してきました、リリーナ=ブリーゲルと申します。引っ越しの挨拶に伺いました!」

 正直なところ、少しうるさいくらいの声だった。

「は、はあ。よろしくブリーゲルさん。私はハンス=ドライマンです」

「はい、よろしくお願いしますドライマンさん!それからこれ、つまらないものですが!」

 彼女は無理矢理私に小包を渡し、「それでは!」と言って去って行った。

 確か、今まで隣に住んでいたのは老人だった。好々爺という感じではなく、むしろあまり人付き合いが良いとは言えない人だった。リリーナとは大違いだ。

 私は彼女の後ろ姿を見ながら、嵐のような人だったなあという月並みの感想しか思い浮かばなかった。

 そして後には呆然とした私と、小包だけが残された。


***


 扉を開ける前から、外の雨音が伝わってくる。

 ランツィヒは雨が多い街だ。一年中雨が降っていると言っても過言ではないここは、街並みの古さと相まって余所者を寄せ付けない。

 傘を持って外に出ると、ちょうど隣の家からリリーナが出てくるところだった。こちらに気付いた彼女に会釈をしてから、道を歩く。

 しかし彼女も歩く向きが同じだったようで、私の数メートル後ろを彼女が歩くことになった。

 知り合いが近くにいるのにお互いに無言でいるというのは中々難しいもので、気まずい空気が流れる。

「あの……ドライマンさんのお仕事は何ですか?」

 しびれを切らしたように彼女が声をかけてくるまで、歩き出してから一分とたたなかった。

 私の仕事か。

「ただの会社員です」

「へえ、会社員。そうですか」

 間違ってはいない。生計を立てるため、致し方なく柄にもない会社勤めをしているのは事実だ。

「あなたは?」

 社交辞令的にそう聞き返すと、彼女は表情をさっと曇らせた。

「何か?」

「いえ……。あの、あまり言いふらさないでもらっても良いですか?」

「ええ」

 それなら私にも話さなければいいのにと思ったのだが、黙っておく。この国では、情報は何より価値がある。

 そうすると彼女は、ジャケットの内側を見せた。内ポケットに引っかけられた盾のバッジを見た時、私は心臓を掴まれたような気分になった。

「内務省ですか」

「はい」

 内務省は国内の治安を維持し、公共に反する者を逮捕する組織である。

「……というと、公安?」

 この国の警察組織は大きく分けて二つある。一つは一般的な警察である刑事警察。そしてもう一つ、いわゆる秘密警察として内務省公安部がある。内務省職員の九割は公安部の関係者だ。

 しかし彼女は大きくかぶりを振った。

「いえそんな、公安だなんて……。私は宣伝部です。作曲をしています」

「作曲、ですか」

 内務省宣伝部音楽課では、この国に流れるすべての音楽を作曲している。

 今の曲はもとより、昔の曲も音楽課による編曲を受けている。国内の統制を図るための政策だった。

 つまり、この国すべてに流れている音楽は、彼女たちの管理下にあると言ってもいい。

 私は眉をひそめた。何を隠そう、私は彼女らのような、内務省の人間が苦手なのだ。特に、あの気持ち悪い電子音楽を作り出す音楽課の人間は大嫌いだ。

 どうやって会話を切り上げようか迷っていると、目の前に見知った裏路地が現れた。これ幸いとばかりに、今なお話し続けようとしている彼女の言葉を遮った。

「それでは、私はこの辺で失礼します」

「そうですか。それではまた」

 私たちは再び会釈をして別れた。


 ランツィヒは裏路地が多い。そしてそれは、十歩歩く間に必ず一回は曲がるほど直線が少ないのだ。一見の人が迷い込もうものなら、百歩も歩くことなく道に迷うような代物だ。

 私はそこをずんずんと進む。途中で何回か回り道をして、いるかどうかもわからない尾行を撒いてから、一つのバーに入った。

 古臭い看板が示す通り、現代的とは言えない内装を見回してからカウンターに近づく。

「お客さん、今は準備中でして……」

 グラスを拭いていたマスターがこちらを見ると、動きを止めた。

 私は席に座ることなく彼に注文をした。

「『ウィーン』というカクテルを頼む」

「お客様、ここはランツィヒです。……奥へどうぞ」

 私とマスターは同時にニヤリと笑った。バーカウンターに入り、私は彼の指す方へ進む。突き当りの壁には隠し扉があった。

 手をかけた扉の隙間から、アルコールの匂いが漏れ出してくる。

 私は苦笑し、扉の中に素早く入った。

「おっせーぞハンス。先に飲みはじめちまったよ」

「おいおい、誰か止める奴はいなかったのか?」

 ビール瓶を抱えたミールケの右隣のナッシュが、諦めたように首を振る。要するに、誰も止められなかったのだ。

「構わねーさ、俺は記憶が残る方なんだ」

 仕方ないのですでに出来上がってしまっているミールケの左隣に座る。

「さて」

 長テーブルの奥に座っている老人が椅子に座りなおした。

「これから『ランツィヒ自由音楽家同盟』の定例会を始めるとしよう。一人ずつ近況を報告したまえ」


 前述したとおり、現在この国で流れている音楽はすべて、内務省が関わったもののみである。そしてそれは、人の感情が介在することを許さない電子音のみで構成されている。

 これら芸術を管理する政策の中で公安部は、『無秩序な芸術は社会の混乱を生む』というもっともらしいお題目を掲げて既存の芸術家の逮捕に乗り出したのだ。創作者はもとより、演奏家など芸術に関わりがある者はすべて検挙対象になった。

 そのような中で『ランツィヒ自由音楽家同盟』は作られた。

 ランツィヒに住む音楽家たちは、表向きには音楽から足を洗ったことにして普通の生活をおくりつつ、私のように公安部に知られない場所でひっそりと活動を続け、いつか芸術が自由化される日まで音楽を守り続けようという集いである。聞いた話によると、他の分野でも同じような自由同盟があるようだ。

「では最後、ハンス」

「はい。……先日、内務省の職員だという女が隣に引っ越してきました」

「……何!?」

 だから、私の言ったことに反応して何人かが血相を変えたとしても、何らおかしいことはないのだ。

「ただし公安部ではありません。宣伝部だそうです。音楽課」

 そう続けたことで、殺伐としかけた部屋に安堵が広がる。

「しかしいくら宣伝部と言えど、内務省の職員がおいそれと身分を明かすとは思えんな……。本当にその女は大丈夫なのか?」

「バッジがあったので間違いなく内務省の職員ではあるんですけども……正直、私にもわかりません」

「ふうむ……」

 皆一様に黙ってしまった。一歩間違えれば検挙されるのだから、慎重になるのも無理はない。

「とりあえずその女は要注意だ。公安部の差し金ということも考えて、ハンスは今までよりも慎重に行動しろ。ここに来るルートは毎回別のものを使うように」

「了解しました」

「よし。では今日の定例会は終わりだ。……さあ飲み会を始めよう!」

 その言葉で、良い年した大人たちが皆一様に子供のような笑みを浮かべた。


***


「こんなところで会うとは奇遇ですねドライマンさん」

 夕食の材料に使うために、棚に並んだ二つの立派なレタスをじっくり品定めして、悩みに悩んだ末よしこれだと右の方を掴みとった瞬間、後ろから話しかけられた。

 驚いた私はレタスを滑らせてしまい、瑞々しい緑色の玉はなんとも間抜けな音を立てて元あった棚に落ちた。

「家が近所なんですから、地元のスーパーマーケットで会うことくらい珍しくもなんともないと思いますけどね」

 何事もなかったかのように再びレタスを掴んで買い物カゴに入れてから、私は振り返った。

「こんにちはブリーゲルさん」

「はい、こんにちは」

 見ると彼女も買い物かごを提げていて、私と同じでただの買い物だと分かる。むしろスーパーマーケットで買い物以外にすることなどないけれど。

 私は会釈だけ済ますと彼女のことなど見なかったように、足早にその場を去ろうとした。警戒するよう言われていたし、それ以前に最近『同業者』を失ったばかりだから、いつもの数倍は人を疑いながら接しようと努めているのだ。リンドはそのあたりが杜撰だったと聞いていた。

