多事多難のストラグル 3
「あら、シオちゃんに不知火さん」
立場を踏まえた自分の名前に、ユウリは小さくため息をついて振り返る。
トライトーンの社屋で、呼びかけて来たのは聞き慣れた声。ユウリが利き間違えるはずもなく、そこに居たのは綾香と彩雅、そしてもう1人。険しい視線でユウリを睨みつける伊勢裕也が居た。
「おはようございます。今日は打ち合わせで?」
「それとスケジュールの再確認。どっかのバカが、スケジュールを漏らしたらしいのよ」
呆れ果てたような綾香の言葉に、伊勢は血の気が引いていた表情を強張らせていく。伊勢が2人につけられていたのはあくまで試用を目的として。
おそらく綾香の言う漏らしたスケジュールとは、平日の午前中に組まれていた彩雅の撮影の事。ミスを犯し、あげく対処もしてないと知れれば、2人の心証は著しく損なわれるだろう。
伊勢が知らないだけで、彩雅はレインメイカーの全てを把握しているのだから。
「でも、シオちゃんが居るなら都合がいいわ。先にちょっと3人で打ち合わせしたい事があるのだけど」
「私は、構いませんが」
どうでしょう、と視線を向けて来る詩織にユウリはうなずく。派手に立ち回る事は出来ないが、いつも使っている応接室はすぐ近く。きちんと警戒をしてさえいれば問題はない。
それよりも、ユウリには詩織の態度が気になってしょうがなかった。
いつものように背中に隠れるでもなく、伊勢の存在に怯えるでもない。
ただ、伊勢裕也の存在が眼中にもないような態度が。
「あの、詩織ちゃ――」
「誰に対して、そのような口を利いているのですか」
状況が悪くなった自分に虚勢を張れるようになっただけ。自分が男である事を意識させれば、そんな態度は取れないはず。少なくとも、伊勢はそう考えていた。意識すらされていない事にも堪えたが、そう確信していたからこそ、伊勢は詩織へと向き合っていた。
だというのに、詩織は恐れる事なく、伊勢をまっすぐ見つめている。
肩に置かれた手すら、振り払おうともせずに。
「答えてください。誰に対して、その馴れ馴れしい口を利いているのですか」
「……お言葉ですが、僕とあなたは同じトライトーンの社員です。馴れ馴れしいと仰られるのは心外ですね」
理解はしたが、納得はできない。伊勢は引き攣った笑みを浮かべる。
数日前までは、会話どころか目を合わせる事すら恐れていた詩織。家柄は良く、スタイルこそ男の好みに合うものだが、ステージ以外では地味で根暗でつまらない女。
いらつくほどにか弱かった少女が、恐怖心を捨てて歯向かって来ているのだ。
「同じ会社の人間であれば、礼儀を欠いても良いと仰られるのならここを去って下さい。あなたがどうかは存知ませんが、私達は本気で音楽をやっています。足を引っ張るだけなら、あなたはいりません」
糾弾する言葉は淀みなく、制服のスカートを握る手は力むあまりに震え、前髪越しの瞳は鋭いほどにまっすぐ見据えている。
関わる事すら拒否をしていた伊勢に、詩織は心から怒っているのだ。
「お忘れになりませんよう――私は、あなたを絶対に許しません」
伊勢の手を軽く払い、詩織はまっすぐ応接室へ向かって行く。続く綾香の顔はどこか満足げな笑みが浮かんでおり、彩雅はわざとらしく困ったように頬に手を添えていた。
間違いなく、詩織はユウリのために怒っていた。普段からボディガードとして気を張っていたのに、倒れるまでマネージャーとしての職務も全うしようとしたユウリのために。
過ぎた引っ込み思案の妹分の成長も、2人が喜ぶところではあるだろう。
しかしユウリはそれを理解しているからこそ、詩織の行動に小さくため息をついた。
逆らう事すら許してくれない2人。言い負かして来た詩織。3人と違い、後ろ盾も何もないユウリ。
八つ当たりの矛先が誰に向くかなど、考えるまでもない。
そして応接室の扉が閉まったその瞬間、ユウリは背中から壁に強く叩きつけられた。
「……痛い、ですよ」
