役者不足のアンブレラ 3
6月とは思えないほどに冷え切った空気。絶え間なく庭園の石畳を打つ雨。イヤホン越しでもうるさいくらいにガラスを揺らす風。
人影もない星霜学園高等部の玄関口で、ユウリは数年ぶりに目の当たりにした日本の豪雨に嘆息する。低気圧のせいか、無事に今日の仕事の裏を取れた安心感のせいか、少しだけ頭が重い。
だけど、今日の所はあと少しの辛抱。ユウリは制服のネクタイを緩める。仕事が入っていた綾香と彩雅は星霜学園を後にしており、詩織を帰らせればユウリも帰れるのだ。見送りの際に、2人から咎めるような視線を向けられた事もこの際だとユウリは忘れる事にしていた。
授業に出ようにも、レインメイカーへのオファーが引っ切り無しに来るようになってしまったのだ。
連日朝の9時から震え続ける携帯電話に、藤原宗吾がマネージャーを増やしたくなった理由がユウリにもようやく理解出来た。どうしてユウリと伊勢の2人で対処できると思ったかは理解できないが。
しかしマネージャーの仕事に忙殺されて、ボディガードの仕事を放棄する訳にはいかない。そこでユウリは3人が無事登校したのを確認してから、庭園のサロンにこもるようになった。詩織が訪れる昼休みを避ければ、サロンに訪れる人間は誰も居ない。仕事をするには皮肉にも最高の環境だった。
ただ、いつまでこの形を続けられるか。それだけがユウリの頭を悩ませている。
今のところ担任の蘭に見つかってはいないが、見つかってしまえば生徒指導室への連行は免れない。
なら、生徒としての立場を捨ててしまうか。ユウリはそんな風に考えるも、他に星霜学園に居続ける方法が思いつかずに小さく舌打ちをする。そもそも、大人のボディガードが不適任だからこそ、子供のユウリが選ばれたのだから。
マネージメントの仕事はやめられない。ボディガードとして学生で居続けなければならない。
状況は、とにかくままならない。
「ユウリ、さん?」
控えめに掛けられた声に、ユウリはいつのまにか下を向いていた視線を上げ、思わず顔をこわばらせてしまう。
ふわりと漂う石鹸の香り。白い肌と対比するような真っ黒な髪。長い前髪から覗く青みがかった黒い瞳。
待っていた護衛対象が、文字通り眼前に居たのだ。
「あの、顔色が優れないようですが」
「別に、化粧ノリが悪かっただけだよ」
「え、お化粧されてるんですか?」
「氏家の素直さは美しいけど、冗談くらいは分かるようになろうね」
イヤホンをポケットに突っ込んだユウリは、間近に迫った詩織の額を軽く突いて距離を空ける。伊勢に詩織が不利になる画像や映像を所有されている可能性があるというのに、学園の生徒に撮られるようなリスクは避けたい。インターネットに流出でもされたら抑えるのは難しく、出来たとしても、ある程度の拡散は免れない。詩織が週刊誌にマークされているのは事実で、気に入らないが、伊勢の言葉ももっともなのだから。
だというのに、ほんのりと頬を赤くした詩織は額を押さえてどこか楽しげに微笑んでいる。
男に慣れたのか、それともユウリに慣れたのか。
男に見られていないという可能性を無視して、ユウリはブレザーのポケットから携帯電話を取り出した。
「臼井はもう戻って来てるみたいだし、酷くなる前に行こうか」
「はい。でも、臼井さんじゃなくて白井さんですよ」
そうかい、と肩を竦めてユウリは携帯電話をポケットにしまう。画面には白井からの到着を知らせるメッセージが表示されており、もう玄関で時間をつぶす必要はない。
雨さえ、弱まっていれば。
「それにしても、本当に酷い雨ですね」
ユウリの恨みがましい視線を追った詩織は、ガラスの向こうの光景にぽつりとつぶやく。降水確率は40パーセントだったはずなのに、雨風は弱まる様子がなく、見慣れているはずの校門までの道がぼんやりとしていた。
「雨乞いの祈祷師なら雨をやましてよ」
「あ、あの、それは、その……」
「だからさ、冗談くらいは分かるようになろうね」