 しかし、いくら歩調を早めたり何度も移動したりしても、リリーナは私の後を追ってきた。

「ちょっと、なんで逃げるんですか」

 お前が一番私を脅かす人間だからだよ、とは口が裂けても言えない。

 やはりこの女、公安部の人間なんじゃないかと疑いたくなる。だが一方で、公安部はこんな素人みたいな監視はしないことも知っていて、私は混乱を極めた。

「別に逃げてはいないさ」

「そう言いながら摺り足で後ろに行こうとするの、白々しいですよ」

 バレたか。

 仕方ないので逃げるのはあきらめ、そのまま買い物を続ける。リリーナの事は出来るだけ意識しないようにしよう。さて今日の夕食は何にしようかな。

「第一ですね、隣人付き合いってものが少なすぎませんか?」

 ジャガイモが安いな、これは買いだ。

「私の故郷では、もっと皆さん優しかったですよ」

 よし、とりあえず買うものは終わりだ。清算してしまおう。

「引っ越して来たら近所の人を集めて歓迎会みたいなのもやってましたし」

 さて家に帰ろう。もう夕暮れ時は過ぎているしな。

「聞いてますか!?」

「聞いていると思うのか?」

 私はそこで、初めて足を止めた。

「あんたの故郷のことなどどうでもいい。ここはランツィヒであってあんたの故郷じゃないんだよ」

「そうですけど……」

 委縮したところで、私は再び歩き始めた。彼女も無言でついてくる。ついてくるな、と言おうとして家が隣なのを思い出した。開いてしまった口を閉じるのがなんとなく嫌だったので、何の気なしに思いついたことを言う。

「それにあんたはお喋りが過ぎる。そのうち省のお仲間の公安部に足元すくわれるぞ」

「そう、ですよね」

 そう言うと、今まで何か言いたげにしていた彼女は顔をさっと曇らせ、俯いてしおらしくなった。公安部をダシにした話は吐いて捨てるほどありふれているが、お気に召さなかっただろうか。

 だがしかし、話さないのであれば都合が良いのでそのまま歩く。

「ドライマンさん」

 彼女が再び口を開いたのは、私が自分の家の前に着いた時だった。

「私は皆から嫌われる内務省の職員ですが……」

 空は深い藍色に染まり、彼女の表情を窺い知れるほどの光はなかった。

「私は、私の仕事が好きです。私は作曲が好きです。音楽が好きです。それを忘れないでください」

 何を言っているのか、本当に分からなかった。それを私にわざわざ言う理由も、このタイミングで言う理由も、それを言った彼女の心情も、何もかもわからなかった。

 だから私は、おお、とか曖昧な言葉を返すことしかできなかった。


 次の日は、普段通り雨が降っていた。

 わざわざ外に出る必要はないのだが、なんとなく煙草を持ってベランダに出る。

 雨どいがあるので濡れる心配はないが、空気が湿っているせいで火が点きづらくもどかしい。

 何度目かの点火でようやく火が点いた煙草をくゆらせつつ、煙を吸い込む。フィルターがない銘柄なので、葉が口に入らないよう慎重に。

 この銘柄特有の甘味のある煙が口や肺に広がり、私は自分が落ち着いているのを理解した。

 この国の国民の主なストレスのはけ口は、煙草や酒、紅茶といった嗜好品である。自分を表現することを極度に抑え込まれている反動かこれらの消費は世界でも上位に食い込み、平均寿命を大きく下げている原因ともなっている。

 だがまあ、それでも良いのかもしれない。どうせ長く生きたところで楽しむことなどほとんどないのだから、太く短く生きるのは賢明な選択とも言えよう。

 そこまで考えて、私は自分の情けなさに気が付いた。

 音楽を後世に残すなどと息巻いて、いつ捕まるかもわからないような危ないことに足を突っ込み、同志と徒党を組んだところでやることと言ったらせいぜい煙草をふかして酒を暴飲することくらい。これでは何も意味がないのだ。

 せめてどこかで発表するくらいのことをしないと、芸術としての音楽は私たちの地下室で黴を生やして朽ちていくことしかできない。それは、公安部に壊されるのと何も違わないのだ。『自由音楽家同盟』の仲間たちも心の隅ではそう思っているに違いない。

 しかし私と私の仲間たちには、そのようなことを実行に移す勇気が完璧に欠如している。あるいは、隠れて行動するということを決めた時に捨ててしまったのかもしれない。

 先ほどの音楽が朽ちる話と同様、本質的にはそれらは全く変わらない。元々ないにしても捨てたにしても、無いものは無い。

「これが堕落か……」

 私は煙を吐き出し呟いた。真っ白な煙はたちまち湿った空気の中に溶け込んで見えなくなってしまった。

 私はリンドが羨ましくなった。彼は自分の事を弱いと言い切り、私の方が強いと言いきったが、私には到底そうは思えなかった。彼は弱かったが、何もしない私よりよっぽど強かった。

 私は弱いのだ。だから使命感を持っていないと、まともに生きてさえいけないのだ。


 いい曲だな、というのが最初に抱いた感想だった。

 一本目を吸いきって二本目に手が伸びた時、隣の家から歌が流れてきた。私は思わず眉をひそめたが、今まで感じてきた電子音楽に対する不快さが、いつまでたっても湧いてこなかった。むしろ心地よささえ感じた。

 だが、しばらく聞き入っているうちに、これが家の主、リリーナの声であることが分かってはおちおち聞いてもいられなくなった。今の公安の解釈では、歌詞付きの歌を歌うことは、一部の例外を除いて違法だ。早くしないと、近隣住民が公安に密告をするかもしれない。

 急いで煙草を仕舞い、傘も持たずに外に飛び出す。早くやめさせなくては。

 呼び鈴を鳴らし、リリーナが出てくるのを待つ。時間の流れがとても遅く感じた。

 いつまで経っても反応がないので、二度三度と呼び鈴を鳴らす。

 らちが明かないと思い、扉自体を叩きだしたところで扉が開いた。

「あれっ、ドライマンさんですか。お待たせしてすみません。とりあえず中へどうぞ」

 手招きに従って家に入り、扉の鍵を閉めたところで、ひとこと。

「お前は何をやってるんだ!公安に密告されたらどうする!」

「何故です?何も悪いことはしてませんよ」

 その堂々とした物言いに、一瞬私は自分の耳がおかしくなったのかと思った。

「歌を歌っていたのはお前じゃないのか?」

「いえ、私ですけど」

「やっぱりお前か!」

 しかしこの態度を見ると、本当にこの女は歌うことが違法でないと思っているのではないだろうか。

「もしかして、違法なんですか?」

「明文化はされていないけど、公安部からしたら違法だよ……どうしてそれで内務省の役人になれたんだよ……」

 もう頭を抱えるしかできなかった。内務省は腐っているが、人事の採用担当の頭まで腐ってるとは思わなかった。

 その時、玄関のドアがノックされた。

「内務省です、扉を開けてください」

 言わんこっちゃない、と私はリリーナを見る。もし今彼女が逮捕されれば、私も参考人として連行されるだろうし、そうすると何かの拍子に地下のピアノが見つかったりしたら、私はめでたく五十年の労働刑に処されるだろう。

