諧謔弄しのエスケイプ 2
「じゃあ狗飼は――」
「待った。やっぱり美緒で」
「……じゃあ美緒はどうしてあの場に居たの?」
狗飼美緒は何らかの目的を持ってユウリを自分のテリトリーに連れて来た。その事を念頭に置いてユウリは美緒に問いかける。こういった手合いに対して感情的になるのは逆効果だと、ユウリは誰よりも知っている。現に女性が嫌がる言葉を投げ掛けられたが、美緒は視線を鋭くするばかりで動揺を一切見せていない。
何より、あのスタジオは全館レインメイカーの貸切だったはず。あのスタジオに用があったアーティストという言い訳も、スタジオの従業員という言い訳も美緒が振り回していた3段ロッドがさせない。
狗飼美緒という女はスタジオにおいて誰よりも異質で、あの修羅場において誰よりも適していた。
そして美緒はユウリの意志を理解したように、口元を上げて笑みを浮かべた。
「とある麻薬のルートを探っていたら、あの現場に鉢合わせた。そう言ったら、あなたのような美少年でも信じてくれる?」
「……その呼び方も嫌いじゃないけど、とりあえずはユウリって呼んでもらえるかな」
「そう。よろしくね、ユウリ」
張り詰める精神を誤魔化すように、ユウリは出来るだけ上等な笑みを浮かべる。
良く似合うスーツ姿は女刑事然としており、色仕掛けが通じる相手とは思えない。だが、こちらの顔色を窺わせてやる理由もない。
「詳しくは話せないけれど、私はとある麻薬ルートの1つとして伊勢裕也をマークしていたの」
「伊勢を?」
「ええ。伊勢裕也がバーをやっていたのは知ってる?」
「1年くらいで閉めたって事くらいは」
話が早い、と美緒は満足げにうなずく。
「いくら伊勢裕也が世間知らずの無能でも、たった1年っていうのは早すぎると思わない?」
「……こっちもあまり事情は離せないけど、確かに早いとは思うよ。伊勢自身はあんなんでも、金持ちの身内らしいし」
「そう、そこが問題だったの。これは口外してはいけない事なのだけど、伊勢のバーは麻薬の取引場所だったのよ。オランダで言うところの、コーフィーショップみたいなものね」
こっちは非合法だけど、と付け加えて、美緒はユウリと向き合うようにゴミが乗ったベッドに腰掛ける。助けてくれたお礼替わりのつもりの情報がよほどお気に召したのか、ブラウンの瞳はまっすぐユウリを見据えていた。
「つまり、そちらさんのアンダーカバーに気付いた伊勢が、バーを閉めて逃げ出したって事になるの?」
「正確には、バーを閉めて逃げるように指示をした人間が居るんじゃないかって事。少なくとも、私はそう考えているわ――だってあまりにも出来過ぎじゃない。証拠を集めるために捜査官を何人も送り込み、取り扱っている麻薬の種類を特定した途端に閉店。誰か1人でも捕まえられれば、そこから芋づる式にいけたのに捜査は打ち切り。そんなんだから、私のような単独で動ける捜査官が出張る羽目になったの」
美緒の話を聞きながら、ユウリはピアスに伸ばしそうになる手を止めて考える。
アルコールの臭いはせず、興奮と共に増加した多量の唾液と一緒に溢れ出す支離滅裂な言葉。伊勢の異常な様子から麻薬が絡んでいる事はユウリも予想していた。駐車場に居た男達は薬か、詩織と共に手にする予定の金で雇われたのだ、と。
伊勢がその売人である可能性までは考えていなかったが、伊勢の背後に誰かが居るというのは何よりもユウリを納得させた。
その誰かが伊勢に麻薬を流し、胸中の不安を刺激して強硬手段に至らせたというところまでは。
だが、その目的が分からない。
詩織を手中に収める事で氏家書房を手に入れたとしても、こんな手段に出れば、明神が横槍を入れたはず。明神と氏家の結びつきが強いのは明らかで、明神は詩織と氏家を守るという名目でその両方を支配できるのだから。
ふと脳裏に浮かんだ1つの考えを、ありえないと否定する。薄くとも、家のつながりがあった伊勢を失ってまでする事ではない。
不知火ユウリの排除なんか、誰にとっても些細なはずなのだ。
「そして、そこで売っていた麻薬って言うのが――」
「フラッシュポイント」
まずい。ユウリは意識なく継いでしまった言葉に、歪みそうになる表情を必死に堪える。
フラッシュポイントという名前の合成麻薬がどれだけ有名でも、その麻薬の捜査中に乱闘騒ぎを起こしていたユウリを美緒は無関係の人物とは思ってくれないだろう。最悪、伊勢を裏切った仲間だったと思われているかもしれない。ユウリの暴力への躊躇いのなさと、現場に置いて来てしまったワイヤーソーの事を知られていればなおさらだ。