特に、この手の冗談は多く言われる事になるだろうから。
そう言ってユウリは壁に立てかけていた傘を手に取る。雨が弱まりそうにない以上、ユウリは無理をしてでも詩織を帰らせなければならない。
意を決して扉を開けたユウリは突き出した傘のボタンを押す。状況を選ばない真っ黒なデザインの傘は雨を弾きながら開くも、風邪に煽られて左右に揺らされる。
そう、日本を離れて数年が経っていたユウリは忘れていたのだ。
日本にハリケーンやスコールは滅多にないが、台風という時期を選ばない異常気象がある事を。
台風の前に、市販の傘など何の役にも立たないという事を。
そして、黒い布が音を立てて骨組みから剥離した。
「一応聞いておくけど、傘は?」
「風が強かったので、行きは綾香さんに……」
「マジですごいね、アイツ」
見るも無残な傘を玄関の床に投げ捨てて、目に浮かぶような光景にユウリは深いため息をつく。
強靭かつしなやかな肉体。強固過ぎる意思。普段使い出来ないほどの重さと引き換えに頑丈さと大きさを実現した傘。
それらを兼ね揃えた綾香なら、詩織を守りながら車から校舎まで連れて来るのは容易いだろう。豪雨と暴風に正面から立ち向かう勇敢な姿すら、目に浮かぶようだ。
しかし、ユウリの傘はデザイン性を重視した税抜き4600円の代物。護衛対象が社長令嬢である以上、中途半端な物は持てないと個人的に奮発した相棒。マネージャーとして得た初めての給料で買った傘であっても勝ち目などない。
付け加えれば、星霜学園は原則的に関係者以外立ち入り禁止であり、白井に傘を持って来させることも出来ない。
仕方ない、とユウリはブレザーを脱いで詩織の頭にかぶせた。
「あ、ああああ、あの」
「気を付けてはいるから臭くはないはずだよ」
「匂いはいいですけど、その――」
「こんな風じゃ傘は役に立たないからさ。ニュースで見るアレみたいだけど、少しだけ我慢してよ」
「にゅ、ニュースは観るのに天気予報は――」
ことごとく詩織の発言を封じたユウリは、詩織を抱きかかえるようにして雨の中へと飛び出す。その姿は言葉通り、マスコミを避ける警察官と容疑者のようにも見えるが、少なくともユウリはスコールをこうやってしのいでいた。市街地ならともかく、紛争地帯での雨対策など逃げるかあきらめるしかなかったのだ。
あっという間に濡れた髪とワイシャツは肌に張り付き、雫が顔を流れる不快感にユウリの表情が歪む。
泳げない訳ではないが、顔が濡れて平気なほど水が得意な訳でもない。飢えて死にかけた際に思わず啜った泥水よりは上等だが、清潔だからと言って不快感が消える訳でもない。今日はトライトーンに顔を出していないため、髪をスプレーで黒く染めていない事だけが不幸中の幸いだった。
ようやく辿り着いた校門の前には見覚えのあるリムジン。ユウリはガチャリと音を立てて開錠された扉を開けて、運転席の方へを視線を向ける。
ルームミラーにはエンブレムが入った官帽と、いぶかしげに顔を顰める白井の姿があり、安全を確認したユウリは鞄を抱きかかえるような姿勢の詩織を押し込んだ。
やり過ぎな雨対策ついてに言い訳しようもないが、言い訳をしてもしょうがない。言葉を交わして信用を回復できるほど、ユウリと白井の関係は深くない。
「悪いけど、後は任すよ」
「え、ユウリさんは?」
「ちょっと用事があってさ、すぐに戻るから家で待ってて」
ブレザーに感じた他人の体温と乱暴な護送に顔を赤くしていた詩織に落ち着く間も与えず、白井はリムジンの扉を閉めて出発する。
もし白井が伊勢の側についていて、詩織に何か危害を加えようとしてもGPSでの監視は出来る。今のユウリにできる事は白井を疑いながら、一刻も早く家に帰る事だけ。
「……次の給料が出たら自転車でも買うか」
これからもかさみ続けるタクシー代でお金が無くならなければ。
自嘲するように口元を歪めたユウリは、水を吸って重くなったブレザーを頭に被り、風ですっかり冷え切った体を抱いて歩き出した。




