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レインメイカー  作者: J.Doe
スプリンクル・マンデー
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身の程知らずのユーサープ 4

「……何をされているので?」

「進捗状況を知るのもマネージャーの仕事なんじゃねえの? 俺は知らねえけど、真面目なお前なら分かんだろ」


 よほど気を張っていたのか、冷や汗をシャツの袖で拭う伊勢を睨みながら、ユウリは相手の顔色をうかがい続ける。

 比較的整っていた顔の頬はこけ、手入れもされていない無精ひげが生え、目元に濃い隈を浮かべる目は瞳孔が開き、血走っている。伊勢の言葉を額面通りに受け取るのであれば、体調の悪さをおして頑張った社員にも見えるかもしれない。

 だが、伊勢がジャケットの胸ポケットにしまいこんだフラッシュメモリが、ユウリの神経を刺激してやまない。


「それを渡してください」

「冗談じゃねえ。ようやく手に入れた取引材料をくれてやる訳がねえよ」

「脅迫材料の間違いでしょう。つまらない事を言っていないで、それを早く渡してください」

「調子こいてじゃねえぞ、クソがァッ! 言ったじゃねえかよぉ、余計な事をするって! お前が余計な事さえしなけりゃ、俺が手を汚す事なんてなかったのによぉ……俺はあの根暗女を落として会社をやめてやっても良かったのによぉ」


 何をバカな事を。あきれるあまり言葉に詰まるユウリを無視して、伊勢は唾液を拭うように顔面を手で覆う。


「だからよ、全部ぶっ壊してやる事にしたんだ。お前達の写真を週刊誌に売り渡して、この新曲をジョーカーに売り込む。そうしちまえば、レインメイカーは終わりであの根暗女は家に帰るしかなくなるだろ? そうすりゃ、俺だってこんな事しないで済むだろ?」

「そんな事をして何になると言うのです。氏家様に許されたいと願ったあなたが――」

「お前が言うんじゃねえよ! お前が失敗したから俺が明神と艸楽に責められた! お前が余計な事を吹き込みやがったから、あの根暗女がこの俺に歯向かいやがった! お前が不甲斐ないから藤原ごときに偉そうな口を叩かれた! 全部何もかもお前のせいだろうがよォッ!」


 髪をかきむしりながらぼそぼそと泣き言を言い始めと思いきや、血走った目をむいて急に怒鳴り始める伊勢。

 あまりにも支離滅裂で、あまりにも一方的な言いがかりにユウリは思わず言葉を失ってしまう。伊勢が口にした全ては自業自得で、明神に歯向かう事など出来る訳がない。本当に冷静であれば、明神の名前を恐れていた伊勢であれば、気付けるはずだった。

 しかし、もう伊勢に態度を取り繕っていた頃の面影はない。

 くたびれた容姿にも、乱れた髪にも、不安定な情緒にも。何もかもが今の伊勢の異常性を表しているようで、どこかで見た誰かのようで、哀れで惨めだった。


「でもなんだ、お前にも噛ませてやってもいいぜ? お前があの根暗女を説得して俺の所に来させるなら、今回の事で手に入る金から1割くらいならくれてやるよ」

「お断りします」

「そう言うなよ。どうせお前も会社を追い出されるんだ。最後に一儲けしてもばちは当たらねえだろ?」


 そうかもしれないが、とユウリは小さく舌打ちをする。

 おそらく、伊勢は社長室に呼び出されたあの時、藤原宗吾によって解雇を告げられたのだろう。

 詩織に完全な拒絶をされ、綾香と彩雅に見限られ、会社には切り捨てられた。その事から、伊勢は自棄になってしまったのかもしれない。

 だが、ユウリにはそこまで至った理由が分からない。中途で入社し、レインメイカーのマネージャーになれるほどの後ろ盾を持っていた伊勢を、どうしてトライトーンは簡単に切り捨てたのか。どこまで明らかになっているかは知らないが、たった1度のミスで社員を解雇できるほど日本の雇用契約は軽くないはず。たとえそれが試用期間であっても。


