邪魔者だらけのディスタンス 2
「いい加減にしなさい。その綺麗な顔が台無しになる前に」
「ああもう、分かったよ!」
呆れ果てたような綾香の声にユウリは覚悟を決める。絶対にありえないと理解しながらも、引きはがされそうな恐怖にまぶたが震え出すのだ。
そのまぶたを開けるまでは髪型はユウリの中では変わっていないが、まぶたの内側にある幻想だけに縋っても居られない。シュレーディンガーの猫ならぬ、シェアハウスの髪。嫌いな哲学に逃げ道を求めるほど、恐怖に立ち向かおうとする反発心が強くなって行く。
そしてユウリは、ゆっくりと目を開いた。
前髪は目に掛からない程度の長さに、顔回りはシャギーがかり、重さで潰れていたアウトラインも、毛量を減らした事ですっきりとして見える。
毛先を切ったために黒の比率は減っているが、ユウリにとっても理想的なヘアスタイルになっていた。
「ほら、お姉ちゃんを信じて良かったでしょう?」
「……流石に、ここまでとは思わなかったよ」
ユウリは指先で軽く流れを作ってくる彩雅の手つきに目を細める。ケアしきれなかったパサつきは消え、以前のような引っ掛かるような感じもない。南スーダンで砂ぼこりにまみれていた頃の髪と比べれば別物だ。
「せっかくだし、シオちゃんとお出かけでもして来たらどうかしら」
「嫌だよ。なんで予定もない週末に出かけなきゃならないのさ」
名案だとばかりに手を叩く彩雅の提案に、ユウリは冗談じゃないと眉を顰める。
昨日のレクリエーションでほとんどの競技に出場し、体を酷使した綾香のために週末はレインメイカーの活動は休み。綾香は休養に務め、詩織は執筆などの作業、彩雅も作曲や編曲に取り掛かる予定だったはず。職場復帰したマネージャーを、インドア派の所属アイドルと出かけさせる予定などなかった。
「いいじゃない。アタシと彩雅姉は今日は家から出ないし、詩織にいろいろお礼もしてないんじゃないの?」
「お礼は言ったし、俺みたいな美少年と暮らせてるんだから十分でしょ」
「アンタね、顔の良さだけで腹は膨れないのよ?」
「俺はこの美貌で腹を膨らませてたけどね」
トレーニング用のゴムボールの代わりに野球の硬球を玩んでいる綾香の言葉に、ユウリはそういう事かとため息をつく。
おかしいとは思っていた。何の予定もない土曜日だというのに8時に起こされ、都合良く訪れた彩雅が髪を切ってくれると言い出したり、興味も関係もない綾香が付き添っていたり。いつもなら呼んでもないのに部屋に来る詩織が居ないのも、そういう事だったのだろう。
つまり、髪を切られてしまった以上、ユウリは2人に逆らえない。
ユウリが詩織に迷惑と心配を掛けてしまったのは、紛れもない事実なのだから。
「行ってやってもいいけど、3つだけ条件を呑んでもらうよ」
「条件?」
詩織に手を出すなと釘を刺して来たくせに。首を傾げる綾香に胸中で毒づいて、ユウリは続ける。
「当然の事を理解してもらいたいだけだよ――まず、氏家が行きたいのか確認する事。行きたくもないアイツを接待してやる気はない」
「その点は心配そしなくてもいいわ。あの子も見たい物があるって言っていたから」
「なら2つ目、そちらさんが俺と鉛地に連絡がつくようにしておく事。何かあれば氏家を守ってやらなきゃならないし、こっちにも戻って来なきゃならないから」
当然ね、と彩雅は頷く。同年代の少年が同じ屋根の下で暮らすのも、ボディガードが護衛対象から離れるのも特例的な措置。その特例的な措置を望んだのが護衛対象自身であればこそ、ユウリの条件を呑む事は当然。ユウリは未だ信じ切れていないが、彩雅にとって命を預けられるのはユウリと和紗だけなのだから。
「それで、3つ目は?」
自分の中では全てが決定事項なのか、綾香はユウリに3つめの条件を促す。反省はするが、後悔はしない綾香らしくもあるが、これまでの事を全てなかった事にした綾香の豪胆さにはユウリも戸惑いそうになってしまう。自分の失態の後処理を完璧に行われ、その上で謝罪も無しに許されたのだから、それも無理はないだろう。
せいぜいユウリにできる事と言えば、詩織を楽しませてやる事くらいだ。
「……美少年にピッタリなセットを頼むよ」
「お姉ちゃんに任せておきなさい」
どこまで行っても姉貴分気取りの彩雅に、ユウリは気恥ずかしさから、拗ねたように鼻を鳴らした。




