負けず嫌いのカタリズム 4
1つに結われた黒の長髪と青い鉢巻をなびかせ、だぼつく黒いジャージの胸を揺らしながら少女がトラックを行く。その手には青いバトンがしっかりと握られており、息苦しさから顔を歪ませながらもその目はまっすぐ前を見つめている。
惜しむらくは、その少女はあまりにも遅かった。
そして、これも神のいたずらなのか。ジャージのフロントジッパーが徐々に下がって行く毎に、黒の合間から覗く白い体操着の膨らみが揺れる。その光景に男子生徒達の歓声を挙げ、興奮のボルテージと反比例していく周囲の女子達の視線の温度にも気付けずに。
『氏家選手、全員に大きく遅れてようやく今バトンタッチ!』
スピーカーから流れるクシコスポストと煽るような実況を聞きながら、肩を大きく上下させる詩織の体を彩雅が支えてやる。さりげなくジャージのフロントジッパーを上げてやる辺りが、姉貴分たる所以なのだろう。どんな衆目に晒されていたのか気付かせぬまま、詩織を走り終えた選手の列に座らせていた。
護衛対象が無事200メートルを走り終えたのを見ていたユウリは、改めてぐるりと周囲を見渡す。
9レーン1週400メートルのトラックは屋内である事を除いても国内最大級。壁に取り付けられた液晶ビジョンにはABCDとそれぞれのクラスの特典が表示され、観覧席は保護者や実況の放送委員たちが埋め尽くしている。選手達と観客の熱気と声援の中には、スポーツ推薦者達の実力を計りに来たのか、周囲とは違う温度の視線をトラックに向けている人物も居た。この際、巨大な応援旗を1人で振り回している担任は無視だ。
だから、どうにもやりづらい。
誰が自分達に熱い視線を注いでいてもおかしくない。明神、氏家、艸楽の社長令嬢達にツートンヘアの美少年。素性を知らなくても、目を引いてやまないだろう。
「おい」
和紗が勘違いされていたように、誰かが学園内の生徒をスカウトしに来たとしよう。
その場合、姉さん女房は金の草鞋を履いてでも探せと言うが、ほぼ非の打ちどころのない美少年ならダイアモンドのハイヒールでも履いて探しに来るのか。金をゴールドと取っても、アイアンと取っても、ダイアモンドなら両方の美味しい所取りが出来るだろう。問題があるとすれば、そのハイヒールを履いて来た女性よりも、自分の方が履きこなすだろうというユウリの意味もない自負だ。
「おい、日本語が分からないのか?」
「いや、日本の教育水準の高さに驚いててさ。どれだけ無礼でも言葉は喋れるなんて」
苛立たしげに掛けられた声を無視して、ユウリはツートンの髪を指で梳く。来日してから切っていないせいか、それとも競技場が埃っぽいせいか、引っ掛かる感じがして指通りが悪い。紛争地帯とは比べ物にならない環境で自分なりに気を遣っているつもりだが、彩雅が乾かしてくれた時と比べる状態があまりにも違う。やはり妹分2人の世話をし続けて来た彩雅とユウリでは踏んできた場数が違うのだろう。
「先輩に向かってそんな口を利いていいと思ってんのか?」
「稀に見る美少年にそんなに気安く話し掛けていいと思ってるのかな」
「……お前、何様のつもりだ?」
「美少年様だよ。過去の造形物が世界の遺産になるなら、現存してるこの美貌はきっと世界の財産になるんじゃないかな」
どうして日本人は歳が上というだけで偉ぶれるのか。星霜学園に来てから2度目の言い掛かりに、ユウリはゆっくりと振り向く。
極端なくらいのベリーショートの髪、真っ黒に日焼けした顔には糸のように細い目。緑のラインが走る黒いジャージを纏う体は、陸上に特化するように引き締められていた。
ユウリが独自に調べた情報が正しければ、その男子生徒の名前は森崎仁。艸楽彩雅と同じ3年C組の生徒でスポーツ推薦者の陸上部員だ。
「つまんねえ話に付き合うのは終わりだ。お前は艸楽の何なんだ?」
苛立たしげに問い質してくる森崎の言葉に、ユウリはすんでの所で舌打ちを堪える。同じクラスの綾香でなく、行動を共にせざるを得なかった詩織でもなく、学園内では極力接触を断っていた彩雅のファンに言い掛かりをつけられてしまった。いずれこうなる事は予測していたが、いざその時が訪れてみれば面倒な事この上ない。
「転校したばかりで右も左も分からなかった頃に世話になっただけだよ。確かに美男美女で絵にはなるけど、勝手な思い込みで気安く話し掛けて来ないでもらえるかな」
あらかじめ用意していた言い訳を口にするユウリに、森崎は薄く細く整え過ぎて青くなった眉を顰める。
「その割には3人で随分仲良く話をしてたじゃねえか。面が良くても女関係に保険が欲しいのか?」
「趣味が悪いね。俺みたいな美少年は多くにたくさん愛情を振りまく義務があるんだよ」
「趣味が悪いのはお前だろ。とてもじゃねえけど、あんな目つきの悪い女まで手を出すなんてよ」
俺ならごめんだ、と吐き捨てる男子生徒にユウリは否定しない事で賛同する。和紗は上司として限りなく優秀だが、プライベートで肩を並べたいとは思えない。どれだけ面倒見が良くても、こちらにも面倒を掛けられてはたまったものではない。
そのせいか、ユウリは少しだけ重くなった胃を誤魔化すように腹を擦った。
「俺が勝ったら、お前はもう2度と艸楽に近づくな」
「はい?」
「俺もお前もアンカーだ。チームが善戦すればお前がリードをした状態でスタートできる。悪い条件じゃないと思うぜ」
「いや、意味分からないし。荒野の決闘気取りかよ」
あの3人に限らず、人の話を聞くようでは星霜学園の生徒としては失格なのか。ユウリは思わず頭を抱えてしまう。
今まで学園内でレインメイカーのメンバーを狙っていたのは、浅い反体制思想を持っていた綾香のアンチ、郭のように人格や生まれを否定してきた詩織のアンチ。彩雅にアンチが居ない訳ではないが、本人の立ち回りの上手さから表面化するどころか、綾香と詩織のアンチを産むほどに羨望のまなざしを一身に受けていた。斉藤泉のようなストーカーが居た事も忘れられないが、森崎仁には斉藤泉のような思い上がりの傾向も見られない。
だからこそ、ユウリにはいまいち森崎の言葉を真面目に受け取れずにいた。
そもそも、足が速くて持て囃されるのは思春期以前の少年少女くらいではないのか、スプリントだけが成長して精神年齢が止まっているのではないか。そんなだから彩雅との距離も縮められず、告白を一か八かの賭けのように避け、ライバルになりかねない相手にケンカを売るのだ。彩雅との間にきちんと信頼を築いていれば、互いに興味がない事くらい分かっていたはず。
だが、森崎はもっとも愚かな手段を取ってきた。男同士の勝負なら、告げ口などしないと森崎は思っているのかもしれないが、ユウリは身近な不穏分子の忠告をしない訳にはいかない。フェアを装ってはいたが、森崎はリレーの状況を正確に把握した上でユウリに勝負を切り出した。卑怯な手段を取れる人間に関わらず、関わらせない事以上に有効な手段などないのだから。
もし、森崎がユウリの正体を正確に把握して、彩雅の身の案じて一芝居打ったのなら話は別だが。