 だというのに、伊勢はそれを盾にして戦おうともしなかった。戦う事すらできなくなってしまった。

 伊勢裕也は、逃げ出したのだ。


「誰に"ソレ"を――いえ、誰に入れ知恵をされたんですか?」

「あぁ?」

「誤魔化さないでください。とても大切な事なんです」

「知りたきゃ俺に協力しろ。"アレ"が欲しけりゃ、報酬の代わりにくれてやってもいいんだぜ?」


 不愉快そうに顔を歪めるユウリとは裏腹に、伊勢は目を見開いたまま、だらだらとよだれが溢れる口元だけで歪に笑う。

 後ろ盾は目前の崖に向けて伊勢の背中を押すだけで、体内を駆け巡る血は酸素と一緒に無責任な高揚感とどうしようもない不安を連れて来るだけ。

 それでも、切り札は手に入れた。

 詩織とユウリの写真を売れば、不知火ユウリは自分と同じようにトライトーンから追い出される。

 仕事では辛酸をなめさせられたユウリに、今では自分が優位に立っている。

 その事がたまらなく嬉しくて、伊勢は言った。


「それと、あの根暗女の事も心配すんなよ。ガキは作れねえし、あんなどうしようもねえ根暗でも、体だけはそれなりだからな。その辺の奴らにあてがって――」


 瞬間、伊勢は言葉を続けることも出来ずに膝から崩れ落ちる。

 聞いたのは重い音。感じたのは鈍い痛み。眩む視界で見たそれは、床に転がる透明なビー玉。

 何が起きた。そんな事を考える事すら許さないように、髪の毛を掴まれて無理矢理上げさせられた伊勢の顔にスラックスの膝が突き刺さる。

 後頭部から成人男性の質量が叩きつけられる音を聞きながら、ユウリは両腕を踏みつけるようにして伊勢に馬乗りになる。筋の通っていた鼻は曲がり、鼻血で咳き込んだ口からは、唾液交じりの血と一緒に折れた歯が零れ落ちる。

 だがユウリは顔色1つ変えずに伊勢のスーツからフラッシュメモリと携帯電話を取り出し、お返しとばかりにポケットから取り出した複数のビー玉を、無理矢理開かせた伊勢の口に流し込んだ。


「飲むなよ、死んじゃうから」


 経験のない口内の感触に暴れ出す伊勢に、ユウリは顎を上げさせるように汗と血でぐしゃぐしゃの髪を顎を右手で掴み上げながら言う。

 鬱陶しいほどに荒く心臓は鼓動を刻み、焼けてしまうのではないかと思うほどに体が熱くなっていく。貼り付けたような無表情とは裏腹に荒れ狂う胸が苦しい。聞かなければならない事があるというのに、眩む意識が震える拳を握らせる。伊勢が詩織をどうにか出来るだなんて到底信じられないのに。

 ただただ、目の前の相手を壊したくてしょうがない。


「死にたいくらい、痛くしてあげるから」


 微かに開いた伊勢の目をまっすぐ見つめ、ユウリは血まみれの顎を左拳で殴りつける。

 悲鳴じみた呻き声が漏れる度に殴りつける。

 歯とビー玉がぶつかりあって砕ける音がする度に殴りつける。

 何度も、何度も、何度も。

 殴る度に飛び散る血が互いのシャツを染めていく。

 殴る度に原型が失くなって行く。

 殴る度に、苛立ちが増していく。

 レインメイカーでも、トライトーンでもなく、伊勢裕也を追い詰めた第3の要素。

 アルコールの臭いはせず、興奮と共に増加した多量の唾液と一緒に溢れ出す支離滅裂な言葉。

 その因果関係を理解しているだけに、ユウリは不愉快でしょうがない。


 あの時、詩織は誰かに助けを求める事も出来なかった。

 あの時、詩織は歌う事が、詩を書く事が好きだと笑っていた。

 あの時、詩織は代わりならいくらでも居るボディガードの為に怒っていた。

 そんな詩織を傷つけようとした伊勢が。

 そんな詩織を利用し、全てを奪おうとした伊勢が。

 そんな詩織が居る現実から目を逸らして、抗う事もせずに"ソレ"を受け入れた伊勢が。


 殺してやりたいほどに、憎くてしょうがない。


「ユウリ!」


 ヒステリックな声がスタジオ内に響き渡った瞬間、ユウリは信じられない力で伊勢から引きはがされる。ユウリはその力に抗い、再び伊勢に殴りかかろうとするも、声の主はそのままユウリを羽交い絞めにして離そうとはしない。それどころか、徐々に力が抜けつつあるユウリを力づくで振り回してすらしていた。


「いい加減に、しなさい!」


 耳元で叫ばれた声に体を強張らせたユウリは、膝裏に蹴りを入れられ、膝立ちの姿勢で抑え込まれてしまう。

 痛い。床に打ち付けられた膝の激痛にも何も言えないまま、ユウリは降参だとばかりに首を横に振る。その拘束は冷静さを失ったっていたユウリでも分かるほどに理想的で逃れられそうにない。

 背後に居るのは自分よりも優れたフィジカルとセンスを持った女。他の誰でもない、その女のがここに居る意味を理解させられてしまえば、ユウリにはもう抵抗などできなかった。


「ユウリ、さん?」


 ぽつりと呟かれた、自分の名前に応える事など、出来やしなかった。

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