「ブリーゲルさん?いらっしゃるんでしょう?」

 リリーナはそのまま扉の鍵を開ける。

「お、おい」

「はい、なんでしょう?」

「内務省です。この家で違法行為が働かれていたという通報を受けたので、確認のために参りました」

「そのようなことはありません」

 彼女はそう言い切り、扉を閉めようとした。しかし公安はそのようなことで引き下がるようなタマではない。扉の隙間に足を入れて、力づくで扉を開けなおした。

「公務執行妨害の現行犯で逮捕しますよ?」

「そうですか、少しお待ちください」

 そう言って彼女は一旦家の奥に消えて行き、何かを持って帰ってきた。

 それを見て、二人の公安職員の顔がみるみる青ざめていく。

 それは、内務省の身分証だった。リリーナは私が今まで見たことがないほど真剣で、なおかつ威厳を持った口調で公安職員に詰め寄った。

「これを見なさい。私は内務省の広報士官です。私が違法行為を働くと思いますか?『あなた達より階級が上』の私が、違法行為を働くと思いますか?通報は勘違いでしょう」


「ガセネタの通報だったようです。失礼しました」

 結果的に二人の公安職員はどこかと連絡を取り、帰って行った。

「いやあびっくりしましたねえ。まさか歌まで禁止だとは思っていませんでした。今後は気を付けないと。

 さあドライマンさん、せっかくいらしたんですからお茶でも飲んでいってください」

 彼女は私に笑いかけるが、先ほどの姿を見るとその笑顔も空恐ろしいものに思えた。

「用意が整うまで、リビングでくつろいでいてください。何もありませんけど」

 リビングに通された私は目を疑った。部屋の中の調度品の質が、私の家と根本的に違っていた。とても大学を出たばかりの独り暮らしの家とは思えなかった。

 進められるままに椅子に座ると、その座り心地の良さにさらに驚きを隠せない。役人というのはこんなに素晴らしい椅子に座っているのかと感動さえ覚えた。

 だが紅茶の味の違いはさほどなかった。ティーポットに入っていたのは普通のティーバッグで、少し安心した。

 その後は特に何も起きず、出された紅茶を飲みながら世間話をしてお暇した。


 次の日、再び近所で公安職員を見かけた。どうやら誰か捕まったようだ。『ガセネタ』通報の容疑で。


***


「路上コンサートをしよう」

 最初に誰が言い出したのかは今となっては定かではないが、いつの間にか定例会の中で路上コンサートをやろうという話が持ち上がっていた。

「いつまでたってもこのままじゃダメだ。何か活動をして、公安部に抵抗していかないと、そのうち俺らも呑まれちまう」

 もっともだと思う。

「しかし、どこでいつ、何を演奏する気なんだ?公安はすぐにやってくるぞ」

 これももっともだと思う。

 議論が白熱している中、私は沈黙を守ることにした。私は弁が立つ方ではないから、余計なことは言わないに越したことはないのだ。

「規制前のポップスなんてどうだ?あれなら終わるまで五分とかからないし、当時の事を覚えている人だっているはずだ」

「でもそれって俺らが守りたい音楽の一種なのか?どちらかというと今の電子音楽と変わりないように思えるのだが」

「我々は昔の文化を保存しているのだから、昔流行ったものなら良いだろう」

 等々。

 結局『会議は踊る、されど進まず』という言葉が似合う定例会となり、最終的には

 携帯できる楽器で

 芸術規制前のポップスを

 ランツィヒの隣の州で

 再来月の花火大会に合わせて

 演奏することが決定した。他の芸術家同盟とも話をして、同時多発的にやろうということで会議は終わった。

 

 その後の飲み会で、酒の肴としてミールケとナッシュにリリーナの歌とそれにまつわる話をすると、彼らは面白そうに聞いていた。

「内務省って馬鹿でも入れるんだな、初めて知ったよ」

「はは、まったくだ」

 酒を一口。肴が良いと酒も美味くなると実感。

「でもお前、なんで止めになんて行ったんだ?」

「んん?」

「そうですよハンスさん、そのまま黙っとけば危ない橋渡らなくて済んだでしょうに。公安部と顔突き合わせること自体が相当危険なんですよ?」

「ああ、確かにそうだなあ……」

 そう言われてみると、彼らの言う通りだ。それにリリーナは宣伝部とはいえ内務省の職員。放っておいて上手くいけば公安部に彼女を逮捕させて、危険因子を減らすこともできたかもしれないし、何もなかったとしても私が公安職員と正対する場所にいることはなかっただろう。

 今思い返すと本当に不思議な話だ。私はなぜ自分を顧みずに彼女を助けようとしたのだろうか。

 何とか思い出そうと頭を叩いたりしてみるも、先ほどからどんどん摂っているアルコールのせいか何も出てこなかった。

「まあ気まぐれだよ気まぐれ」

「ええー、なんですかそれー」

 なんですかと私に聞かれても回答のしようがない。

 ただそれが、この時点で私が出せる一番もっともらしい答えだった。

 

 まずい、飲みすぎた。頭がものすごく痛い。

 何とか千鳥足で家の前までは着いたが、そこから一歩も歩く気になれない。

 柵に手をついても足は鉛のように重く、錨のように体をそこに繋ぎ止めた。

 そして私は迫りくる睡魔に逆らう事が出来ず、そのまま地面に倒れ込んだ。

 アスファルトの地面は冷たく冷えてとても気持ち良く、そのまま地面を寝床に寝てしまいそうだ。

 にしても今日は飲みすぎた。まさかこんなに眠くなるなんて。


 次の朝、私は知らない場所で目を覚ました。

 背中から伝わる感触で、少なくとも私の家のベッドの上でないことはわかる。

 体に掛けられている毛布を取ると、自分がソファに寝かされているのも解った。しかし、これはどこのソファだ?

「起きられましたか?」

 まだぼうっととする頭で声のした方向を見ると、そこには刑事警察の紺色の制服を着た警察官が眠たそうな顔をしていた。恐らく夜勤明けだろう。

「本官がパトロールをしていたら路上に倒れたあなたを見つけましてね。声をかけても反応がなかったので交番まで連れてきました。飲みすぎには注意してくださいね」

「は、はあ。お手数をおかけしました」

 彼があまりにも迷惑そうな表情をしているので、こちらも申し訳ない気持ちが増幅されてしまった。

「良いんですよ。さあ、起きたんならお帰りください。本官たちも暇ではないので」

「そうですか、では失礼します」

 追い立てられる形で交番を出る。少し歩いてから振り返ると、先ほどの警官は電話に向かって怒鳴りつけていた。勤勉な彼らには是非とも頑張ってもらいたい。


 その後家に帰り、シャワーを浴びたり食事を摂っている間も頭痛が引かなかった。昨日は本当に飲みすぎたらしく、ほとんど記憶も残っていない。

 気分転換にピアノでも弾こうと思い戸棚を開けるが、背筋にゾワゾワとした不快感を覚えたので、結局隠し扉は使わずそのまま戸棚を閉じた。だが不快感は止まず、私は出所を探った。

 そしてこういうのは不思議なもので、解消しようと思い立つと途端に無くなる。外の空気でも吸おうと窓際に近づいた途端、あれほど強かった不快感は嘘のように消え失せたのだ。

 散歩にでも行こうかと思ったが、私の第六感がそれを拒んだ。私は人よりもこの第六感という奴を信用しているので、素直にテレビでも見ておくことにした。


 その第六感が外出を許可したのは、夜になってからだった。こんな時間に出歩くのもどうかとは思いつつも、何時間もテレビを見続けたことで固まった体をほぐしたいという合理的な理由も相まって、私は外套を羽織って外に出た。

 あてもなく歩き続けるのもそれはそれで乙なものだが、とりあえず今日は近くの公園を目標に据えて歩き出す。

 昨日は散々な目にあったな、とか、私でさえあんなことになったのだから、もっと飲んでいた他の人はもっと大変なことになっているだろうな、などと言った取るに足らないことを考えていると、たちまち目的地に着いてしまった。

