多事多難のストラグル 1
眩しいくらいの日差しに、嫌味なくらいに青い空。スモークガラス越しのさわやかな朝の光景にユウリは顔を顰める。
梅雨とは思えないほどに空は晴れ渡っているが、おそらく台風の影響は庭に散乱した落ち葉やゴミとして残っているだろう。後で掃除を手伝わされる事を考えたユウリは朝から気を重くしていた。
人の目や騒音など外界を出来るだけ遠ざけ、機材搬入路や駐車場を考慮した結果、レインメイカーのシェアハウスの庭はとにかく広くなってしまったのだ。
それこそ、綾香がスポンサーから提供されたランニングシューズを試すためにシャトルランを出来る程度には。
手伝わない訳にはいかないが、ボディガードの仕事とは程遠い。
アメリカなら訴えられかねない雇用形態を愚痴りたくなるも、ユウリはいい加減に現実と対面する事にした。
左腕に感じるやわらかい温もり。漂ってくる石鹸の香り。本人の慌てぶりを表すように揺れる黒髪。
綾香と彩雅と一緒に登校したはずの護衛対象が、自分から腕を組んできたくせにおろおろしている詩織が、ユウリと一緒に登校しているのだ。
本当に、どういうつもりなのか。
ボディガードとしても、マネージャーとしても真意を測りかねる態度にユウリは困り果てたように自由な右手で顔を覆い、そんなユウリの態度に詩織は更に動揺していく。
シェアハウスの正門で待ち伏せしてタクシーに連れ込むまでは堂々と出来ていた。いつもより少し早起きをしてタクシーの手配もスムーズに行え、プロ意識が高く、口の堅い運転手も用意してもらえた。
しかしそのプロ意識の高さから、運転手は無駄口を一切きかず、詩織はユウリと密室にいるような錯覚に陥ってしまったのだ。自分で手配したくせに。真面目に職務を全うしている運転手としては甚だ遺憾である。
同じく、ボディガードとしての職務を全うしているユウリも、意外に解けない詩織のホールドに手を焼いていた。
無意識、というよりは意識できないほどに詩織は混乱しているのだろう。
制服のブレザーは皺が着くほどに、青のリボンタイを飾る胸は形が変わるほどに。詩織はどもる度にユウリの左腕を強く抱きしめているのだ。
まるで、素人が考えた出来の悪いハニートラップ。数々のハニートラップを回避し、逆に仕掛けてきたユウリもこれには思わず苦笑い。護衛対象がボディガードの立場を危うくするなど、冗談にしても笑えない。
だからこそ、詩織がどういうつもりなのか、ユウリには分からなかった。
顔色を窺ってくることはあっても、ユウリをタクシーに連れ込める程度には強情な詩織でも、ここまで過保護ではなかったはず。
そんな事を考えたせいで気が気でないユウリと勝手に気まずくなっている詩織。
意外にも、先に動いたのは詩織だった。
「あ、あの、朝ごはん、何か召し上がられましたか?」
「いいや。でもそんな事はどうでも良くてさ」
分かるよね、とユウリは言わんばかりの視線を詩織に向ける。朝食は綾香に付き合わされているだけで、元々朝食は摂らない主義。少なくともユウリから朝食を催促したことはない。
だというのに、俯いたままの詩織の視線は自分のカバンに向けられており、ユウリのきつい視線に気づきもしない。
「お、お弁当を作るついでに、サンドイッチを作って来たんですが」
「ありがとう。でもそうじゃなくて」
「お弁当は、その、毎日作っているので、美味しくないという事は、多分」
「……分かったよ、いただくよ」
このままでは話が進まない事を理解したユウリは、ようやく解放された左手の手袋を直す。ブレザーの左袖に関してはもう気にしない事にした。スーツの方なら気にしない訳にはいかないが、腫物扱いされている星霜学園では誰も気にはしないだろう。
