依々恋々のスタースタッド 3
「悪いけど、もう切るよ」
『待ちんさ――』
「こうなったら嫌だなって思ってたけど、予想してなかった訳でもないんだ。詩織は俺が絶対に守るから、アンタは2人に何かあったら真っ先に知らせて」
一方的に通話を切った携帯電話をポケットにしまい、ユウリはカップとグラスをマシーンにセットしてボタンを押す。コーヒーは湯気を上げ、洗剤は注がれた炭酸で泡を立ててていく。食品以外をグラスに注ぐなど言語道断かもしれないが、子供を追いかけて貸切のフロアに押し掛けるのも言語道断だ。
スープバーの寸胴をバーカウンターに乗せながら、ユウリは無駄だと分かっていても考えてしまう。
尾行されていたような気配はなく、エミの手荷物にも発信機の類もなかった。壊れかけの携帯電話でもGPSの機能は生きていたのかもしれない。
たとえ正解がどうであれ、ユウリの仕事は何1つ変わりはしない。
出来上がったブラックのホットコーヒーと漂白剤の炭酸割を手に、ユウリはエレベーターの前に立つ。スライドドアの上のディスプレイは徐々に上がってくるエレベーターの所在を示し、そこはもう最上階まで来ていた。
そしてユウリはエレベーター前に立ち、カップを目の高さまで上げて、招かれざる客達に言った。
「あげるよ。俺には苦すぎるから」
狭いエレベーターの中に居たのは男2人。待ち構えていた自分に驚く見覚えのある男の顔に、ユウリはホットコーヒーをぶちまける。およそ55度の液体を顔面に受けた男は声も出せずに体をくの字に折り、ユウリは丁度いい高さの後頭部をローファーの足で踏みつけて奥の男へとカップを放った。
後頭部を踏みつけられた男の顔面はグラスの破片へと押し付けられ、その光景に茫然とした男もまた、顔面にカップを喰らってそのまま倒れ込んでしまう。見知った顔がガラスでズタズタに切り裂かれたのだ。それも無理はないだろう。
もっとも、ユウリには関係ない事だが。
「実を言うとさ、1度でいいからゴルフをやってみたかったんだよね」
グラスの破片に放り出された鉄パイプを蹴り上げて手に取り、ユウリはゴルフスイングの要領で茫然と自分を見つめて来る顔を殴りつける。手袋越しの重い感触に左手は痺れ、無抵抗だった男の体もエレベーターの床へと叩きつけられた。
しかしエレベーターを封じたからと言って、ユウリに休息は許されない。
顔面から血を流す男の呻き声に交じって聴こえたのは、重い金属の扉が開く音とガラスの破片が踏み砕かれた音。ユウリは呻き声を上げる男の頭を再度強く踏みつけて黙らせて、非常口の方を見もせずに、漂白剤の炭酸割を入れたグラスを放る。このフロアに辿り着くにはエレベーターか非常階段を使う以外に方法はなく、エレベーターはうずくまる男達の体で扉が閉まらなくなっている。敵は非常階段を駆け上がって来た上で、狭い廊下で待ち構えているユウリと相対さなければならない。
放り投げられたグラスは割れ、泡立つ漂白剤が異臭を立て、男女の悲鳴があがる。ただでさえ、漂白剤は人体にとって毒なのだ。炭酸の刺激と見た目はさらに恐怖を煽るのだろう。
それでもやまない鉄板を複数の靴底が打つ音を聞きながら、ユウリはバーカウンターに鉄パイプを置いて、代わりにスープで満たされた寸胴を両手で降ろす。肩にズシリと響く寸胴の中身は玉ねぎの臭いが漂うオニオンスープ。猫舌のユウリには信じがたいが、おそらく中身の熱さはコーヒー以上。
フロアから出ようとする男女と、入ろうとする増援達としても、それは同じことだろう。
反動をつけるようにして寸胴を後ろに振ったユウリが、その中身をぶちまけたのだから。
少し冷めていて、皿に注がれて、テーブルで出会っていれば美味しく味わえたのかもしれない。だがスープは香りと湯気を上げて肌を焼き、更に投げつけられた寸胴の音に襲撃者はパニックを起こしていた。開きっぱなしの非常扉から聞こえる悲鳴を聞くに、諸共階段から転げ落ちているかもしれない。
改めてエレベーターへ視線を向けてみれば、CDショップで会った男も含めて襲撃者達はそこらで買えそうな普段着を来ている。おそらく、彼らも依頼人も簡単な仕事だと思っていたのだろう。詩織にしろ、エミにしろ、テロリストを護衛につけているとは誰も思うまい。
だが、途端に訪れた静寂にユウリの手は自然と鉄パイプに伸びていた。聞こえるのはうっすらと聞こえる誰かの歌声と、金属製の階段を音を立てて上がってくる足音。
戦争が身近だった地域でも、あそこまでパニック状態に陥った人間を落ち着かせる事は難しかった。
それこそ、眠らせるか、殺してしまう方が早かったくらいに。
つまり、相手はユウリと同じで暴力を躊躇わない人間。鬱陶しかったのか、それともうるさかったのかは分からないが、下手すれば重傷を負っている彼らを黙らせられる人物。ユウリが油断をすれば、いつかの1件のように不覚を取ってしまうかもしれない。状況はともあれ、今日狙われているのも詩織かもしれないのだから。
そして足音が止まり、非常扉から見えた人影にユウリは躊躇いもなく左手で鉄パイプを投げる。放たれた鉄パイプは高速で回転し、フロアの狭さから会費は不可能。タイミングも含めて全てが完璧だった。
しかし鉄パイプが人の肉に食いつく事はなく、グラスの破片だらけの床へと叩き落とされた。金属同士がぶつかり合う重い音から、グラスの破片が砕け散る軽い音を立てて。
見覚えのある、3段ロッドによって。
「危なかったね。殺しちゃうところだったよ」
「危ないじゃない。殺されるところだったわ」
予想よりはずいぶん早いが、心情的には遅い。3段ロッドを畳む美緒を見て、ユウリは緊張を解くように深く深呼吸をする。重い物を振り回したせいか、肩周りがどこか重い感じがしていた。
最後の最後で現れたのが美緒で良かったのか、悪かったのか。
少なくとも、余計な戦いをせずには済んだが、ユウリは未だに美緒に勝つビジョンを描けていなかったのだ。




