役者不足のアンブレラ 1
メロディを遠くに聴き、画面にいくつも表示された波形を眺めながら、ユウリは誰にも気づかれないように小さくため息をつく。
伊勢がレインメイカーのマネージャーになって1週間。今のところ、身の回りに不審な出来事は起きていない。
伊勢にとっては威嚇するほどに気になってしょうがない、不知火ユウリという存在が居るはずなのに。自分の存在の曖昧さを分かっているからこそ、ユウリはこの状況が気持ち悪くてしょうがなかった。
どうして、伊勢博也がレインメイカーの事案に介入する事が出来たのか、未だに分からない。
斉藤泉の時のように多すぎる敵に対応が遅れる事があっても、陳は対応を放棄したことはない。いざという時の対応はユウリに一任されているものの、社会人経験のない元テロリストが判断を下すにはあまりにも早急過ぎる。得体が知れないという点で2人は同じなのだから。
ギュッと締め付けられる右腕と部屋の隅からぶつけられる厳しい視線に、ユウリは居づらさを誤魔化すように伊達メガネのフレームを指で押し上げる。
隣にはソファに座るユウリの右腕をしっかりと掴んだ詩織。
部屋の隅からは値踏みするような視線をぶつけてくる伊勢。
トライトーン所有のレコーディングスタジオで、ユウリはしがみついて来る護衛対象に手を焼いていた。
『彩雅姉、今の感じでどう?』
「いい感じだったわ。今のをもらってアヤちゃんのソロは終わりよ。お疲れ様、今から皆で特効の声を録るからそのまま待ってて」
『うん、時間掛かっちゃってごめんね』
「いいのよ。シオちゃんのおかげで極端な遅れとかはないんだから」
波形を描くバーと曲が止まり、彩雅はブースに居る綾香に言う。
フルコーラス、各セクションにコーラス。
レコーディングに未だ慣れていないのか、2時間以上は歌い通していたというのに、綾香は疲れた様子も見せない。
「シオちゃん、準備は出来てる?」
「……はい」
何か含みを持たせた返事をして、詩織は彩雅と一緒にブースへと入って行く。
セカンドシングルのレコーディングが始まっておよそ4時間半。
いつかの特典用のソロバージョンのために全員がそれぞれのパートを3つずつ歌うという事を考えれば、と考えた所でユウリは首を小さく横に振る。どれだけ考えたところで、素人のユウリがレコーディングの進行が速いか遅いかなど分かる訳がなかった。
しかし、そんなユウリでもこのレコーディングで2人からの詩織への信頼の厚さを感じさせられていた。
綾香は2時間と少し、曲を1番知っている彩雅でさえ1時間半ほど掛かったというのに、詩織は1時間も掛けずにレコーディングを終わらせたのだ。
それも、彩雅が新しく導入したマイクがトラブルを起こし、すぐにはレコーディングが始められなかったというのに。
そして、ガチャリというブースの扉が閉められる重い音と共にスタジオ内の空気が一気に重くなる。
護衛という任務上、ユウリは週末に休暇など期待はしていなかった。もちろん、得体のしれない男と密室で2人きりで過ごす事になるとも思っても居なかった。
「不知火、だったよな?」
気まずさに耐えかねたのか、それともようやく動き出す気になったのか。
ユウリはソファに座ったまま、話しかけて来た伊勢へと視線を向ける。
壁に寄りかかる伊勢の顔には初対面で見せた人の良さそうな笑みはなかった。
「お前さ、どうやってあの根暗女を落としたんだよ」
「どなたの事でしょうか」
「詩織だよ。あんなんでも女なんだな。面が良ければ男にベタベタくっついてられるんだから」
今更態度を取り繕う気もないのか、伊勢はブースで歌い始める詩織を無遠慮に指差す。
音こそ聞こえないものの、レコーディングは始まっているらしく、ミキサー卓に並べられたモニターは新しい波形を描いており、幸いにも3人はユウリ達の様子に気づく様子はなかった。
「だんまりでもいいけど、余計な事だけはすんなよ」
「……自分は、自分の仕事をするだけです」
「真面目だな。分かってるだろうけど、お前みたいな奴とは家柄も生きる世界も違うんだ。どれだけ面が良くて仕事が出来ても、家柄と血だけはどうにもなんねえ――それに考えてみろよ、どこかの誰かがさっきの光景をネットにでも流してみろ。困るだろ、お前もあの女も」
付け足された脅迫に表情をこわばらせそうになったユウリは、俯いて顔を隠し、なされるがまま伊勢がポケットから出した煙草の箱で頭を軽く叩かれる。
事実、氏家の歴史は明神ほどではないが長く、事業では凋落を続ける出版業界の中では業績を上げ続けている稀有な存在だ。
それこそ、ただのマネージャーごときが傍らに1人娘を侍らすなどありえないくらいに。
だからこそ、状況は変わらない。ユウリは静観に徹する事しか出来ない。
「そういう訳で、俺は煙草吸ってくるからよく考えておけよ。煙草も好きに吸わせねえような女に興味はねえし、仕事が欲しけりゃ好きなだけさせてやるからよ」
そう言ってスタジオから出て行く伊勢を睨みつけないように、ユウリはただ俯いたまま、手袋に包まれた左手で拳を握る。
アイドルなんて興味ない。やめてもらえるなら都合がいい。
そう思っていたはずなのに。
なぜだか、とても、気分が悪かった。




