諧謔弄しのエスケイプ 1
いつだって、転機は炎と共に訪れた。
まだ幼かったあの日も、全てを捨てたあの日も、復讐を誓ったあの日も。いつだってそこで炎が揺れていた。
一瞬たりとも忘れた事はない。燃え盛るミニバンも。その瞬間まで強く抱きしめてくれた温もりも。熱量の全てを失ったような錯覚と、代わりに生まれた復讐の炎も。
ただ、とユウリは思う。あの時の煙はこんな匂いではなかった。硝煙が揺れ、ガソリンが燃え、人の肉が燃えたあの匂いは。
なんというか、これは。
「……ヤニ臭え」
「起きてそうそう失礼な事を言ってくれるじゃない」
聞き慣れない女の声にユウリはゆっくりと目を開く。おぼろげな視界に飛び込んできたのは煙草で焼けたベージュ色の天井に、ふわふわと揺れる煙草の煙。
そして1人の女。詩織や彩雅ほどではないが、女性的な体のラインに白いワイシャツと灰色のスラックスと纏い、暗いブリュネットの髪を首元で1つに結わいた女が居た。目尻は長く切れ、鼻立ちは細く優しく、それでいて口元は当人の愛嬌を感じさせるようにほころばせている。
「まあ、意識がはっきりしてるようで何よりだわ」
女が差し出してきたミネラルウォーターを受け取り、ユウリは未だにぼんやりをした頭を抱えて体を起こす。ネクタイは緩められているが、手袋は外さないでくれたらしい。シャワー以外では外さない事を知られているような気がして、却って気味が悪くもあったが。
「ねえ、どうして俺はここに居るの?」
「ひどいわ。あんなに熱い時を過ごしたって言うのに」
「俺みたいな美少年には相手を選ぶ権利があるんだよ。こんなに汚くて煙草臭い部屋の住人なんて相手にはしないくらいには」
わざとらしくしなを作って嘆く女に、ユウリはありえないだろ、と両腕を広げる。
脱ぎ散らかされた衣服だけならまだ良かった。床には空の酒瓶などが散乱し、テーブルの上の灰皿には芸術的なバランスで吸殻が重ねられている。とてもではないが、いい大人の住む家とはユウリには思えなかった。"エブリデイ生存"と胸に書かれたTシャツなど、もってのほかだ。
「……いいじゃない。唯一無事なソファを使わせてあげてるんだから」
「ベッドまで汚い事に危機感を持てって話だよ。俺が使う事は一生ないから勝手にすればいいけど――それより、いい加減に質問に答えてくれないかな?」
痛い所を突かれた女は口を尖らせてそっぽを向く。当初はこんな状態になるまで放置しておくつもりも、一切掃除をしないつもりもなかった。
ただ、捜査の状況次第で何日も家に帰れなくなり、寝に帰るだけの場所という認識が掃除をさせなかっただけ。本当に寝に帰るだけなら、酒瓶や空の弁当箱で部屋が汚れるはずもない事実を無視して。
「じゃあ、逆に聞くけれど、あなたはどこまで覚えてる?」
良くなった兆しが最初からない形勢を誤魔化そうとする女に、ユウリはため息を1つついてミネラルウォーターを煽る。
真っ先に思い出すのは、伊勢の裏切りと感情に任せた暴行。
そして、失望させてしまった3人の事。
医療技術の水準が高い日本で伊勢が死ぬ事はない。そう判断したユウリはこの件で3人に責任が負わされる事がないように、切り札を詩織に預けて来た。
時計もないこの部屋のせいで時間は分からないが、開けられた形跡のないカーテンの向こうはうっすらと明るい。3人もとっくに事態に気付いて陳と連絡を取っている事だろう、とユウリは肩を竦める。護衛任務を放り出して逃げ出した自分に、3人を心配する権利などもうないのだ、と。
「……思い出したよ。おばさんが、助け――」
「おばさんはやめてちょうだい。まだそうは呼ばれたくないの」
「知るかよ、俺はアンタの名前を知らないし」
「あらそう。私の名前は狗飼美緒、 狗飼でも美緒でも好きに呼べばいいわ」
はいよろしく、とおざなりな挨拶をしてくる狗飼美緒に、ユウリは思わず顔を顰めてしまう。
正直に言えば、美緒はユウリの苦手なタイプだった。こちらが乱したペースに対して新たな波をぶつけて更に乱し、煙に巻こうにも相手が霧の向こうから出てこない。買い被りかもしれないが、この無残な部屋でさえ、ユウリのガードを解かせるためのものかもしれない。
何より、何故かちらつく理解不能な面影が、ユウリの心を乱してくるようだった。




