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BACKACHE  作者: 佐倉蒼葉
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第3章

 入力室のドアが開いて、松岡さんが出てくるのが見えた。何気なく後ろの壁の掛け時計を振り返り、今日は遅くまで残っていたのだな、と思った。今週、入力室は忙しかったらしく、残業が続いていた。松岡さんに続いて大河内さん、飯塚さんと出て来て、俺に「お先に失礼します」と声を掛けて通り過ぎていった。お疲れさん、と答えながら手元に積み重ねたファイルを避ける。きりもいいので引き上げる事にした。

「澤田さん、お先に」

 横目で見ると由加と佐々木さんが手を振って通るところだった。

「由加。飯、一緒に食わへんか」

「佐々木さんと約束してるんだけど」

「澤田さんも一緒に行く?面白い店を見つけたんだ」

「ほな、二人とも待っとって」

 デスクの上を片づけてマシンの電源を落とし、ロッカーからコートと鞄を取って戻った。新富町から有楽町線に乗って行くらしい。「だから今日は泉ちゃんちにお泊まりするのさ」と言う佐々木さんは大きなバッグを肩から下げていた。由加は人見知りだが、佐々木さんとは仲が良いらしい。

「二人とも、明日休みか」

「そう」

「ええなあ。俺は明日も出なアカン」

 金曜の夜で、街は賑わっている。佐々木さんに連れて来られた店は駅からずいぶん離れた所にあった。狭い店だ。薄暗い照明。雑な内装。隅の一角のテーブルに着く。

「怪しい雰囲気やな」

「でも安いね」とメニューを見て由加が言う。

「お腹空いたな」と佐々木さん。

 一通りの注文をしてから、俺はぐるりと周囲を見回した。壁の色は刷毛の跡も判るくらい雑に塗られ、木のテーブルと椅子は無秩序に並んでいる。よく見ると椅子も形がばらばらだ。佐々木さんが「隣が中古家具屋なんだよ。オーナーが同じなんだって」と説明した。由加も店を見渡した。

「タイムスリップしたみたいだね」

「でしょう?」

「うん、いい感じのお店だね」

 なるほど、二人は気が合うようだ。

「タイムスリップちゅうか、いろんな時間があちこちから集まっとるみたいやな」

「出た、澤田さんの得意技」

「何、何」

「時々詩人になっちゃうんだよ」

「へーえ」

「詩人はやめえ」

「でも、そんな感じだね。いろんな時間が集まってる、てのは」

 佐々木さんはおしぼりで手を拭き、丸い目をくるんとさせてこちらを見た。

「実際、ここに集まってる中古の椅子達は、誰かのケツをさんざんのっけてきた訳で」

「口悪いなあ、佐々木さん」

「失敬、誰かと生活を共にしてきた時間をのっけている訳で」

「そう、そのくらい言えや、女の子なんやから」

「澤田さん、女性への幻想は早く捨てた方がいいよ」

「何ィ」

 佐々木さんはアハハと大口を開けて笑った。由加は俺達の会話をふふふと笑いながら聞いているだけだ。

「この椅子にもその椅子にも、それぞれの歴史がある訳で。それが一堂に会するのが、まあ、私としては面白いと思う訳で。バイ北の国から」

 今度は由加がアハハと笑った。

 飲み物と肴が運ばれて来た。とりあえず乾杯、とグラスを合わせる。

「それじゃあ、椅子はタイムカプセルみたいなものかな」

 由加はそう言ってイカゲソの唐揚げを噛んで、呑み込んでから続けた。

「その持ち主が手放す時点で封印されるような」

「そーか?この椅子はここで新しく『いろんな人が座る』っていう時間を始めている訳やろ?」

「でもここに来る私達は、古びた時間を見に来ている訳ですよ」

と佐々木さんは手にした箸で宙を差した。

「古びた時間の中には誰か、この場合、以前の椅子の所有者とその生活ですね、その幻がある。だからこそ古びた時間として認識される訳でして、ここに来る客はその幻にロマンを求めているのだなあ。よって、椅子タイムカプセル説は支持してもいいと思うぞ」

 楽しそうに話す佐々木さんに、由加はいつもの調子で言った。

「佐々木さんて、ロマンチストなんだ」

「え、そうかねえ」

「うん」

 澤田さんて詩人だよね、と由加に言われたのを思い出した。彼女は時々、人や物事の印象をさらりと口にする。それは言われた本人が恥ずかしくなるような事で、今も佐々木さんは照れくさそうに苦笑いしている。言っている由加はいつも、相手をからかうつもりはまったくないのが判るような真顔か笑顔で、思った事を素直に口にしているだけなのだ。言われるとくすぐったいが、こうして横で聞いていると、その人の印象が変わっていく。快活でボーイッシュな佐々木さんの可愛らしい一面が覗いた。