 こんな時間だし誰もいないだろうという私の予想に反して、公園内には一人の人影があった。

 ブランコに腰掛けているその人をできるだけ邪魔しないように一番離れたベンチに座った。

 木製のベンチは夜の寒さを受けてわずかに冷たく、その温度が服を通じて尻に伝わる。気温自体も少し肌寒いが、寒くてどうしようもないというほどでもなかった。

 背もたれに体重を預けると、首が勝手に上を向いた。ところどころにちぎれた雲が散見される夜空には、大半を占める青っぽい黒の中でわずかに星々が点々と見える。その青黒い空間は、見続けていると自分もその中に溶けてしまいたいと私に思わせた。それくらい、その光景に引き付けられた。

 しかし私は地面に足を着いていて、どう頑張ろうとその一部には慣れないのだと思うと、少し寂しいような気持ちになる。そして悲しいことに、私はその気持ちに入り浸ることが気持ち良くて仕方ないのだ。

「こんばんは、こんなところで会うとは奇遇ですねドライマンさん」

 だから、いきなり聞こえた声に反応するのが少し遅れてしまったのも許してほしい。

 ブランコに腰掛けていたのはリリーナだったのだろう。お互いに気付くのに遅れてしまったというわけだ。

「……夜の散歩だよ」

「私もです。隣、失礼しても良いですか?」

 私は無言でうなずいた。

「先日はどうもありがとうございました。ドライマンさんが教えてくれなかったら、いくら私でも流石に逮捕されてましたよ」

「流石にダメかと思ったよ」

「ははは、間一髪でしたもんね」

 そこで彼女は一回会話を切り、前を向いたまま続けた。

「少し、質問しても良いですか?」

「内容によるかな」

「私の仕事についてです」

 彼女の仕事というと、やはり内務省に関することなのだろうか。それとも音楽についてとかかもしれない。

「前言った通り、私は内務省で音楽を作っています。ですが最近、少し違和感を覚え始めてきたんです。音楽ってこんなものなのか、と。もっと自由なものなんじゃないのか、と。

 結構悩みに悩んだんですが、結局答えは出ませんでした。同僚や他の人にはこんなこと相談できません、もちろん。だから、現時点ではもっとも信用できる、ドライマンさんに聞きたいんです。私を公安に密告しなかった、あなたに聞きたいんです。

 政府の方針とかそういうのを抜きにして考えた時、あなたはこの音楽を、どう思いますか?……という質問です」

「ふーん……」

 率直に言おう。私は迷っていた。

 彼女は確かに、公安の追及をはねのけたことがある。だから公安に協力的なはずはない。それに公安部だったとしたら、以前のような失態は犯さないはずだ。

 だが、それも含めて演技の可能性は?私や私の周りの誰かを監視するために、公安が作った『少し抜けていてあまり公安に協力的ではないリリーナ=ブリーゲル』という人間だとしたら?ただでさえ最近リンドが殺されたばかりなのだ。どのようなルートでバレたのかは知らないが、私に追及の手が及んでいる可能性は決して低くないだろう。

 もし前者である場合、私は思っていることを正直に打ち明けることにより、彼女とより深い関係を築けるかもしれない。本音を打ち明けられる人というのは貴重であり、持っている意見の方向性が同じならばなおさら貴重だ。

 もし後者である場合、私は本音を言った瞬間に公安の検挙リストに名前が載り、連日連夜二十四時間監視の目がつくだろう。家の中に盗聴器が仕掛けられるだろうし、自由同盟の定例会に行くのも一層厳しくなる。

 そして、地下のピアノを発見されれば終わりだ。冷たい監獄と長い労働刑が私のすべてになる。

 どうする?

 危険を顧みず、同志を獲得するか?

 それとも保身を第一にして、これからも隣人を疑い続ける生活をおくるか?

 選べ!


***


 結局私は、後者を取った。

 無言のままでいると、リリーナは少し悲しそうに笑った。

「いいんですよ。それが正しいことですから……貴方は悪くないんですよ……」

 そう言った。私はもう、彼女の顔を直視できなかった。

「私、寒くなったんで帰りますね。もうすぐ冬ですし、ドライマンさんも風邪を引かないように気をつけてください」

 彼女はそのまま夜の道へと消えていった。


 一時間ほど経っただろうか。

 酔ってもいないのにおぼつかない足で立ち上がる。

 吐いた白い息が、私の目の前に広がる。その吐息は紫煙と違い、とても冷たかった。

 私はそのまま家に帰った。ベッドに入ると、散歩に出る前とは違う種類の不快感が襲ってきたが、私にはそれをどうすることもできない。

 ただ、瞼の裏には依然として、リリーナの悲しそうな顔が焼き付いていた。


***


 また次の週、私はランツィヒの隣の州、ドルニエ州に来ていた。

 比較的まんべんなく開発が進んでいるランツィヒと違い、ドルニエは都市部と山間部の落差が激しい場所だった。

 私と私を始めとした自由同盟のメンバーは数班に分かれてドルニエに入り、ゲリラ演奏会の場所探しをする予定だ。

 条件は人が多く集まる場所で、なおかつ道が入り組んでいる場所。公安の到着を、雀の涙ほどでも遅くするためのものだ。

「って言っても、どこでもそんなに条件は変わんねえよなあ。近くに公安部員がいたら、到着の速さなんて関係ないだろうし」

 いつものようにミールケが軽口を飛ばす。この男は酔っている時も酔っていない時もこんな調子なのだ。

「まあ、確かにな」

 それとなく辺りを見回しながら、私は適当に相槌を打つ。

 だがしかし先ほどまで黙っていたナッシュが、ここへきて初めて口を開いた。

「いいえ、そんなことはありませんよ」

「どういうことだナッシュ?」

 ミールケはもう周りなど見ず、ナッシュの話にすぐさま食いついた。元から探索作業に飽き飽きしていたに違いない。

「この中に公安の捜査官がいたとしても、何も手を出してこないでしょうね。地域に溶け込んでいる場合は、周りに顔が割れることの方がよっぽど恐ろしいでしょうから。

 なので、私たちが捕まるまでには公安の施設から制服組が移動してくるまでの数分間の猶予があるというわけです。その数分間をいかに伸ばすかが今日の目的ですよ」

「ほーん、そういうことか」

 ミールケは納得したように頷いた。前々から感じてはいたが、ナッシュには話の才能があるように見える。物事を話す時に説教臭くならず、聞く者を簡単に納得させるような才能だ。

「だからきちんとやることをやりましょう、ミールケさん」

「まあな、言われてみると確かにそうだ」

 そしてナッシュはこちらを向き、軽く笑った。私の理解度を確認したかったのかもしれないが、見事なことに私もしっかりと納得できていた。

「にしてもナッシュ、よく公安の手口を知ってるもんだな」

「はは、ただの推測にすぎませんよ」

 私は何の気なしにそう言い、ナッシュもにこやかに返した。


 数か所に目星をつけ、私たちはドルニエ州を後にした。

 ボックスシートに三人で座りながら、私は流れゆく車窓を眺める。

 先週から、一度もリリーナとは話していない。以前はあんなに「おや奇遇ですねドライマンさん」と言って来たのに、今ではすれ違ったときの挨拶すらない。

 この国の国民は、基本的に皆隣人を疑うように生きている。だが、それはあくまで無意識にやっていることだ。一度隣人を疑っていることを自覚してしまえば、周りに味方がいない状況の厳しさに気付いてしまう。

 自由同盟の仲間でさえ、私には信頼に値する人々に見えなかった。何度密告しようと思ったかは、もう数えきれる回数を超えていた。今まで辛うじて思いとどまっていたのは、自分も共犯で逮捕されることを恐れたからに他ならず、決して仲間が不遇に思えたからなどと言う優しいものではなかった。

