1 来客
マツエの婆さんはいわゆる近所の札付きだった。家の敷地に少し足を入れただけで目の色を変えて怒り出す。家の前に車を止めただけで警察を呼ぶ。向こう三軒両隣に聞こえんばかりの怒鳴り声を上げる。そのくせよその敷地は平気で横切る。花壇の花を勝手に持っていく。それに文句を言おうものなら人権侵害だ、老人迫害だと、また大騒ぎをする。
組合の会費もついぞ納めたことはない。戦前、マツエの婆さんの家は地域を取り仕切る庄屋の家系で大地主であったという。それが敗戦後の農地解放で地域の住人にただで割り当てられただけであり、元々この地区一帯の持ち主は自分であるのだというのがその根拠なのだが、それが事実にしてもそんな理屈は通らない。だが、マツエの婆さんは持ち前の負けん気とバイタリティでその横車を押し続けた。
そんなことが何十年も続くうち、婆さんの家の周囲は空き家、空き地が目立つようになり、回覧板すら回ってこなくなった。昔から地域にいた住人も代替わりしたりよそへ引っ越したりで、婆さんの過去を知る者さえいなくなった。子供はいるのか、兄妹はいないのか、結婚はしていたのか、そんなことさえ知る者もいないし、あえて知りたがる者もいない。関わらないで済むならマツエの婆さんとは関わるな。それが近隣住民の共通認識だった。その一方で、実はあの婆さんは資産家なのでは、それを守るためにあれほど強硬な姿勢を貫くのでは、そんな噂もあった。
ある日、婆さんの住む平屋建ての家を一人の男が訪ねてきた。男はセールスマンらしく、ベージュのスーツに黒いかばんを手にしていた。
「マツエのおかあさーん。ご在宅ですかあー」
男はにこやかに垣根越しに声を掛けた。だが家の中は静まり返り、人の気配すらない。
その後もセールスマンは声を掛け続け、何度目かの声掛けに、やっと二階の窓から憮然とした表情のマツエの婆さんが顔を覗かせた。
「なんだい。あんたなんかお呼びじゃないよ」
「ああ、おかあさん。こんにちは。いえいえ、今日はご挨拶に伺ったんです。ご在宅でよかった。あ、私、帝邦建託の建部という者です。今後ともどうぞよろしく」
「よろしくされる覚えなんかないよ! さっさとアタシの敷地から出ていきな! 出ていかないなら警察呼ぶよ!」
二階の窓から見下ろす形でマツエ婆さんは建部を怒鳴りつけた。しかし建部に意に介する様子はない。
「いやだなあ。敷地って、ここ道路ですよ。まあそう言わずに名刺だけでも受け取っていただけませんかね」
「その道路から隣の更地までウチの敷地なんだよ! 出ていけっつってんだろ!」
マツエ婆さんが大声を張り上げ箒を投げつける仕草をした。が、本当に投げつけはしない。建部も一応頭を守るふりはするが、依然笑みを絶やさない。
「そう怖がらないでくださいよお。それじゃ、僕の名刺、ここに入れておくで」
建部が名刺を玄関の郵便受けに挟むべく軒先に足を踏み入れた。その途端、二階から絶叫が轟き、建部は逃げるようにその場を後にした。