一触即発のスケプティカ 5
「おどれのせいかも分からんが、斉藤泉は糸、伊勢裕也はガラスに対する妄執的恐怖症まで発症しとる――ここまでしても、協力は出来んか?」
「出来ないよ。アンタと敵が通じていない証拠はないし、その情報が誰かから意図的に流されたものだって証拠もない」
「げに可愛くのうやっちゃ」
「その代わり、とんでもなく綺麗でしょ」
社員としての仮面と伊達メガネを脱ぎ去り、ユウリはシニカルに口角を歪める。
間違いなく、この女は状況を正確に理解している。陳がユウリに情報を提供出来ていない事も、ユウリ自身も情報という分野において後れを取っている事も、自分がユウリよりもはるかに優位な立場に立っている事も。斉藤泉はともかく、救急病院に運び込まれた伊勢裕也のカルテは簡単に手に入るものではない。
だから、ユウリは紙カルテを突き返し、後ろ手に腕を組んでワイヤーソーのリングに指を掛ける。
「とりあえず、俺はそちらさんが事情を理解したとして話をすすめさせてもらうけど、俺と取引しようって言うなら1つだけ答えて。騙そうとすれば殺すし、その気がなくても騙したら殺す。それを理解した上で、ちゃんと答えて欲しいんだけど、何が目的なの?」
「ウチの終身雇用とあん子らの安全。あん子らに何かがあれば、こん会社はおしまいじゃ」
「それだけのために?」
「それだけやない。引っ込み思案なあん子に、詩織に言われたんじゃ。おどれを助けてほしいって」
急に出された詩織の名前に、ユウリはワイヤーソーを引いていた手を止めてしまう。
ユウリが学校以外の時間を軟禁されていた数日間。詩織はシェアハウスでユウリと一緒に過ごしており、監視しているつもりはなくとも、詩織が誰とも連絡を取って居なかった事は知っている。隠れて連絡を取っていない限り、詩織がユウリにも知られずに誰かと連絡できたのは"あの日"だけ。
トライトーンレコードに在籍し、ユウリという業務上無能をカバーできる実力を持った社員。そんな人物の心当たりなど、1人を除いて他には居ない。
「……もしかして、アンタが?」
「そうじゃ。ウチはおどれの影、レインメイカーのチーフマネージャー。鉛地和紗、あん子らにゃ"カズ"と呼ばれとる」
そういう事か、とユウリは自分のバカさ加減に頭を抱えてしまう。
和紗だからニックネームが"カズ"。対人恐怖症気味で男に免疫のない詩織が連絡が取れる相手。彩雅の名前から2文字からニックネームを決める性質にも合い、そもそも誰も"カズ"の事を男だとは言っていなかった。荒事を想定した任務内容や誰も信用しない気質から疑っていただけで、ユウリは何度か顔を合わせていた協力者に気付きもしなかったのだ。
「もう限界なんは分っとるじゃろ。陳は窮地になるまで支援はせんし、おどれにゃ情報を手に入れる手段がない。おどれは直面した状況を解消する事は出来ても、そこに発生した問題を根幹から解決する事は出来ん。あん鬱陶しい狗飼いう女でも、ここまでされちゃあどうにもならんじゃろ」
「何でそんなことを言えるのさ?」
「うちも陳にヘッドハンティングされて来たからじゃ。あいつは目上の人間にとっては便利な部下で、目下の人間からすれば気の利かん上司。期待するだけ無駄じゃ」
分かっていたさ、とユウリは悔しさからつい舌打ちをしてしまう。
斉藤泉の襲撃以降、情報を与えるどおろか後手に回り続けていた陳を信用できず、ユウリは情報の共有をしていない。陳が本当に状況に対応できていれば、そもそも伊勢裕也に対しての対策を講じられており、ユウリに対しての情報制限は状況を悪化させるだけ。頼りきりになる気がなくとも、これ以上の支援を望めはしない。
その事から考えるに、ユウリは本当に陳が何もできなかったのだと考えている。それこそ、任務に失敗した自分を殺しに来るのではと恐れる程度には。
明神敬一郎に信頼されているからこそ、陳大文の敵は多い。明神との血の繋がりを重視する環境では、どれだけ優秀でも中国系の男は不利なのだと。
だが、それ以上にユウリが気になっているのは、和紗の推論と情報の精度の高さ。フラッシュポイントに対する考察が的を射すぎているのだ。
フラッシュポイントは摂取量と生まれつきの体質によって効果の深さが異なる。摂取量が少量で抗体が強ければ、軽度の依存症と妄執的恐怖症の発症程度。摂取量が多量で抗体が弱ければ、後の人生を見えない敵と怒鳴り合いながら生きるようになる。
理性的に人を集めた2人は比較的前者に近いが、ごく少数の例外を除いて、フラッシュポイントは摂取した人間が燃え尽きるまで興奮と不安の火の粉をまき散らす。
つまり、2人にフラッシュポイントを与えた誰かは、2人を凶行へ走らせ、本人自体を壊す証拠隠滅を目的としていたという事になる。喋る脳と口がなければ、真相は闇の中なのだから。
挙句の果てには、フラッシュポイントを追う過程であの場に居合わせた狗飼美緒の正体と役割にも気付いているとなれば、和紗の優秀さはもう疑いようもない。
「今はうちを信用せんでもええ。ただ、うちを信用したあん子らだけは信じんさい。子供を助けるんは大人ん役目じゃけえ、あん子らを守る限り悪いようにはせん」
「まるでパスカルみたいな事を言いやがって。アンタ、マジでなんなんだよ」
「元高利貸しの取り立て屋、今はトライトーンの敏腕マネージャー様じゃ」
タブレットをかみ砕いてにやりと笑う和紗に、ユウリはもう両手で顔を覆う事しか出来なかった。