 私は隣で大きないびきをかいているミールケを見る。

 彼も確かにこの国の一員だが、未だ自分が万人を疑っていることに気づいておらず、しかも自由同盟の人間を信頼している。彼の普段の態度は、その信頼がもたらす心の余裕によって生まれているものなのだろう。私には、もちろんない。

 信頼が無意味だとされている国で、信頼のありがたみを知るとは思ってもみなかった。

 しかし、いくら気づいたところでもう遅い。時間が流れたところで、過去は水に流せないのだから。信頼のありがたみを知ってしまった私に、心地よいと感じられる居場所などありはしないのだ。

 私はもう、目を瞑ることしかできなかった。少なくとも、夢を見ることまでは奪われなかったようだから。


 ナッシュに起こされ、若干寝ぼけながら列車を降りる。

 目が覚める瞬間、今まで起きたことがすべて夢だったらいいのにと思っていた。私は自由で、町には活気が溢れ、隣人を愛することができる国に住んでいるのだと思いたかった。

 しかし、はっきりしてきた視界に映るのは古臭い寂れたランツィヒ、そしてそれを陰鬱に染め上げる雨であった。

 

 いつものバーで本日の収穫を報告すれば、今日の活動は終了だ。

 外せない用事があるとかで早抜けしたナッシュを除いて、全員が集合するのを待つ運びとなった。

「久々にドルニエに行ったけど、やっぱりどこも変わらねえよな」

「全くだ。この国には生気がねえ。俺らが頑張っていかないと」

 部屋の中ではみな口々に、この国や地方に対する感想を話し合っていた。私とミールケは向こうでさんざん話してきたので、いまさら特に話し合うこともなく黙っていた。

 数十分後、最後のメンバーが入ってきて、今日の報告会が始まった。

「それではまず、エルメスの班から報告してくれ」

「はい。メルハ川沿いを探ってみたところ、周りには多数のビルがあり、人を集めるという観点では悪くないと思います。

 ただしかし、近代的な場所なので道が直線的すぎますね。すぐに公安が駆けつけてくるでしょう」

 などと、いくら言っても言い足らないほどの報告が立て続けに何個も挙げられた。やはり他の皆は、初めての表立った活動ということで張り切っているのだろうか。

 と、その時。扉がノックされた。

 その瞬間、部屋の中が静まりかえる。この部屋は自由同盟以外だとこのバーのマスターしか知らないし、マスターがこの扉をノックすることは普通はあり得ない。彼は場所を与えているだけだから。そうすると、ノックの主はナッシュだろうか。

 しかし、返答を待たずして音を立てないように開かれた扉から顔を覗かせたのは、マスターだった。

「あんたら、今すぐ出た方がいい。公安が近くまで来ているそうだ」

 その言葉を理解すると、私たちは蜘蛛の子を散らすように飛び出した。

 しかし、外の扉を少しだけ開けたマスターが外の様子をうかがうと、そのまますぐに戻ってきて首を振った。

「ダメだ、もうすぐそこまで来ている。……あれを使え」

 彼があごの先で示したのは、都合よく作られた逃げ道などではなく、壁に隠されている何丁かの銃だった。

 それが意味するところはつまり、私たちには戦うか捕まるかの二択しか残されていないということだ。私は真っ先に銃に飛びついた。それを見た何人かが同じように銃を持つ。

 私はおっかなびっくり安全装置を跳ね上げ、カウンターの後ろに隠れた。

 公安職員の武装は警棒か、良くて拳銃。これだけの人数なら押し返せないこともないはずだと私は思った。

 だがそれが楽観だったと分かるまでに、数分も要しなかった。

「内務省公安部だ。この扉を開けなさい」

 その呼びかけを無視した途端、拳銃では何丁集まっても到底出せない、間違いなく自動小銃による弾丸の嵐が店内に吹き荒れた。

 そのせいで、扉の近くの机を立てて隠れていた数人が撃たれた。

「畜生、アリサカ連隊を出してきやがった……!」

 誰かがそう叫ぶ。

 アリサカ連隊。内務省が国軍とは別に保有している武装組織だ。創始者の名前がアリサカだからアリサカ連隊というらしいが、今はそんなことどうでもいい。

 彼らは日々訓練を積んでいる精鋭部隊、私たちのようなロクに銃も撃ったことがない非武装ゲリラに勝ち目などありはしない。

 私がカウンターに隠れたまま何もできずにいるなかで、仲間たちはどんどん殺されていく。

 こうなったらイチかバチかだ。

 私は連射が止まったのを見計らい、カウンターを飛び出した。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 奇声を上げながら瓦礫だらけの店内を走る。穴だらけの扉を蹴り開けた時、斉射が再開された。

 煙臭い空気の中で、耳元を弾丸がかすめる。恐怖はカウンターに捨ててきた。走ることだけを考え、引き金を引いたまま全力疾走する。

 その野獣のごとき様には敵も恐れをなしたようで、心なしか弾幕が薄かった。

 そのまま私は彼らの間をすり抜け、裏路地を走り抜けた。

 不思議と追跡はなかった。


 深緑色の装備に身を包んだ兵士たちが、店内をくまなく探索する。時折聞こえていた銃声も、今やすっかり落ちついた。

 その中で、灰色の制服に身を包んだ者が二人いる。

「ふう。あらかた片付いたかな、マイスナー少尉」

「そのようですね。にしてもジュッセンパイヤー中尉、あの男は逃がしてよろしかったのですか?」

 マイスナーが言っているのは、戦闘の途中で飛び出してきた男の事だ。包囲網を突破し、数名が追撃に向かおうとしたところをジュッセンパイヤーが止めたのだった。

「大丈夫だよ少尉。彼には別個で監視がついているからね」

 ジュッセンパイヤーは口元を歪めた。その笑顔はマイスナーを軽く引かせるほど凄惨な、気色の悪い笑みだった。


 撒いたか?

 後ろを振り返り、そこに誰も何もいないことを確認した。

「へへっ、噂に聞きしアリサカ連隊も、たいした事ねえな……」

 鉄橋の下、コンクリートの壁にもたれかかる。前に思い切り酔っ払ったときのように、足に力が入らない。そのままずるずると崩れ落ちてしまった。

 ふと腹を見ると、服に空いた穴から赤黒い血がどくどくと流れ出している。血は服を染め、元々白かったシャツは今では見る影もない。

 傷を見てから、思い出したように腹が痛みだしてくる。焼けるような痛みだが、それに反比例するように体感温度は寒くなっていく。体中の熱が傷口に集まったような気分だ。

 もう上体を支える力すら残っておらず、私は冷たいアスファルトに倒れ込んだ。

 雨に溶けだした血がみるみるうちに増え、血だまりに体が沈む。

 自分の体温が、冷たいアスファルトと同化していく。私は、自分が冷たい街の一部となっていくのを感じた。


「ドライマンさん!」

 意識がもうろうとしてくる中で、どこかから私を呼ぶ声が聞こえた。

 判断能力も鈍っていて、誰の声だか全くわからない。私を追ってきた公安部員だろうか。

 肩を掴まれ、そのまま腕を相手の肩に回す。相手からすれば、私に肩を貸している状況になるわけだ。

 このまま公安部の車両行きか、意外とあっけないものだったな……。

「死んではダメです!貴方は死んではいけない人です!」

 隣に寄りそう体温が心地よい。その人が何かしきりに叫んでいるが、私はそれが意味するところを理解できなかった。

「あと少しです、辛抱してください!」

 どうやら本当に意識が落ちてしまうようだ。

 体を通して伝わってくる鼓動に、私は少し活力をもらった気した。

 だがその時の私は、ただ目を瞑ることしかできなかった。


***


 目覚めた瞬間から脇腹が痛んだ。頭痛もするし、お世辞にも良い目ざめとは言えない。

 瞼を開くと、柔らかい橙色の光が目に差し込んでくる。

 続いて首を動かしたせいで、額の上に乗っていた何かがずり落ちた。濡れたタオルのようだった。

 少なくとも自分のベッドの上でないことだけはわかる。最近自室以外で寝ることが多すぎるな、と私は苦笑した。

 少し経つと、ぼんやりとしていた頭の中の霧が晴れ、体のエンジンがかかり始めた。

 改めてしっかりと細部を見る。

 この照明や家具の質感、どこかで見たことがあると私は感じた。巷にあふれている粗悪品の家具とは違い、きちんとした作りの丈夫そうな家具。極力直接照明を減らした橙色の照明。

