負けず嫌いのカタリズム 1
『選手宣誓』
壁に備え付けられたディスプレイに、壇上に立つ男子生徒と星霜学園のエンブレムの旗が映る。時刻は8時30分、朝のホームルームの時間。いつも通り自分の席についた生徒達は、熱心に、あるいはぼんやりと眺めている。
そこにいつもと違うところがあるとすれば、夏季制服ではなく、お世辞にも良いとは言えないデザインのジャージに身を包む生徒達の姿だろう。
『我々、星霜学園高等部生徒一同は今日この日、このレクリエーションを通して互いに親睦を図り、また、選手として清々堂々と競い合うことを誓います』
夏季制服にもジャージにも合わない黒革の手袋の手で口元を覆い、ユウリはあくびをかみ殺していた。
退屈には慣れていたつもりだが、退屈の苦痛には慣れそうにない。ついでに言えば、規則正しい朝起きの生活も。
強制的に、それでいてやや暴力的に起こされる事もなくなり、比較的穏やかに起きれるようになったというのに。
『生徒代表。3年A組、藤原琢磨』
聞き覚えのある苗字に、ユウリは窓側の席へと視線を向ける。ジャージのジッパーを几帳面に上まで閉め、吊り上がり気味の目はまっすぐディスプレイに向けられている。
クラスメイトであり、護衛対象でもある明神綾香の様子に、薄い唇から小さなため息が漏れた。
謹慎命令を解除されて1週間、口を利かなくなって2週間。綾香はユウリを許すつもりも、追い出そうとする気もないらしい。それが綾香の優しさなのか、彩雅による説得の結果なのかユウリには分からないが。
「9時より、競技が開始されます。応援合戦、長距離走、ソフトボールに参加する生徒は用意を始めて下さい」
生徒代表に代わって壇上に立った校長の話をミュートして、蘭は教壇から教室を見渡す。競技開始まで時間がないというのに話を始める校長も校長だが、聞くふりもしない教師というのもいかがなものか。
そんなユウリの態度が目についたのか、蘭は1つ咳払いをする。
「いいですか、みなさん。負けから学ぶ事もあるとは言いますが、それは勝たなくていい理由にはなりません。勝ちと負けを繰り返す事で人は多角的な視野を持つ事が出来ます。幸運にもこのレクリエーションの内容は運動会と陸上競技会と球技大会。1日でこんなにも勝ちと負けを経験できることはなく、保護者の方々も皆さんの雄姿を楽しみにしている事でしょう」
ため息をつくクラスメイト達と仏頂面で熱弁を振るう蘭。自分の以外の皆が、また始まったと言わんばかりの態度にユウリは眉を顰める。
どうにも、様子がおかしい。
蘭が職務に対して熱心なのは今に始まった話ではなく、学校行事となれば熱くなるのも想像に難くない。自分のような転校生ならともかく、在校生が蘭の気性を知っていてもおかしくはないはず。
そんなユウリの疑問を握りつぶすように、蘭は固く握りしめた拳を突き上げた。
「ですから、2年A組は他学年のA組に頼ることなく、全力で勝ちに行きます。死力を尽くして掴み取った勝ちも、それを掴み損ねた負けもきっと素晴らしい物になりますから。言うまでもありませんが、怪我をしない範囲で」
手を抜くな。勝つための努力をしろ。出来るだけ怪我をせずに。
いつもとは質の違う押し付けがましい言葉にユウリは察してしまう。理解させられてしまう。
コイツ、行事になると異常に熱くなる面倒な奴だ、と。
「応援合戦は今までの練習を忘れることなく、精一杯場と体を大きく使っていきましょう。長距離走は1年から3年に掛けてスロースターターが多いようなので、序盤でリードを稼ぐのも手かと思います。ソフトボールに関しては、部に所属していない我がクラスは不利なように思えますが、弱点を突き合うという作戦においてはイーヴンです。最後はガッツがある者達が勝つでしょう。全ての競技場を回るので時間は掛かってしまうかもしれませんが、必ず5分前には着いてアドバイスを行わせていただきます。去年行われた東京オリンピックよりも熱――」
「あの、蘭先生」
「どうされましたか、加古さん」
「最終競技の組対抗リレーのトラックは、その直前のスカッシュのコートから直線距離で1キロくらい離れていますけど」
加古美佐子は顔を引き攣らせながら、未だに固く拳を握ったままの響子へと問い掛ける。
競技開始は9時からで終わるのは結果発表などを含めて16時前後。12時から13までの昼休みを除いて、常に広大な学園中と学園近くの公園等を使って競技が行われ続ける事になる。常識で考えれば、全ての競技場に顔を出す事など出来る訳がない。
しかし響子は口角を上げて笑っているとも言い難い表情を浮かべる。
「問題ありません。先生は1キロくらいなら3分を切ります。フルマラソンなら2時間30分、20キロ競歩なら1時間30分ほどです」
「いや、そういう問題ではなくてですね」
「ちなみに、スニーカーで走れば――」
「もう結構です。本日はよろしくお願いします」
美佐子はシニョンにまとめた茶交じりの髪の頭を下げて席に着き、クラスメイト一同は顔には出さずとも、つい美佐子に称賛と恨みがましい視線を向けてしまう。パンプスで世界基準の記録を出す担任に心が折れてしまうのは分からないでもないが、出来る事なら美佐子に大人しくしていて欲しいというのが2年A組の総意だ。3mほどの応援旗をなびかせながら担任が走ってくる悪夢のような光景は見たくない。道すがらにあった短距離走のトラックと並走して非公認の1位をもぎ取り、陸上部の教育方針を変えさせた伝説は繰り返してはならない。
組対抗リレー以外の競技には出ないユウリは知らないだけで、蘭は2年A組の生徒が参加する全ての競技を習得し、自主練習にも顔を出すほどに熱い指導を行う傍らで、他クラスの練習の様子などを偵察して敵戦力の分析まで行っていた。それも、自分が勝ちたいという欲求もありながら、生徒達に自分で掴み取る勝利の美酒の味を教えてやりたいという教師愛で。悪気のない熱意を断れるほど、生徒達の処世術は研鑽されていない。
「例年と違い、準備期間は足りませんでしたが、絶対に勝ちましょう。先生、そのための努力なら厭いませんから」
もう目標が変わってるじゃないか。
熱すぎて1人だけ次のステージに行ってしまった担任に、ユウリを含めた誰もが何も言えずに頭を抱えた。
ただ1人、合点とばかりに拳を掌に叩きつける綾香を除いて。