「古びた時間を見に来る、か」と由加。「他人の時間を振り返っとんのやな」と俺が言うと、由加はふっと微笑んで「いい店だね、ここ」と言った。

「今度は中嶋君も誘おうか、こういう所好きそうだし」

「ええな」

 俺達はそれぞれ飲んだり肴をつまんだりしながら、また店内を見回した。狭い店は客でいっぱいだ。入口から中を覗いて、諦めて引き上げる学生らしい姿が見えた。古びた時間を見に来るのは若い世代らしい、と周囲を見て我が身をふと思う。

「他人の時間が優しくてきれいに見える」

 ぽつりと由加が言った。

「お?泉ちゃんも詩人だねえ」

「澤田菌が伝染したかも」

「誰がバイ菌や」

 佐々木さんが由加の言葉を受けてか、

「そうだねえ、自分ではそうでもない事も他人から見たらきれいかも知れないねえ。自分でもそう見えるようになった時にやっと、泉ちゃんの言う封印、タイムカプセルならその時点で時が止まるかも知れない」

「ほーお?佐々木さんも暗い過去がありそうやな」

「そりゃあ長いこと人間をやってますとねえ」と言ってニッと笑う。

「人間やっとんたんか」

「実はビーカーから出て来て『早く人間になりたーい』ってやっとこの前、って何を言わせる」

「ワハハ」

 店を出て有楽町線の駅前で二人と別れた。JRで帰る事にする。ずいぶん寒くなってきた。俺は両手をポケットに入れてゆるゆると歩き、堀を跨ぐ橋を渡った。

 佐々木さんが言った「女性への幻想は早く捨てた方がいい」を思い出して、独り苦笑いする。確かに、俺は女性を見る時、咲を基準にしているのだ。ふわりと動き、ゆるやかに語る咲。それは振り返るたび、由加の言うように優しくきれいに見える。もう、ずいぶん遠くなったからだろうか。だが、まだ少し薄暗く見える一瞬がある。

 咲、俺なら、───

 言いかけて止めた。彼女は困惑の笑みで首を横に振った。言わないで、と口に出さずに拒絶した。あれからずいぶん時間が経ったような気がする。二年か、と声に出す自分に戸惑った。由加から見たらそれも優しくきれいに見えるのだろうか。由加自身の目がそう見えるように出来ていると俺には思える。やるなあ、チビッコ、とまた独りで苦笑した。




 ゆかりが送ってきた写真はひと月も封筒に入れたまま放り出していて、ようやく買って来たアルバムに貼り付けた。ピリピリ、と台紙のカバーを剥がし、写真を並べる。カバーを戻す時に皺が寄った。それを掌で伸ばしていると、電話が鳴った。

「智彦?元気でやっとるの?」

 母ののんびりした声がやけに遠く感じられた。

 年末、何日に帰省するのかと訊ねられ、まだ決めていないと答える。今はもう、あの頃のような気持ちはないが、兄夫婦───そう、夫婦───と顔を合わせたくないというのが正直なところだった。曖昧に答えて電話を切った。

 東京行きが決まった時、いちばん腹が立ったのは兄の曖昧さだった。

 生真面目と言えば確かにそうだが、彼はフリーカメラマンで不況の煽りをまともに喰らっていたし、それは今もそうなのだ。

  ───咲、一緒に東京へ、

 口に出してしまいそうだった。俺はそうする前に、まるで逃げるように東京へやって来た。そしてあの和泉と一年振りに再会した。

 和泉は大阪に居た頃と比べると雰囲気が違っていた。万事においてマイペースなのは変わらないが、以前より余裕を感じさせるようになっていた。大阪でのつきあいが長かったとはいえ、彼と親しさを増したのは東京に来てからの事だ。

 母から電話があった週の土曜日、休日出勤をした俺と中嶋は入力室のメンバーと一緒に昼食を採った。師走の忙しない頃、皆クリスマスや正月の予定の期待で楽しげに話した。その時に顔を揃えていた中で、地方出身なのは俺と由加だけだった。

 食事を終えて会社に戻る途中、俺は由加に年末は帰るのかと訊ねると、彼女はこう答えた。

「私、東京で新年を迎えた事ってないの。でも今年はいろいろあって、すごく印象的な年だったのね。だから、今年一年どうも、と、東京と一緒に今年を終わらせて新年迎えたいんだ」

 東京と一緒に。東京に、今年一年どうも。

 由加のこういう発想はどこから来るのか、彼女を見ていて面白いのはこのような、どこか笑いを誘ったり微笑ましかったりするところだ。俺は「由加らしいわ」と答えながら、それも悪くない、と思った。