 リリーナの家だ、と気付くまでにさほど時間はかからなかった。

 家は持ち主を映すという。あの時のリビングから感じたのと同じ意図が、この部屋からは感じられる。

 しかし、それを上回る何か大きな違和感がある。大きな違いはベッドの有無くらいのはずなのに、それを上回る大きな何か。そして人の家とは思えない安心感。

 しばらくして、その根源にたどり着いた。この部屋には窓がないのだ。

 自然光が完全に遮断され、電気照明においてのみ照らされる室内。これはまさに、私の家と同じ地下室に他ならない。

 にしても、なぜ?やましいことがない限り、こんな部屋を作る意図が読めない。特殊な嗜好を持つ家主なのだろうか。

 その時、扉が開いた。

「お目覚めでしたか、ドライマンさん」

「ブリーゲル……さん」

 いつもは後ろにまとめている髪をほどいてはいるが、確かにリリーナであった。

「良い寝覚めでしたか?」

「いや、あまりよくはないね。にしてもどうして私がブリーゲルさんの家に?」

「リリーナで良いです。今更そんなよそよそしくされてもむずがゆいですし」

 そこからリリーナは、事の顛末を簡単に話してくれた。

 息も絶え絶えに公安の追跡から逃れた私は、被弾による失血で動けなくなっていた。そこに雨が体力を奪い、彼女が私を見つけた時、私は瀕死の状態だったらしい。

 彼女は私を、ひとまず自分の家に連れ帰ることにした。傷の手当をして、公安から見つからないように地下室に匿い、私の覚醒を待っていたらしい。

 つまり彼女は、掛け値なしに私の命の恩人というわけだ。

「ありがとう、助かったよリリーナ」

「いいえ、困ったときはお互い様です。前に助けてもらったときの恩返しもしたかったですし」

「そういえばそんなこともあったねえ」

 はははは、と私たちは二人して笑った。そして彼女は私の額に手を当てて熱がないことを確認すると、床に落ちたタオルを拾って再び地下室から出て行った。

 再びベッドに沈み、天井を見つめる。

 そういえば、どうして彼女の家にこんな部屋があるのか聞きそびれてしまった。

 そして私は自分の置かれている状況にそぐわず、よく見るとリリーナは結構な美人だな、などと間の抜けたことを考えていた。


 数日経つと、随分と痛みが和らいできた。

 どれもこれも、献身的に看病してくれたリリーナのおかげである。彼女には本当に頭が上がらない。

 しかし、なぜここまでしてくれるのだろうか。私は彼女からすると敵になる。それを見逃すどころかあまつさえ匿ってさえいるのはどういう風の吹き回しだ?

 直接本人に尋ねても、「前に助けてもらったお礼です」としか返ってこない。

 この言葉を素直に信じることが出来たらどんなに良かっただろうと、私は自分自身の汚さにほとほと嫌気がさした。


「それじゃあ、私は仕事に行ってきます。くれぐれも外に出ないようにしてくださいね」

「ああ、行ってらっしゃい」

 家主でも何でもない、居候の私がそう言うのも少し変ではあるが、家から出る人を見送る言葉はやはり「行ってらっしゃい」以外に考えられなかった。

 彼女を送った後は、私は何もすることがない。

 最初の数日こそベッドでひたすら寝て傷の回復を待つ日々だったが、だいぶ痛みも引いてきた今ではずっと寝ているのも苦痛になる。

 せめて持ち運びできる楽器でもあればと思いつつも、そのようなものがないことは重々承知しているので、渋々本棚の中身を端から順番に読んでいくことにした。

 整然と並んでいる背表紙から見て取れる内容は多岐にわたる。最近流行っているらしい若者向けの漫画から、芸術規制前の純文学まであり、本当にここが内務省職員の家なのだろうかと疑問にすら感じた。

 元々読書は好きな方だが、あまりに最近のものは読まないようにしていた。

 しかし一度読んでみると意外と面白い。規制をうまくかいくぐるような表現に思わず笑みがこぼれたり、手に汗握る展開にハラハラさせられたりして、飽きのこない作品だった。思わずのめり込んでしまい、結末まで頁をめくる手が止まることはなかった。


 朝から読みはじめて、本を閉じたのは正午過ぎ。

 読書が退屈な時間に対する有効打になると確認した私は、喉の渇きを覚えて地上に出ようと考えた。

 綺麗に掃除された階段を上った先にあるのは、一枚の扉。無機質な木目が重厚感を際立たせるそれは、この家における地下室への隠し扉だ。

 外から見ると、何個もの本棚うちの一つの背に隠されている扉を開けて、家のリビングに出る。

 キッチンに入ろうとしたとき、私は壁際の棚に飾られたものに目が行った。

 碧色の写真立てで、中には古ぼけた写真が入っている。

 どうやら家族写真のようで、若い夫婦の間にいる小さな子供が白い歯を見せて笑っている。夫婦の方も、子供ほどではないにしても笑ってこちらを見つめている。

 これはリリーナの家族で間違いないだろう。随分と仲が良さそうで、見ているこちらの頬までゆるんでしまいそうだ。

 私にもこんな時期があったのだろうか。幼少期の頃の記憶などほとんど残っていない。覚えているのはせいぜい十代の前半くらいからで、その頃はちょうど両親と仲が悪かった時期だ。公安から隠れて音楽ばかりやっている両親の意図がつかめず、大声で喧嘩したこともしばしばあった。

 その親が公安に捕まって、労働刑の末病死したという知らせを受け取ったのが二十歳の時。もっと仲良くしておけばよかったとか、ありがちな後悔をした覚えがある。

 そして八年経った今、あれほど反発していた音楽に足を突っ込んでいて、なおかつ公安から逃げている私がいる。血は争えないということだろうか。

 だがそれらも今となっては昔の記憶。今更寂しいとか後悔の念は浮かんで来ず、ただそんなこともあったなあと懐かしむのみだ。 さて、懐古も終わったところで水を飲むかと再びキッチンに足を向けた時、家の扉がノックされた。呼び鈴があるのにもかかわらず、である。

 このような礼儀知らずの組織を、私は一つだけ知っている。

 私は踵を返し、急いで本棚の後ろの隠し階段に隠れた。それから数秒も経たないうちに、音もなくカギが開かれる。カギを壊す音が聞こえなかったから、恐らくはピッキングの類だろう。

 私は扉に耳をつけ、外の音に耳を澄ませる。

「いいか、五分で済ませろ」

 明らかにリリーナの声ではない。私と同じくらいの年の、男の声だ。

 足音が三々五々に分かれ、空気中の埃のように家中に散らばっていく。文字通り、少なくとも五人はいる。しかし、その人数に反して驚くほど物音が立っていない。

 これが内務省のやり方か。

 奴らを人と思うな、というのは父の言葉だったか。珍しく喧嘩しなかった夜に、私に言って聞かせたのだ。

 なるほど確かに、これは人がやるものではない。

 人の留守中に家に入り、目的のものを鼠のように嗅ぎまわる。しかもやり方は狐のように狡猾で、狸のように人を食ったような奴らだ。私の家に入られたこともあるのかもしれないし、ピアノも実は見つかっているのかもしれない。私は泳がされている可能性だってある。

