身の程知らずのユーサープ 6
「ユウリ、さん、あの――」
「ごめん。俺って本当にバカだからさ、氏家の今後とか立場とか、そういうのを考えられなかったんだ」
恐がらせてしまったのか、綾香と同じように失望させてしまったのか。
どもる詩織の言葉を遮るように、ユウリはポケットのを中身をハンカチで包んで差し出す。血まみれのハンカチで詩織の手を汚してしまうのは気が引けるが、これは詩織に持っていてもらわなければならない。
こんな物で返せるとは思わないが、この程度でしか恩を返せないのも事実なのだから。
覚えてはいなかったが、思い出せなかった訳ではなかった。
手袋越しの感覚も、近くで感じた寝息も。
だからこそ、ユウリは黒い前髪の向こうで揺れる瞳から目を逸らす。向かうはスタジオを出てまっすぐ廊下の端にある非常階段への扉。
「柄じゃないよなぁ……」
つい呟いてしまった言葉とは裏腹に、金属製の重い扉が開いたその瞬間、ユウリは飛び出すように階段を駆け下りていく。伊達メガネを捨て、財布を捨て、本当に必要な物以外を全て捨てながら。
本当ならハンカチの中身の意味を教えてやりたかった。だがユウリにはもう時間がない。彩雅が機転を利かせて理解してくれる事を信じるしかない。
繰り返すが、ユウリには本当に時間がないのだ。
護衛任務は最悪の形で失敗。おそらく、責任は不穏分子を連れて来た陳に向かうだろう。
陳は自身の立場を守るために、ユウリを護衛任務から解任するはず。普通の雇用主と被雇用者なら日本から追い出されるだけで済むが2人は違う。陳はユウリを雇うために命を狙い、ユウリに至ってはそもそもがテロリスト。テロリストを国内に手引きしたと知れれば、陳へのペナルティは解雇どころでは済まない。ユウリと同じように、テロリストとして法で裁かれる事になる。
それを避けるにはどうすればいいか。答えは簡単だ。
テロリストであるユウリ・レッドフィールドごと、ボディガードである不知火ユウリを口封じしてしまえばいいだけ。遥か遠い身内でありながら、明神に牙を剥こうとした伊勢に発言権はないのだから。
だから、これが逃げる前の最後の仕事。
地下階を示す数字が描かれた扉を前に、ユウリは息を整えながらボールペンをポケットから取り出した。
状況に動きがない事に陳と彩雅が気付く前に事態に収拾をつけ、ユウリは全てを捨てて身を隠す。
まだ死ぬ訳にはいかず、"真実"を知るまでは明神敬一郎が居る日本から離れる訳にもいかない。
たとえどんな事をしてでも、生きなければならない。
「約束は守れなかったけど――」
隠れもしないとばかりに堂々と扉を開けたユウリは、予想通りの光景にため息を漏らしてしまう。
コンクリート打ちっぱなしの壁と床、並べられた車達。典型的な地下駐車場に居たのは、エンジンが掛けっぱなしのワゴンを取り囲む、目だし帽を被った5人の男達だった。
ユウリが取引に応じれば、詩織を回収するつもりだったのか。それとも、力づくで3人を連れて行くつもりだったのか。
だが、それはもう関係ない。
ユウリの心は、もう決まっているのだから。
「――アンタ達くらいは、守ってみせるから」
左手を振り抜くようにボールペンを投擲したユウリは、姿勢を低くして一気に駆け出す。弾き出されたボールペンは手前の男の腿へと突き刺さり、男はマスクのせいでくぐもった声を上げて地面に倒れこんだ。
伊勢が帰って来ない事に焦っていた男達だったが、突然現れたスーツ姿の少年と蹲った名前に事態を把握させられる。計画は失敗し、スーツ姿の少年が全ての元凶なのだと。
しかし男達が動き出すよりも早く、ユウリは走る勢いをそのまま、袖から引きずり出したワイヤソーを手近な男の首に掛けた。
「クソがァッ!」
男の1人がワゴンから取り出した鉄パイプをユウリへと振り下ろすも、ユウリはワイヤソーを強く引いて捕えた男を盾のように構える。深く被られた目だし帽のせいで抵抗をしていた男だが、頭を強かに打つ鉄パイプについに崩れ落ちた。
ユウリはその鉄パイプを左手で掴み、鉄パイプを握っていた手を拳で殴りつける。仲間を殴ってしまった事で茫然としてしまった男は、予想外の痛みについ鉄パイプを手放してしまう。
やめてくれ。男は体を捻って野球のバッターのように鉄パイプを構えるユウリにそんな視線を送りも、ユウリは躊躇いもなく鉄パイプで男の頭を殴りつけた。
「死ぬほど痛いだろ、クソ野郎」
肉を打ち、歯を砕いた確かな感触。返り血を振り払いもせずに、殴り倒したばかりの男が地面に叩きつけられるのも見ずに、ユウリは鉄パイプを構え直そうとする。
あと3人。あと3人倒せさえすれば、レインメイカーを守れる。自分もこの状況を切り抜けられる。
しかしユウリには何もできなかった。
仲間を助けようともしなかった3人目の男の太い腕が、細い首を絞めつけるようにユウリを捕えたのだ。
しくじった。喉に押し付けられた腕のせいで怒鳴り散らす事も出来ずに、ユウリは背後の男の脛を全力で蹴りつけるも、細い首を絞める腕が緩む様子は一切ない。
体は本調子とは言い難く、ビー玉の在庫は切れ、相手が厚着をしているためにワイヤーソーは利かない。そもそも、フィジカルで大いに劣るユウリがサブミッションで勝てる見込みなどない。
どうすればいい。酸素が滞り始め、くらくらとし始めた頭でユウリは考え続ける。やや浅黒い肌の顔はチアノーゼから徐々に赤くなり、爪を立てる手からはゆっくりと力が抜けていく。
負ける訳にはいかない。意志だけがユウリを突き動かすも、体がそれについて行かない。
失望させてしまった。怒らせてしまった。裏切ってしまった。
守って見せると誓ったのだ。他の誰でもなく、自分自身に。
「寄ってたかって、いいご身分じゃない」
どこかハスキーで、どこか楽しげな女の声。そして、聞き慣れた肉を殴る鈍い音。
レインメイカーではない女の存在に気付いたその瞬間、ユウリは背後の男と一緒に地面へと崩れ落ちた。
コンクリートに叩きつけられた節々は痛み、体が酸素を求めて咳き込む。頭は眩暈に襲われ、眩暈とは違う脱力感に意識が薄れていく。
ただそれでも、琥珀色の瞳は見つめていた。
「掛かって来なさいな――後悔するくらい、叩き潰してあげるわ」
1つに結われた暗いブリュネットの髪。比較的高い身長の体に纏う灰色のパンツスーツ。3段ロッドを構えた日本人の女。
どこかの誰かに似た面影をぼんやりと眺めつつ、ユウリは意識を失った。




