諧謔弄しのエスケイプ 6
「随分と買い被ってくれてるみたいだけど、俺はもう明神に接触するカードになんて――」
なれない。自分の言葉を遮る無機質なチャイムにユウリから一切の表情が消えた。
「カードになんて、なんだって?」
知らない、こんなの、ありえない。ユウリは知らぬ間に握っていたシーツから手を離し、未だにどいてくれない美緒の肩を押す。
朝方という誰かを訪ねるには非常識な時間、無遠慮に鳴らされ続けるインターフォンの音に近所迷惑だと美緒が眉を顰めている事から、美緒を目的とした来客ではないだろう。
となれば、思いつく目的などユウリには1つしかない。
「銃とかあったら貸してくれない?」
「そんな物騒な物を持ち歩いてる訳ないでしょ」
「そうかい。平和でいい国だね、吐き気がするくらいに」
始末をつけに来たか、落とし前をつけさせに来たか。
床に転がる小さな酒瓶を手に取って、ユウリは足音を立てないように玄関へと向かう。仮にも客とは言え、相手は招かれざる客。いくら美緒が強くても、対応をさせる訳にはいかない。絶対に責任を取れるという訳ではないが、助けてくれた美緒に死なれては気分が悪い。
ゴミだらけの廊下を進み、ユウリはようやく玄関へと辿り着く。脱ぎ捨てられたパンプスやブーツに紛れていたローファーを履き、小さなのぞき窓を覗き込む。
小さなレンズから見えたのは2人の女。
1人はいつかトライトーンの社屋で見た赤いメガネの女。
もう1人は、インターフォンを連打する彩雅。
ユウリはその光景に頭を抱えたくなる衝動に駆られる。インターフォンを連打する彩雅の手に躊躇いはなく、その後ろで退屈そうにあくびをしている女の手には大型のボルトクリッパー。その光景がいざとなれば、強硬手段も厭わないという2人の意志表示にしか見えない。武器を持っているようには見えないが、ここまでされてしまえばユウリでなくても警戒はしてしまう。
鍵を開ければチェーンを切られてしまうが、このままやり過ごそうにもインターフォン完備の日本の住宅基準がそれを許しはしない。
だが、ユウリにはわからない。どうして彩雅がそこまでしようとしているのか、赤いメガネの女が付き合っているのか。
そもそも掃除人としてご令嬢が寄越される理由はなく、何があっても3人が不利益を被らないように、ユウリは詩織に全てを渡して来たのだ。伊勢の証言を録音したスマートフォンも、伊勢の指紋が付いた楽曲データを内蔵したフラッシュメモリも。
もしかしたら、その上で彩雅でも手に負えない事態になってしまったのではないか。
逃げ出した事を棚にあげて、ユウリは鍵を開けてゆっくりと扉を開く。左手には酒瓶を、頭の片隅でちょっとした言い訳を考えながら。
「近所迷惑ですよ。何時だと思って――」
あくまで善良な住人を演じた牽制。利口な彩雅なら、その言葉の中で意志を伝えて来るはず。
しかし、そうはならなかった。深夜に尋ねられて迷惑している住人を演じていたユウリは、最後まで言葉を続けられなかったのだ。
シャネルのチャンスオータンドゥルの香りが鼻孔をくすぐり、分かりやすく迷惑そうに歪めていた顔は緑色のリボンタイの胸に押し付けられ、皺だらけのスーツ背中には華奢な腕が回されている。
気付けばユウリは、彩雅の腕の中に居た。
「……離して」
「嫌よ」
「ダメだよ。服も髪も煙草の煙を吸っちゃってるか――」
「嫌よ、絶対に離さない」
離そうとすればするほど強まる腕に、縋り付いて来るような彩雅にユウリはどうしていいか分からず、酒瓶をさりげなく下駄箱の影に隠す。亜麻色の髪から覗く顔にはいつもの微笑みはなく、彩雅がいかに追い詰められているかを表すようだった。
「あらあら、随分お熱い不純異性交遊ね。お姉さんくらくらしちゃう」
「不純かどうかは、当人達の決める事です。ゴミ貯めの住人が未成年を保護したのか、それとも引き込んだのかが違うように」
「そうかもしれないわね。そんな大きな工具を持った人を通報しないのも、私の善意によるのだから」
様子を見に来た美緒の挑発的な態度に赤いメガネの女は、ポケットから取り出したタブレットのケースを開け、中身を全て口に流し込む。そうしている間も、女はボルトクリッパーは、人を簡単に殴り殺せそうな鈍器を肩に担いでいた。
滑稽なほどに似合いすぎていて、一片の隙もないほどに馬鹿馬鹿しい。
まるで出来の悪い映画のような光景にユウリが顔を引きつらせていると、彩雅はスーツ姿の背中に回していた腕を離して、ユウリの後頭部を押して無理矢理に頭を下げさせた。
「うちの子が、大変ご迷惑をお掛けしました」
「別にいいわよ。楽しませてもらえたし、悪くなかったもの」
そう言って、美緒はユウリの顔を上げさせて頬を軽く撫でる。隣で息を呑む彩雅の気配に、ユウリは思わず美緒を睨みつけてしまう。
明神に近づきたいというのであれば、明神に近しい艸楽にマークされていいはずがない。
だというのに、ユウリの困惑をよそに、美緒は彩雅の目を覗き込んで意味深に微笑んだ。
「もう目を離しちゃダメよ――あなた達に"預けて"おくから」