 そしてあいつらの一番たちの悪いところは、こうやって人々を人間不信に追い込むことだ。賢い人間、反抗を企てる人間ほど誰も信じられなくなる。

 私が、リリーナを信じられないように。命を助けてもらってもなお、恩人を信じ切ることができないように。

 家中の足音が、再び一点に集まった。

「少尉、目標は発見されませんでした」

「そうか。でもな、ああいう奴らは悪知恵を働かすぞ。設計図を見せろ」

 紙がこすれる音がする。

 心音が瞬く間に強くなっていく。その音が外に漏れてしまわないか心配になるほどに。

「うん?この柱、妙に太くないか?何かあるんじゃないのか、例えば」

 声がどんどん近くなっていく。まるで少尉と呼ばれた男の息遣いが、扉を通じて聞こえているようだ。

「この本棚の裏とかに、ね」

 何か大きなものが動く音がする。本棚が動いているようだ。先ほどとは違い、一段と大きな物音がする。恐怖心からか、私は今までにないほど目を大きく見開いた。汗が、背中一面を濡らす。

 それが完全にどけられるまでに、いったい何秒かかっただろうか。一秒?一分?それとも一時間?緊張が私の感覚を隅々まで鈍らせるが、それに反比例するように聴覚だけはますます鋭敏になっていく。

 そして、少尉の手によって、本棚は壁際から離されたようだった。

「あれ?ハズレか」

 彼がどけたのは、隠し扉がある本棚の隣のものだった。

「少尉、ジュッセンパイヤー中尉から撤収命令です」

「なに?では従うとしよう。総員引き上げ」

 良かった、帰るのか。そう思った瞬間、私は雷に打たれたように硬直した。

 見られた。

 見えていなくても分かる。少尉と呼ばれた男が、私を見て笑ったのが、分かった。バレている、そう本能的に感じた。

 それが引き金となり、緊張で張り詰めていた私の中の何かを壊した。

 それから気配は引き波のように去っていき、そこは数分前と全く変わらない場所となった。

 ただ一人、隠し扉に耳をつけたまま動けない私だけを除いて。


***


「ただいま帰りましたよハンスさん。ってどうしたんですか?」

 彼女がそう言って地下室に入ってきたとき、私はシーツを被ってベッドの上で震えていた。

「寒いんですか?」

 不思議そうに近づいてきた彼女の両肩を、私は掴む。

「なあリリーナ、私は生きてるよな?死んでないよな?あの男に殺されてないよな?」

 そう縋り付く私に彼女は一瞬驚きを見せたが、すぐに穏やかな表情になった。

「大丈夫ですよ。あなたは生きています」

「本当に?」

「ええ、本当です。嘘を言って何になるというんですか」

「良かった……」

 そして彼女は身じろぎすることもなく、私の気が済むまでそうさせてくれた。

 私が落ち着きを取り戻したのを見計らってから、彼女は控えめに問いかけた。

「それで、何があったんですか?怖い夢でも見ましたか?」

 そう茶化してくれたことで、一層緊張がゆるむ。私はゆっくりと、今日起こったことを彼女に話した。公安が来たこと、家中を探し回られたこと、間一髪で助かったこと、しかし相手にバレていると確信したこと。すべてを語った。

 それを最後まで聞くと、彼女はため息をついた。

「なるほど。薄々感づいてはいましたけど、やっぱり疑われてるんですね……」

 眉に皺が寄る。知らぬ間に家の中を探し回られては、嫌悪感を示すのも当然だろう。

「内務省の役員の家ならそうそう簡単に踏み込んでは来ないだろうと考えてましたけど、甘かったようです。同族に牙を剥くとはつくづく最低ですね」

 彼女はそう毒づいた。考えてみると、こうして嫌悪感を示すところを見たのは初めてかもしれない。いつも笑っている彼女ではあるが、きちんと負の感情もあるんだなと思った。そう考えると、私は一気に彼女に対して親近感が湧いた。

「すると、ハンスさんが見つかるのも時間の問題ですか……」

 しばらく考え込んでから、彼女は急に立ち上がり、

「こうなったら覚悟を決めましょう。少し待ってください」

 そう言って、部屋を出ていった。

 私が何をすることもなく呆然とベッドの上で座っていると、コートに身を包み、ボストンバッグを提げた彼女が戻ってきた。

「ここを離れます。どこか遠くへ行きましょう」

 強い意志を持って言う彼女に、私は考えることもなく「わかった」と一言だけ返した。他に言葉は要らず、その一言だけで全てが決まった。


 交通量もまばらな夜の道を、ヘッドライトの一条の光と共に車が走る。

「夜は冷えますから、これを着ておいてください」

 ハンドルを握るリリーナは私にそう言って、茶色のトレンチコートを渡した。

「これって君のもの?」

 女性が着るには無骨すぎるそのコートを羽織った私は、純粋な興味からそう尋ねた。

「いえ父のです。形見でして、未だに持っているんですよ」

 軽い愛想笑いと共に返されたその言葉に、私は驚き、

「す、すまん」

 と、とりあえず謝った。

「良いんですよ、昔の話ですから」

 そう言う横顔は、言葉に反して少し寂しそうな笑みをたたえていた。


 車で走ること数時間、途中のドライブインでミートパイを食べた後は車中泊することにした。

 もうランツィヒ中心部のような住宅街ではなく、建物自体が珍しい田舎の駐車場に車を停める。

 最初は、私が外に出て夜の間は見張りをしていようかと思っていたのだが、明日以降のために少しでも寝ていた方が良いということで二人そろって寝ることにした。

 トランクに積んでいた毛布を出し、リクライニングを最大にした座席に寝転がる。

 しかし間の悪いことに私は上手く寝付くことができず、いつまでたっても起きていた。

「なあリリーナ」

 試しにそう呼びかけてみると、「なんですか?」という返事が返ってきた。彼女も眠れなかったのだ。

「どうして私を助けようと思ったんだ?」

 彼女は少しため息をついた。

「前にも言いましたけど、前に助けられたことの恩返しです。あれがなければ私は今頃檻の中ですから」

「違うだろう」

 前と同じことを言った彼女に、私はそう言い切った。その毅然とした態度に彼女は「へえ?」と言って私に先を促した。

「考えてみたんだが、いろいろとおかしいことに気付いた。

 まず一つ目。君は歌を歌うのが犯罪だと知らなかったと言っていたが、それは流石に嘘だ。そんなこと今時小さな子供でも知っているし、それを内務省の職員が知らないなんてのはあり得ない。浮世離れじゃ済まないところがあるだろう。

 二つ目は損害的な考え方だ。ただ歌っているのを止めるのと、重傷者をかばい続けるのではリスクが違いすぎる。見たところ君はそこまで馬鹿じゃないようだから、そんな損益計算ができないはずはない。

 そして三つ目。君はなぜ家に、隠し部屋として地下室を持っているんだ?昨日今日で作れるようなものじゃないから、元からあったんだろう。設計図にも書かれていないってことは、やましいことをするためにあったんだ。

 最後に四つ目。そもそも君はなぜ、私を助けられたんだ?あの時私は、人目に付かない場所にわざと逃げ込んだんだ。しかもあの雨の日に。たまたまあの場所にいたというので説明がつく範囲を超えているぞ。

 これらの条件から導き出される答えは無数にあるだろうけど、少なくとも恩返しのためだけに助けていないのはわかる」

 長く話したせいで喉が痛い。

 とにかく、これが全てである。せいぜい一般的な頭脳。限られたことしか覚えていないし考えの幅も狭いものだが、それでもこれほど妙な点を見つけられたのだから、やはり彼女の言っていることは本当ではないのだろう。

