一触即発のスケプティカ 1
星霜学園の女性教師、蘭響子直面した現実に戦慄していた。
恐れ慄き、驚愕するあまり、元より表情に乏しかった顔は硬直し、その手から零れ落ちたボールペンは軽い音を立てて机の天板を跳ねるほどに。
こんな時代に人の命を預かっていると言っても大げさではない仕事、それでも他のどこでもない星霜学園に勤めているのだ。乗り越えて来た修羅場も1つや2つではない。
だというのに、響子は慄いていた。予想を超えた現実に、ありえないと描いていた絵空事に。
そして、震える唇はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「課題が、終わった?」
「どうしてそんな信じられないみたいな顔をされなきゃならないんですかね」
響子のあんまりな言い分に、ツートンヘアの男子高校生――不知火ユウリは眉を顰めてしまう。
放送を使ってまで呼び出され、昼休みを使って来たくもない職員室に課題を提出しに来たというのに、こんな仕打ちを受けてしまえば当然。華美な頭髪にいくつもピアスをしている生徒にとって、職員室は紛れもなく針のむしろだった。たとえそれが、自業自得だったとしても。
「こういう事を言っていいのか分かりませんが、年度末に補習を行って終わらせる予定でいましたので」
「それ、本当に言わない方が良かったと思いますよ」
うんざりしたようにユウリは制服のネクタイへと手を伸ばすも、パチンという軽い音と信じられないほどに重い衝撃に手の甲がスラックスの腿を打つ。
どうして自分の周りには手加減の出来ない女達ばかりなのだろうか。自分の境遇と右手の痛みにユウリは嘆くも、響子は気にも留めずにネクタイを直し始める。結婚適齢期真っ只中の隣席の女性教師がその光景に白目を剥いていても、一切。同僚の脳裏に生徒との禁断の恋愛がよぎろうとも、同僚にとって夢のシチュエーションを無意識に演じていようとも、響子からすればただの生徒指導に過ぎないのだ。
「何か、プライベートであったんですか?」
「時間が出来たんで一生懸命やっただけですよ。何で真面目にやっただけでそんな風に言われるんですか」
「ようやく真面目に授業に出るようになったと思ったら、膨大な量の課題を終わらせていた。心配するのは担任として当然でしょう」
「膨大過ぎる量を出した事に何かを思ってほしかったですよ」
「あなたの将来を想っていました。そのためのペナルティですから」
それはもっともだ。言葉以上の意味はないだろう、響子の愚直な言葉と不幸続きの最近の自分にユウリは肩を落とす。気に入っていたピアスを失くし、国防を担う人間に目をつけられ、学校以外の時間は青山のシェアハウスで軟禁。おかげ課題を終わらせるだけの時間が取れ、部屋のカードキーは隠し持っているだけ気分はマシだが、食事を部屋まで持って来られる事に慣れそうにない。護衛対象の1人だった氏家詩織があの手この手で部屋に居座ろうとする事にも。
「まあいいでしょう。何かあったら言って下さい。どこまで力になれるかは分かりませんが、私はあなたの担任なのですから」
「……心にとどめておきます」
ポン、とブレザーの胸を叩いて来る響子の手を払い、ユウリは軽く頭を下げて離れる。
そもそも、ユウリが呼び出されたのは夏季制服の話をするため。響子は星霜学園は制服の移行期間に入っており、入学前に夏服の注文を出来ていなかったユウリと話をする必要があったのだ。
6月ももう後半。夏になっても長袖のワイシャツの着用する生徒は多いが、流石に冬季制服のスラックスを着用し続けるのは辛いだろう。ブレザーが脱げない理由があるのなら、スラックスと併せて指定のサマーカーディガンの注文をしてはどうか、と。
手袋の事を気にしてくれたのか、それともタトゥーか何かを疑われているのが。情け深さと疑い深さを併せ持つ響子の厚意にユウリは言葉を濁す事しか出来なかった。
夏季制服を注文したところで、ユウリは届く前にこの学園を去る事になる。
今日の放課後、トライトーンレコード社屋でユウリへの沙汰が言い渡されるのだ。
どんな手段を使ってでもユウリは日本での潜伏を続けるつもりだが、赤の他人を巻き込むつもりはない。星霜学園に通い続ける事など、出来るはずもない。
この際、取引に応じてしまおうか。
何度も繰り返し、出来る訳がないと否定し続けた自問に、ユウリはメッセージカードを仕舞い込んだ財布に触れる。狗飼美緒の電話番号とメールアドレスが書かれただけのカードが、ユウリの心を強く揺さぶってくるのだ。
何より、最近はどうにも調子が良くないようにユウリは感じていた。
栄養満点の食事や持て余し気味の時間のおかげで体調は来日前より良好だが、精神面がどうにも不安定。少なくとも、以前のユウリなら我を忘れるほど相手を痛めつけたりはしなかった。痛めつけるための暴力など振るいはしなかった。
だからこそ、作ってしまった借りがユウリには重い。美緒には窮地を助けられ、犯した罪を見逃され、3人には当面の命の保証をされてしまった。元を正せば、自分を抑えきれずに逃げ出しただけなのに。
とにかく、今後の事を考えなければなければならない。ユウリがそんな事を考えながら扉へと手を伸ばすと、職員室の扉が勝手に開き、そしてそこに居た人物に足を止めてしまう。
赤みがかったショートカットの髪。活発さを感じさせる顔つき。指定の赤いリボンを飾る白い半袖のシャツ、赤いラインが走る学園指定の灰色のベストに、折り目正しく整えられたスカート。
シェアハウスでも顔を合わせる事がなくなった護衛対象の1人、明神綾香がそこに居た。
どうぞ、と言葉もなく道を譲るユウリに、綾香はため息を1つついて職員室の奥へと入って行く。どこか苛立たしげなその態度にユウリは思わず苦笑してしまうが、綾香の事を責める気にはなれない。
あの時、綾香が守ろうとしたのは詩織だけはない。監視すると約束した、信用ならないボディガードも守ろうとしていたのだ。
だというのに、ユウリは既にあきらめていた。伊勢と出会い、家の格差というものを思い知らされ、逃げる機会すら、伺っていたのかもしれない。
だから、2人は言葉もなくすれ違う。
視線も交わさず、後ろ髪に手を伸ばす事もなく、ただ黙って背を向け合って。