その上で皺がつかなくなる何らかの方法を思案しながら、ユウリは詩織が手渡してくるサンドイッチを受け取って噛り付く。他に入れ物がなかったのか、小さな重箱に詰められていたサンドイッチはハムサンドとベジタブルサンド。ユウリが朝食を食べないのを知っているのか、比較的軽い物だけ。ハム自体の質が良いのか、口当たりもどこか優しい。
ここまでされてしまえば、もう理解は避けられない。
違和感の正体にも、詩織の過保護の理由にも。
「……迷惑、掛けたよね」
「心配を、掛けさせられました。疲れてらしたのなら、無理はされないでください」
「そうだね、悪かったよ」
どこかバツが悪そうにユウリは指先でピアスをつつく。始業時間の9時から就業時間の19時までは電話の対応に追われながら、作業を行い、就業時間後は自室で仕事の選別、それぞれの予定とルートの候補などを白井や関係者に送る。"カズ"が選り分けていた仕事の前例と、打ち合わせは自分達で行うという綾香と彩雅のスタンス。そのどちらかが欠けていれば、もっと早くレインメイカーのマネージメントは破綻していただろう。
そんな事を気にして、いつかとは真逆な問いかけに、詩織はくすりと笑みをこぼす。ユウリが風邪を引いたのは元々調子が良くなかったのに、詩織を濡らさないようにしたから。きっと聞き入れてくれないから詩織は謝らないが、申し訳ないと思っているし、感謝もしている。迷惑などと思えるはずがない。
ただ、ユウリには気にするだけの理由があった。
「氏家のおかげで調子はまあまあ良くなったんだけどさ、昨日の記憶がまったくないんだよね」
昨日の記憶。何でもないはずの言葉に、アイスティーの入ったタンブラーへ伸ばした詩織の手が止まる。真っ白な頬は一気に紅潮し、穏やかな笑みを浮かべていた口元は動揺から歪な歪み方をしていた。
たとえ詩織ほどに顔が整っていても、それとも、顔が整っているからこそなのか。
アルカイックスマイルに似て非なる歪な笑みに、ユウリは表情を強張らせてしまう。
「え、なんなのその態度。俺が何かしちゃった?」
「あの、その……ありがとう、ございました」
「アンタか!? アンタが俺に何かしたのか!?」
「い、いえ、そ、えっと――そんな事より、りょ、領収書貯め過ぎですよ!」
「領収書って、財布まで見たの!?」
「ほ、保険証を探さなきゃと思って……それと、他の女の痕跡も」
「ちょっと待って、怖い怖い怖い!?」
あまりの恐怖にユウリは背中を扉に叩きつける勢いで後ずさる。最後の言葉の後半を聞き取る事は出来なかったが、ろくでもない事を言っているのは間違いない。その確信は正しく真実であり、詩織は看病の合間に領収書を日付ごとに分けてまとめていた。
女の痕跡のなさに安心すべきか、それとも巧妙な隠ぺい工作を疑うべきか。
そんな詩織の思いはどうであれ、最後には善意の行動になっている。朝食とタクシーを用意したのも、病み上がりのユウリを心配しての事なのだから。
だが、ユウリはそんな事を知らない。自分の記憶がない間に詩織が自分の荷物をあさっていた事がユウリにとっての真実なのだ。
肩を抱いて必死に距離を取ろうとする男子高生。長髪を振り乱しながら必死に弁解する女子高生。
タクシーの車内は紛れもなく、地獄絵図だった。
「と、とにかく! 放課後は一緒にトライトーンに行きますから! スプレーとスーツも持って来ましたから! お昼も作って来たのでお昼はサロンですよ! 授業も絶対出てくださいね!」
「……もう好きにしてよ」
女の感情論には敵わない、とユウリは肩を落とす。20年に満たない人生でも、それくらいは分かっていた。
どうして昨日のマネージメント業務が正常に行われたのかも、自分が誰の期待を裏切ってしまったのかも。




