見境なしのイングレーション 1
「鬱陶しいんだけど」
夕日が差し込む会議室。繰り返される神経を逆撫でするようなため息に、スーツ姿の男、少年にも見える男がシャーペンをテーブルに投げ出す。身長が高いとはいえないものの、すらりとした体には上等なブラックスーツ。塗りつぶされたような髪からはシルバーのピアスがのぞいている。
整った顔には隠す気もない不機嫌さが浮かび、切れ長の目は厳しい視線をまっすぐ向けていた。
その先に居るのは、1人の少女。髪は赤みがかったブリュネットのショートカットで、スレンダーな身に纏うのは黒いブレザーと短めのスカートの学生服。
男と女。大人と子供。社会人と学生。服装だけを見れば、両者にはあらゆる差があるはず。
だというのに、赤毛の少女は遠慮どころか、心底あきれはてたように肩を竦めた。
「何のことか分からないけれど、アンタが集中してない証拠なんじゃないかしら。まだまだ残ってるんだから、ちゃんとやりなさい」
「……おかしいな。まるで俺が悪いみたいな言い方をされた気がするんだけど」
「気がするも何もそのままじゃない。そもそも、アンタがもらってきた課題なんだから」
少女の言い分に男は塗りつぶしたような黒髪に指をかき入れる。
黙っていてもうるさい性質とは裏腹に、少女は基本的に正しい。それこそ、テーブルに広げられた他人のテキストを教えてでも、終わらせようとするほどに。
「ほら、グダグダしないでさっさと終わらせなさいよ。いつでも見てあげられる訳じゃないんだから」
「だったら教えてよ。どうすれば自分の事も省みれない動物に身の程を教えてやれるかさ」
「……おかしいわね。自分じゃできないからって人に課題をやらせようとしていた負け犬が、偉そうなことを言ってるように聞こえたけど」
哺乳類ヒト科ヒト目。紛れもなく人である少女は、頬をひくひくと痙攣させながら問い返す。黙っていてもうるさいというのは男の主観であり、監視が行われるという事に関しては両者は同意していた。
だから、少女は男が課題に真面目に取り組むように見張っていた。問題の取り組み方に間違える度に少女の口から何が漏れていたかは、本人の知るところではないが。男の口の悪さも罪ではあるが、少女の自覚がない事も罪なのかもしれない。
しかし男は意趣返しのように、黒革の手袋をはめた左手を困ったように頬に添えた。
「やっぱり、耳の位置が違うと聞こえ方が違うのかな。ごめんね、俺は人間様だからさ」
「誰が猪よ!? このがっかりチビ! 負けわんこ!」
「誰が微妙なチビで負け犬だ! この猪女、知性と品性と人間性を得られるまで進化でも繰り返してな!」
ついに耐え切れなくなったのか、両者は勢い良く立ち上がり、額をぶつけんばかりの近さで睨み合う。見つめ合う2人の容姿は整っているというのに、そこに色気のようなものはない。
あるものといえば剣呑な雰囲気と隣でどうしていいか分からず、右往左往している黒髪の少女くらいだ。
もっとも、その少女も"猪はどれだけ進化しても人間には"と口走っている辺り、見た目以上には余裕があるのかもしれない。
「いいわ、この機会にしっかりしつけてあげる。このアタシに掛かれば、飼い犬のしつけくらい朝飯前よ」
「はぁ? 水道もしめられない奴が何言ってんのさ?」
「そんな事ある訳ないじゃない!」
「あるんだよ。誰が毎朝戸締りと水周りと火の元の確認をしてると思ってんだ」
「う、うっさいわね! アンタだって1人で起きられないくせに!」
突然逆転した立場に少女は声を張り上げてしまう。ここ最近になってそういったミスを姉貴分に叱られる事はなくなったが、それが男の気配りによっての物だったとは気づきもしなかったのだ。
感謝はしよう。明日からは気を付けもしよう。
それでも、と少女は場違いなほどに固く拳を握りしめる。
退く事はもう出来ないのだ。姉貴分と妹分の前で恥を書かされ、意地にもなっているし、自棄にもなっている。棚に上げたものを数えればキリがない。
だからこそ、少女はむきになるほどに間違ったことはしていない。
しかし男はそんな少女を鼻で笑う。
「俺みたいな美少年は隙が多い方が受けるんだよ。現に俺の寝顔は綺麗だって、出来れば毎日見ていたいって皆も――」
瞬間、形容しがたい音が会議室に響き渡り、男は側頭部を手で押さえながら椅子に座り込む。
プロとして、警戒をしていなかった訳じゃない。
だが振り抜かれたそれは早く、衝撃は頭がくらくらするほどに重い。
男がゆっくりと視線を上げれば、そこには無表情で手を振り抜いていた少女の姿があった。
「ゴメン、無意識」
「……絶対嘘だし、嘘じゃなきゃムチャクチャ怖いし、すっごい痛ぇし……なんか痒くなってきたし!」
耐えがたい痒みに変わりつつある熱い痛みに男は頭を抱えたまま、口先だけの謝罪をしてくる少女を見上げる。男の切れ長の目には薄く涙が浮かび、黒髪の少女はどうしていいか分からず、塗りつぶしたような黒髪の頭をなでてやる。まるでその姿は、ケンカに負けた犬と優しい飼い主だった。




