勉強不足のペナルティ 2
「日本の中世、及び近世における征夷大将軍を首長とする武家政権の事をなんと言う?」
「分からない」
天窓から夕陽が差し込むレインメイカー専用サロン。
綾香は気持ちを落ち着かせようと、鉛筆の頭で机を叩きながら深呼吸をする。
会社のスタジオは大規模清掃の日で、放課後は完全なオフ。空いた時間を利用してユウリの課題を見るというのを提案したのは綾香自身。
物事が分からない事に罪はない。勉強が出来ない事にも罪はない。数学の授業のペナルティで合計5教科の課題が出たのは想定外だったが、1番大事なのは最終的に理解するという事。あきれる事にも、いらだつ事にも意味はない。
「その武家政権の事を幕府と言いますが、江戸幕府を仕切っていたのは何家でしょう?」
「知らない」
思い出す素振りすらない態度に、綾香は歪みそうになる顔を無理矢理笑みの形にする。
難しい事を聞いたつもりはない。なんなら時代劇を見ていれば知れるような小学生レベルの知識だ。
しかし主席をキープしている綾香でさえ、外国の歴史を熟知している訳ではない。その点ではイーヴンだ。たとえ綾香がれっきしとした日本人で、相手が日本国籍を言い張る白人であっても。
「……レソトの首都と公用語は?」
「首都はマセルで公用語はソト語と英語。レソトはソト語を話す人々って意味だから、なんか変な感じがするよね」
「アンタ、バカにしてんでしょ!?」
ついに勘弁ならなくなった綾香は大声を張り上げて、手に持っていた鉛筆を真っ二つにへし折る。
確かに、意地が悪い質問をした。その自覚がある綾香でも、ユウリの態度は回りくどい悪ふざけのように感じられたのだ。
「ま、待ってよ暴力反対! 別に誰かが死んだわけでもないんだから!」
「アタシがアンタを殺さないために真面目にやりなさいよ! レソトの事を知ってて日本の事を知らない日本人が居る訳ないでしょ!? アンタの言う日本ってどこなのよ!? ――彩雅姉、コイツやだァッ! もうユウリを殺してアタシが課題を仕上げるッ!」
「もう、そんな大きい声でバカ丸出しな事言っちゃダメよ。シオちゃんも恐くないから棚の影に隠れようとするのはやめなさい。思ってるほど隠れられてないから」
書類を眺めていた彩雅は勢いよく腕を振り回す綾香を宥めてやりながらも、1人増えただけでにぎやかになったサロンに苦笑してしまう。
鋭い眼光でユウリの細い首筋を睨みつける綾香ならともかく、専用サロンが必要になった詩織には大声を張り上げるような環境は少し刺激が強かったらしい。
可愛そうに。大きな声に驚いてしまったのか、末の妹分は棚の影に隠れてしまっていた。
「歴史もそうだけど、社会は暗記がメインになるんだから気長にやらなきゃダメよ。ユウちゃんも。自分が原因のペナルティなんだから、ちゃんとしないとダメじゃない」
「いいんだよ。俺みたいな美少年は少しくらいバカな方が――」
「ユウちゃん?」
「……分かったよ」
立てた人差し指を突き出してくる彩雅、視界の端で虎視眈々と命を狙ってくる綾香。どうにも押し勝てる気がしない女達にユウリは渋々うなずかされる。護衛対象に命を狙われるなど笑えない。冗談にもならなければ、未だに棚の影に隠れているもう1人の護衛対象に申し訳も立たない。
しかし、と意味深な笑みを浮かべた彩雅はユウリに問い掛けてみる。
「ちなみに、食事をしようと街に繰り出したユウちゃんは、ファーストフード店に入って7ドルのダブルバーガーセットを注文し、持っていた10ドルから払いました。ですが、飲み物が足りず、1ドル50セントのコーラを買い足しました。この時の1ドルが121円とした場合、ユウちゃんは日本円でいくら持っている事になる?」
「小数点を切り捨てて181円」
「何で金勘定だけ早いのよ!?」
思わず声を再度張り上げてしまった綾香に、ユウリは別に、と肩を竦める。
「10ドルから7ドル払ったって事は残りは3ドル、そこから1ドル50セントって事はただ半分にするだけ。答えが正しいかってよりは、どうやって簡単に考えられるかを見る問題だよ」
それはそうなのけど、と綾香は腕を組んで唸る。説明されればなんて事はない問題でも、ユウリがそれを説明している事がなんとなく納得いかない。まるで自分の出来が悪いとばかりに諭されているような感じも。
だが、やればできると分かったのは小さくはない前進だ。どこかやる気ないのユウリでも、勉強に取っ掛かりが出来れば変わるかもしれない。
「もういいわ。アンタがやりやすそうな数学の教科書出して、ややこしい所とか教えてあげるから」
「……えっと、教科書ないと無理かな?」
「あった方が分かりやすいでしょ。アタシだってバカじゃないから、アンタが理解出来ない事を前提にしてる。安心して良いわよ」
終わった、と言わんばかりにユウリは天井を仰いで両手で顔を覆う。
面倒臭がりながらも、課題に付き合ってくれている綾香の優しさは理解している。お節介であったとしても、オフである自分の時間を使ってまで劣等性の面倒を見る必要などないのだから。
だからこそユウリは顔を覆っていた手を合わせ、ゆっくりと口を開いた。