 由加と初詣に行く事にして、それからあっという間に年の瀬になり、休みに入って大掃除をしていると、和泉から電話がかかってきたのだった。

「明日、そっちに行く」

「はあ?」

と言いながらしゃがんで、雑巾で目の前の床を拭く。

「乞うご期待だ」

「何で期待せなアカンねん」

「うん、まあ、その、」と例によって何か思うところがあるのか、何だろうと次の言葉を待った。すると彼は「ウヘヘ」と笑った。

「気色悪いな」

「うん、今、自分でもそう思った」

 和泉は自分で恥ずかしくなったのかボソッとそう言ってしばし黙り込み、「とにかくそういう事だから」と俺を納得させて電話を切った。

 翌日の大晦日、午前中に到着するなりテレビゲームに熱中する和泉を横目に、由加に電話をかけた。

「あんなあ、一人になると、どうも、アカンねん」

「え、…え?どうしたの澤田さん」

「うん」

「何かあったの?」

「うーん」

「具合悪いの?」

「うーん」

 悲愴な声を出す俺を、和泉は口の端で笑いながらコントローラーのボタンをぴこぴこと叩いている。とにかくすぐ行く、と電話が切れたところで、彼は「知らないぞ」と言った。

 一時間もしないうちにピンポンとチャイムが鳴って、ドアを開けると由加が息を切らせ上目遣いに睨み付けながら、漫画のように「どどどうしちゃったの」と訊ねた。話し相手がおらんねん、と答えると、彼女はようやく部屋にいる和泉に気づいた。驚いてこちらを見る。この素直な反応が楽しい。

「バカ野郎」

 アッパーが顎に入って歯がガチンと鳴った。

「人が、本気で、心配したのに」

 判っていたがここまでとは思っていなかったのだ。避けられないこともなかったが、罰は甘んじて受ける。奧の間に進む由加の後ろ姿を見ながら、何となく母を思い出した。小柄なところは一緒だが、のんびり屋の母と直情型の由加とでは似ていない、ただ何となくだ。彼女は和泉と言葉を交わして困惑の顔で俺を振り返った。笑いかけてやると、ふっと笑みが返ってきた。

 三人でサンドイッチを食べながら話した。何と和泉に縁談があるという。あの「ウヘヘ」は困惑の果てに出て来た意味のないものだったようだ。やがて話題が由加の「東京と一緒」発言に至ると、彼女は恥ずかしがってこたつにもぐり、そのまま寝入ってしまった。意外にも、由加は恥ずかしがり屋なのだ。そのため人見知りをするくせに、男の部屋で平気で寝入ってしまう。彼女の頭の中はどこかこんがらがっているんじゃないか、とこんな時によく思う。

 向こうを向いて眠る由加の顔を和泉が上から覗き込んで「平和な奴」と言った。

「ガキやな」

「うん」

 和泉は残ったサンドイッチを一人で片づけるつもりらしく、皿を手前に引いた。

 大阪での仕事はどうだ、と訊ねると「面白いよ」と言って、現在進めている企画のアウトラインを話し、俺が「それは社外秘だろう」と突っ込むと「そのうちそっちにも知れる事だから」と言った。

「今月の始め頃、由加から電話があって、何の話かと思ったら澤田の事だった」

「ほー?」

「実家に帰りたくないみたい、とか言って心配してた」

 最後のハムサンドを口に入れてもぐもぐ噛みながらこちらを見る。

「うん」

「また振り返るからか」

と今度は視線をそらした。直視されると言いにくいのが判っているのだろう。

「うん。でも振り返るのは後ろにあるっちゅう事で、まあ、もう終わっとんのや。現実としてな。あとは俺が俺を終わらせる、っちゅうだけで、区切りやな、そこまで行くだけなんやけどな」

「うん。判る」

「前にな、由加が、東京の水が合わへんのは大阪に振り返る人がおるんか言うて、グサーッときてん。ど真ん中突いてくる由加に腹も立ってんけど、でもうらやましい言うたんもほんまやで。俺はずっと嘘ついとったからな」

 和泉は頷きながらコーヒーを飲んだ。

「由加は人見知りのくせに、一遍懐くと犬みたいなんやな。源二郎そっくりや。餌くれー、散歩連れてけー、の顔すんねん」

「ああ、源二郎か。あのしっぽ振るスピードがまた可愛かった。…うん、まあ、似たような事があって、由加が、諒介はすごい、って言ったんだ。いや、僕じゃなくて、彼女が街で見かけた男の子が僕に似てるって言って、だからすごいのは彼なんだけど」

と言葉を切って煙草に火を点けた。

「ストレートに人を誉めるね、由加は。まいってしまう。本当の僕を知らないんだろう、と思うと逆に後ろめたい気分だ」

 それは、と言おうとした時、由加がクシュッとくしゃみをした。「風邪ひいたか」と言って和泉は彼女の肩をポンポンと叩いた。「起きなさい」

 それは仕方ないんじゃないか、と言おうとしたのだ。

 すべて晒して生きていける程甘くない。そして真実ほど隠されるものだ。

 むう、とか言いながら起き上がる由加の寝惚けた顔を見て、俺達は笑った。こんな顔を晒して生きている由加のような奴もいる。


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