「うるせえ! てめえ、何しやがった。あの女に何を吹き込みやがった!」
胸倉を掴んで壁に押し付けてくる伊勢に、ユウリはどう言ったものかと思案する。
自分が寝込んでいた間も問題なく機能していたマネージメント。
それ以来、一切鳴らなくなった携帯電話。
ユウリと伊勢だけが知らない"カズ"という敏腕マネージャー。
2人のマネージメントの破綻はレインメイカーの3人だけでなく、トライトーンに知れてしまった。
ユウリの疲労具合。鳴りやまない携帯電話。清算も出来ないほどに貯まった領収書。あげくの果てに綾香と彩雅のスケジュールまで出てくれば、詩織が全てを理解するのは当然だった。
「自分は、自分の仕事をしただけです」
「そうだ。だから仕事をしたくてたまらないお前に、俺の仕事をくれたやったんだろうが。それなのに、お前のせいで俺は明神と艸楽に無能扱いされちまった」
「それが、事実なのでは?」
顔に飛んだ伊勢の唾を手袋で拭い、ユウリは胸倉を掴んでくる手を掛ける。
身長でも体重でも勝っているはずなのに、スーツのジャケットを掴んでいた手はいとも簡単に引きはがされてしまう。
目の前の事実にき、慌てて距離を取った伊勢を無視して、ユウリはとどめを刺すように続ける。
「所詮、我々の器なんてこんなもんだったんです。失望されたのはあなただけではなく、自分もなんですから」
自嘲するような笑みを浮かべて、ユウリは乱れたスーツを直す。
知ろうともしないで、気付きもしなかった。レインメイカーの事も、彼女達がどれだけ本気なのかも。
それでも、伊勢裕也は認められるために彩雅の撮影を請けたのだろう。いつもと同じような仕事内容で、いつもと同じようだから周りが成功に導いてくれると信じて。
だが、仕事を請けた後で、伊勢はレインメイカーは平日の午前中に仕事をしない事を知った。
仕事は誰の許可も取らずに請けたもので、既にそのつもりで動き始めている先方にキャンセルなどできない。明神と艸楽に試されている最中に取り返しのつかないミスをしてしまった。
だから、伊勢裕也は仕事ごとミスを自分に押し付けた、とユウリは考えたのだ。
3家の社長令嬢に失望された事に焦り、何も言い返せない事がその証拠だ、と。
しかし、ユウリは失敗した。
伊勢に対して後手に回っただけではなく、拙いその場しのぎを繰り返しただけ。あげくの果てに倒れ、護衛任務と"カズ"の存在を伊勢に知られてしまうところだった。
こうなってしまえば、ここまでユウリをかばい続けて来た彩雅と陳も考え直さなければならないだろう。
少なくとも、詩織の過保護は信頼とは別のものなのだから。
理解していていても、納得はできないのだろう。
回りまわって自分のミスのツケが返ってきた伊勢は悔しそうに歯噛みし、怒りのあまり震える手で拳を握る。その顔に人の良さそうな笑みはなく、ユウリを睨む目はどこか血走っていた。
とどのつまり、自分のミスが回り回ってツケとして返って来ただけの話。
情状酌量の余地もなく、2人に出来る事はただ悔やむ事程度だろう。
「伊勢さん」
熱くなった場の空気とは裏腹に、冷え切ったような声の方へと2人は振り向く。そこに居たのは灰色のスーツを着たトライトーンの社員らしい女が1人。
暗いブリュネットのショートカット、地味な印象を裏切るような赤いウェリントンフレームのメガネ。顔は比較的に整っているのに、度の過ぎた三白眼が全てを台無しにしている。
キャラが濃いようで印象が薄い。ユウリにそんな印象を与えた女は、険悪な空気すら無視して言った。
「藤原社長がお呼びです。今すぐに、社長室に行って下さい」
「……分かりました」
苛立ちを隠そうともせず、伊勢はユウリを突き飛ばして女の方へと歩いて行く。頭の中は保身でいっぱいになっているのか、伊勢は女のあきれたような視線に気付きもしない。
その背中を見送ったユウリは壁にぶつけられた後頭部を擦る。本物マネージャー気取りで詩織に方針を解いた馬鹿馬鹿しさを呪いながら、廊下にそのまま座り込んだ。




