身の程知らずのユーサープ 1
少しだけ薄暗い室内で空気の中でシンセサウンドは跳ねまわる。華奢な指がジャケットの袖を突いてリズムを刻む。
背中を預けるソファは固く、まとわりついて来る体は柔らかく暖かい。
いつもとは違う渋谷区のスタジオで、いつかとは印象の違うサウンドを聴きながら、ユウリはただ顔を顰めている。
難しい顔でボールペンを高速で回す綾香も、隣で腕を抱いて来る詩織も、フェーダーとディスプレイを視線を這わせる彩雅も。1人はともかくとして、真面目に仕事をしている2人に今更何も言う事はない。ユウリは日本の雇用システムをいまいち理解できていないが、会社の業績次第ではボーナスという賞与がもらえる事くらいは知っている。期待はしていないが、望みを捨てた訳でもない。財閥資本の企業の給料は低くなくとも、金というものはあればあるだけいいものだ。
だから、これもその業務の内なら受け入れざるを得ない。本当に業務の内だというのなら。
さらさらとスーツの生地を撫でる長髪。長めのスカートから覗くやや肉感的なふくらはぎ。押し付けられるあまり形が変わっている胸。
学校からそのままスタジオに向かったせいで、スーツを持ち歩くようにしていたユウリ以外は星霜学園の制服のまま。その挙句に詩織は伊勢がスタジオに居ない事を良い事に、ユウリの腕を抱いたまま動こうともしない。不安が詩織にそうさせているのは分かっているが、制服姿の女子高生がスーツ姿の男に抱きついているのは絵的に良くない。スタジオが貸切にされ、スタジオのスタッフがこの場に居ないとは言っても、完全な無人という訳ではないのだから。
「率直に言ってちょうだい。正直、ワタシ自身も分からなくなっているから」
スピーカーから流れていた曲が終わり、画面上のバーが止まる。時間をかけて作ったミックスはこれで5つめ。わざわざ環境を変えたというのに、劇的な成果は一切得られていない。出来ないという事を理解できたなどというつまらない言葉すら浮かばないほど、彩雅は煮詰まっていた。
「書き出してみるなら、こんな感じかな」
「……結構深刻ね」
彩雅はいくつもチェックのついた歌詞を綾香から受け取ってその内容に肩を落とす。
干渉し合っているレンジの数値やセクションごとの楽器の位置などの提案。簡単でいて具体的な問題を解決するには手間が掛かるが、対処しないのなら問題を洗い出してもらった意味がない。
「素材からいじりなおすべきかしら。シオちゃんはどう?」
「わ、私は、そ、その――」
「やっぱり、もうちょっとあれこれいじった方が良さそうね」
どもり出した詩織に彩雅は困ったように笑う。
綾香は彩雅なら出来ると信じて率直に意見しているが、詩織に同じことが言えたならそもそもどもりはしない。決してそれは詩織が彩雅を信用していないという訳ではなく、傷つけないように言葉を選んでいるから。そんな妹分の優しさを理解していればこそ、彩雅の口元が緩む。姉貴分に率直な意見を言えないのに、出会って間もない男の腕にしがみつく妹分は少しだけおかしくて、とても可愛らしい。
しかしその一方で、スーツの袖に皺をつけられているユウリは、渋い顔をして口を開いた。
「一応聞くけどさ、この作業って艸楽がやらなきゃいけない事なの?」
「いいえ。やりたいからやってるだけよ」
「それならはっきり言わせてもらうけど、俺が聴いて分かるくらいに素人仕事だよ。ファーストシングルの時のスタッフに任せりゃいいのに」
「それが出来たら良かったのだけど……」
「エンジニアと意志の疎通が上手くできなくなっちゃったのよ。流行りのサウンドだからって、何でもかんでもジョーカー風にしちゃったりとかして」
「よ、良かれと思って、なんでしょうが」
困ったように頬に手を添える彩雅に、苛立たしげに鼻を鳴らす綾香と、さりげなくユウリの胸元に顔を寄せようと画策する詩織が続ける。
つまりはこうだ。レインメイカーのミックスを担当していたエンジニアが、大人気のジョーカーにかぶれて要求に応えられなくなった。そこで理想のサウンドが共作できないと考えたトライトーンはエンジニアを解雇。環境を変えて彩雅がミックスを始めた。
それすらも誰かの横槍なのではないか。どうにも行き過ぎる自分の考えをユウリは切り捨てようとする。3人が別の人間を選ばなかっただけで、代わりならいくらでも居る。
だが、スタジオに顔も出さない伊勢の存在がユウリを悩ませていた。
明神はユウリをボディガードとして雇うためだけに、陳という信頼を置いているエージェントをわざわざ南アフリカまで行かせた。優秀な人材を財力という塀で囲い、真実という餌で釣るために。
それでも、伊勢は明神の包囲網を潜り抜けて3人の近くに居る。ユウリに対して切り札をちらつかせ、綾香を怒らせてもトライトーンに居座れる後ろ盾を立てて。