 少しの間、互いに沈黙を保つ。横目で覗いた限りだと、彼女は迷っているように見えた。

「流石に、無理がありますよね」

 唐突にそう呟いた。エンジンがかかっていたら確実に聞き取れないほど、か細い声だった。

「ごめんなさい、嘘をつくのは昔から苦手でして」

 知っている、と喉まで出かかった言葉を飲み込み、辛抱強く次の言葉を待つ。

「これを言ったら信用されなくなると思っていたので。墓場まで持っていくつもりでしたけど、そう詰め寄られては話さざるを得ませんね」

 彼女はやれやれ、と芝居めいた仕草をした。いや、私は断じて詰め寄ってなどいないけどね。

「話は、私が引っ越してきたときまで遡ります。

 公安は、音楽家同士の夫婦であったゾルフ・ドライマンとマリア・ドライマンの息子であるあなたの事を、かなり前から疑っていました。

 証拠もかなり出そろっていたようです。少なくとも、あなた一人を逮捕するには十分なほど」

「『私一人を逮捕するには』、十分か」

 彼女は頷いた。その言葉が意味するところは、私にでもわかる。脳裏に自由同盟の顔ぶれが思い出された。

「できるだけ泳がせて、全員丸ごと捕まえたかったのでしょうね。

 けれども、今逮捕しないかわりに監視は一層しっかりと行わないといけなかったんです。

 そしてタイミングの良いことに、私が隣に引っ越したんです」

「とすると、君があそこに引っ越してきたのは本当に偶然?」

「はい、そうです。叔父が営んでいる貸家で、親類ということで安く貸してくれたので」

 本当にそんな偶然があるのだろうか。私は再び疑念が湧いてきたが、それを理性で封じた。

「続けます。

 部署は違えど同じ内務省。そのことを耳聡く聞きつけた公安に協力を依頼されました。実際は命令と変わらないものでしたけど。

 その男の名前は、ナッシュ=マイスナーと言います」

 

 え?


 私の思考に空白が生じる。

 ナッシュ=マイスナーが公安部員だって?私や自由同盟の仲間たちと楽しそうに話していたナッシュが、敵の裏切り者だった?

 口がだらりと開いた私を憐れむように、リリーナは続ける。

「あの男、マイスナー少尉は本作戦の現場指揮官です。……あなたの友人でも、あったわけですが」

 私の頭の中で、公安の手口を淡々と説明するナッシュが思い出された。そして次に、用事があるからと言って駅前で別れたときの顔。

 私は血が止まって白くなるほど拳を握りしめた。

「ごめんなさい、伝えるかどうか、迷ったんですけども」

「いいんだ、この国はそういう国だ。続けてくれ」

 リリーナは少しほっとしたような表情を浮かべた。

「そこから私は本来の業務に加えてあなたを監視していたんです。そこら中でよく会っていたのは、偶然ではなかったんですよ」

 バレバレだったよ、と私が呟くと、彼女は苦笑した。嘘は苦手なんです、と彼女は再び言った。

「でも、そんな生活が続くにつれて、私は変わってきました」

 そこでいったん彼女は言葉を切った。そして私の方を見て、口元を歪めた。自嘲的な笑みだった。

「有り体に言えば、疲れたんです。もともと音楽を作りたくて内務省に入ったのに、実際にやらされるのはスパイの真似事。当然負担は増え、公安の仕事どころか通常業務すらおぼつかなくなってしまいまして。素直に辞めたいと思いました。

 でも、辞められなかった。関わった作戦が全て終わるまで、公安部員は辞めることを許されないんです。だから私は、ハンスさんが逮捕され、労働刑に服すまではずっとこの仕事を続けないといけなかった。おまけに、この苦しみを他人に話すことさえできないんです。誰が密告するかわかりませんし」

 嫌な職場でしょう?

 彼女はそう呟いた。疑いの余地もなく、最悪だと思う。

 まだ彼女は続ける。

「どうにかして辞めたいと思いました。

 考えに考えた末、違法行為を働けばいいんだと思ったんです。簡単なものなら揉み消されてしまうかもしれませんが、公安が力を入れている芸術規制への犯罪なら流石に見逃すわけにはいかないだろう、と」

 そこまで聞いて私は、やっと数ある疑問の一つの答えに辿り着いた。

「つまりあの日、窓を開けて皆に聞かせるように歌っていたのは」

「ええ、誰かが通報してくれることを期待して。最後に大好きな歌を歌っていられたら、もうどうなってもいいかなと」

 私は大きくため息を吐いた。

 つまり彼女は、逮捕されるためにわざと歌っていたというのだ。

 頭を抱えたくなる。これだけ必死に逃げている自分が馬鹿みたいに思えた。

「ですが」

「ん?」

 そこで初めて彼女は、きちんとした含みのない笑顔を見せた。

「予想と違って最初に家へやって来たのは、私を止めに来た人でした。本当に私を心配してくれているのだと分かって、この人なら信じても大丈夫だろうと思ったんです。

 まあ、向こうは信じてくれそうもなかったですけどね」

「あの時は……済まなかった。素直に信じられるほど心が綺麗じゃなかったんだ」

「仕方ないですよ、実際あの時は公安の仕事として言っていましたし。気付いていましたか?あの近くの建物の屋上には、集音マイクを持った公安部員がいたんです。もし変なことを言ったら、また一つ証拠を渡してしまうところでした」

 なるほど、あの日の不快感はそういうことだったのか。

 私が戸棚を開けて中に入ろうとしたとき、外ではカメラを構えた公安部員が舌なめずりをしていたに違いない。そう考えると、あの時の第六感に拍手喝采を贈りたかった。

「つまり、ずっと私の監視を続けていたから、私が怪我した時にすぐ拾ってくれたということだね?」

「そういうことになりますね。そして最後、どうして地下室が家にあるか……でしたっけ。それは簡単です。

 なぜなら、私の親は音楽家だったからです。あなたと同じように、公安に抵抗する立場の音楽家」

 そう聞いた時、羽織っているコートが、何倍にも重くなった気がした。

「もともとあの家は、私の両親が音楽活動をするために建てた家でした。両親が公安部にやられてからは、一般市民の叔父があの家を管理していました。そして、さっき言った経緯で私が住みはじめたのです。

 ……そう言えばハンスさん、どことなく父に似ていますね」

 彼女はそう言って、再び微笑んだ。


 これで全ての疑問は片付いたわけだ。

 前と同じように私の勘を信じるならば、彼女の言葉に嘘はない。いや、むしろ勘というより、そうであってほしいという願かもしれない。

 だがそんな些末なことはどうでも良い。要するに、彼女は私を信じて本当のことを話してくれたのだ。

 ならば、私もそれに応えねばなるまい。

「リリーナ」

「はい」

「私は君の知っている通り、あまり良いとは言えないことをしている。そうと分かってもなお、私と共に逃げてくれるのか?」

 一瞬虚を突かれたように固まるが、みるみるうちにその顔には自信の色が溢れてきた。

「もちろんです、一緒に逃げましょう。どこまでも」

「そうだな」

 そして私は彼女の目をしっかりと見つめる。

「それなら、君を疑うことはもうない。これからは信じていくことにする。一緒にどこまでも行こう」

「分かりました」

 彼女はそう言って、体ごと私の方に傾けていた頭を元に戻した。

「ありがとうございます」

 続けて小さな声が発せられたのを、私は聞き逃すことはなかった。

 私も体を元の位置に戻す。

 吐く息は白いが、体は毛布のおかげで温まっていて、寒さは感じなかった。

 ふと目を向けたフロントガラスには、雲一つない綺麗な星空が広がっていた。



 秘密の国・終

文芸部の文集に載せたものになります。

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