邪魔者だらけのディスタンス 1
わずかに首が締まるような感覚にユウリは脱力した体を椅子と背後の体に預け、ため息がバスルーム特有の音響の中に消えていく。目を閉じているせいで見えないが、鏡を見ればきっと眉尻は情けなく下がっている事だろう。
そんな事を分かっていても、ユウリの口を何度目かの質問がついた。
「本当に、信用していいの?」
「酷い子ね、今更そんな事を言うなんて。ユウちゃんだって、ずっとこうしたかったくせに」
ふわりと漂う彩雅の香水の香りにユウリはどうにも落ち着かず、薄い布地の下で固く手を握る。黒革の手袋はミシミシと音を立て、すっかり怯えきったボディガードに彩雅は微笑みかける。
有事の際の毅然とした態度を知っていればこそ、不安そうな表情が情けなくも可愛らしい。どれだけマネージメント業務に慣れようが、武器を持った相手に正面から立ち向かえようが、ユウリはまだ子供だ。それも、上の妹分と同い歳の。
手の掛かる妹と弟ほど、可愛らしいものもない。
「大丈夫、これが初めてじゃないから。肩の力を抜いて、お姉ちゃんに全部任せて」
ユウリが安心できるように、彩雅は出来るだけ優しく言う。
これが初めてではないというのは紛れもない事実で、上手くやれる自信だってある。自分で1人でするのならともかく、姉貴分としては弟分に満足してもらいたい。それが一方通行の愛情でも、彩雅は構いやしなかった。
そして、はさみがシャラリと音を立てた。
「切り過ぎてない!? 切り過ぎてない!?」
「毛先を切って全体的に軽く、でしょう。ちゃんと確認しながらやってるし、シオちゃんの髪だって切ってたんだから」
「アイツはむっちゃロングヘアじゃん!?」
長さも性別も雰囲気も違い過ぎる、とユウリは唇を震わせる。
床とケープにはブロンドと黒のツートンの髪、彩雅の手にははさみとコームと霧吹き。ユウリは自室のバスルームで彩雅に髪を切ってもらっていたのだ。
「騒ぐんじゃないわよ。時間を掛けるのが嫌ならアタシがやってあげるって言ったのに」
「はさみすら持ってなかったアンタに任せられる訳ないじゃん! どんな髪型でも俺が美少年な事に変わりはないけど、いい髪型の美少年の方が俺も皆も幸せでしょ!?」
ユウリは切った髪を払われながら、洗面所兼脱衣所で携帯電話をいじっているだろう綾香に怒鳴りつける。
思い返してみれば、綾香に叩き起こされたあの時から災難は始まっていたのだろう。
今から、お前の髪を切る。言葉こそ違うが、判決を言い渡すような言葉と明確な腕力によって、ユウリは寝ぼけ眼をこすりながらバスルームに用意された椅子に座った。ようやく和解できた綾香の申し出を拒否するのは気が引け、和紗には髪が鬱陶しいと言われ、蘭にはバリカンを片手に肩を叩かれた。いい加減に髪を切りたかったのはユウリも同じで、蘭のセンスにだけは任せてはならないと本能に従い、ユウリは綾香の申し入れを受け入れた。同じデザインのスーツを着回し、化粧の上達が一切見られない蘭に任せてしまえば、ただただシンプルな五分刈りにされていたのは間違いない。四捨五入してようやく170センチになる身長で五分刈りなどにされてしまえば、なんらかの禊を強要されたか、急に高校野球に目覚めたのかと思われてしまうだろう。
そして髪型の注文を付けようとしたその時、背後から聞こえた不穏な事に言葉を失ってしまう。
遥か彼方で弾丸をまき散らすマシンガン。廃車寸前のオンボロジープ。携帯電話のバイブレーター。それらに似て非なる音の正体を、ユウリは鏡越しで見て、恐怖に表情を凍りつかせた。
綾香の手に握られていたのは、電動バリカンだったのだ。
瞬間、ユウリは綾香が護衛対象である事を忘れて背後に肘を突き出す。ユウリの座っていた椅子の高さを省みるに、勢い良く繰り出された肘鉄は背後に立っていた綾香の脇腹を捉えるはず。いくら綾香が肉体面においてモンスターのような性能を誇っていても、自分が痛いと思う場所を殴られれば痛い。明神綾香の肉体がどれだけの可能性を秘めていようとも、ユウリと同じ人間である事に変わりはない。
しかし、綾香は平然と立っていた。顔色1つ変える事なく、ユウリの不意打ちに慌てた様子もなく。
ユウリの肘を、正面から片手で受け止めて。
もう、おしまいだ。ユウリは肩を落としてツートンの髪に別れを告げる。綾香にストレスで退色したと思われたのも、詩織に金が似合うと言われたのも、彩雅に髪色を模索してもらったのも今では懐かしい。これからは仕事の度にスプレーで髪を染める必要もなくなる。染める髪がないのだから。
そして、振動するバリカンの刃がユウリの髪に食らいつこうとしたその瞬間、ユウリにとっての救世主が現れた。
朝から階下で騒ぐ妹分達の様子を彩雅が見に来たのだ。
どうせ切られるなら、彩雅がいい。
日本で信用できる美容師を見つけられていないユウリはそう懇願し、彩雅は快く受け入れた。社会人にあるまじき長さになっていたとはいえ、肩まで届きそうだったユウリの長髪への嫌味を聞いていたのは彩雅も同じ。何とかしてやりたいと思うのは、姉貴分にとって当然の事だった。
しかし後悔と恐れと前髪にユウリは目を閉じてしまい、今も開けないままでいる。
そもそも信用できる美容師を探さなければならなかったのは、注文通りの髪型を作れるだけでなく、背後で刃物を持たれても信用出来る人間を探さなければならなかったから。彩雅を信用出来たとしても、その後の結果を保障される訳ではない。




