心荒意乱のヴォルテックス 3
「お久しぶりですね、詩織さん」
「……お、お母様?」
氏家佳乃。どうりで既視感のある顔立ちに、ユウリはいつか聞かされた名前を脳裏で反芻する。詩織の母で祭主の家の復興のために氏家亮太と結ばれ、両親亡き後は夫婦で氏家の後継者争いをしていたはずの女が後継の意志などあまりない詩織に会いに来たのだ。
「ずっと連絡がつかないから心配していましたよ」
元気そうで安心しましたが、と微笑む佳乃と、その視線から逃れるようにユウリの背に縋り付く詩織。
強く掴んでくる詩織の手にジャケットが型崩れしていくのを感じながら、ユウリはジャケットのポケットを肘で軽く突く。必要にならなければそれで良いが、状況は彩雅と和紗の想像しえないものになっているのだ。
それが、どういう意味であっても。
「失礼ですが、佳乃様でお間違いありませんか?」
「ええ。あなたは?」
「申し遅れました。トライトーン・レコード、マネージメント部門の不知火ユウリと申します。レインメイカーのマネージャーをさせていただいておりまして」
「そう、ですか。うちの詩織がお世話になっております」
いぶかしそうに眉を顰めた佳乃は、出来るだけ美しい笑みを浮かべるユウリから名刺を受け取る。
考えている事はただ1つ。どういうつもりなのか、という事だけ。
ユウリは名を名乗ると共に名刺を差し出した。佳乃に1歩近づき、凶器どころかその細い首をわしづかみにできる距離に出向いたいうのに、男はユウリを警戒するどころか状況を静観したのだ。もし男がボディガードなら行動こそ起こさずとも、ユウリのアクションに注意を払うはずなのに。
改めて見てみれば、男の身なりはかなり上等なもので揃えられている。それこそ、明神でかなり高いポストに就いているだろう陳よりも上等である事が見ただけで分かるほどに。
そして何より、氏家佳乃が来るという話などユウリは聞いていない。ありえないとは思うが、綾香と彩雅が子供だからと説明されていなくても、陳がその事を連絡してこない事はないはずだ。護衛対象の肉親の訪問ともなれば任務の性質も変わる。たとえ相手が詩織を育児放棄した母親でも、わざとらしいほどに笑みを崩さない不審者でも。
「ところで詩織さん、2人でお話がしたいのだけど」
「あ、あの……これから、その……」
「申し訳ありませんが、詩織さんはこれからライブが――」
「それは、親子の時間以上に大切なものとは思えませんが」
「どういったものであっても先約は先約――ではありますが、そちらが今日でなければならない理由がおありなのであれば敬一郎様に確認をしますが?」
「それは……」
ここに来て初めて崩れた佳乃の表情にユウリはかま懸けが成功した事を知る。もちろんユウリが明神敬一郎の連絡先など知っているはずがなく、いざとなれば詩織の携帯電話を勝手に使ってでも揺さぶりを掛けようとしていただけ。アポイントメントを取っていないのも、明神の庇護下に置かれた祭主の人間なら無視できないのも明らかだったのだから。
「佳乃さん、そろそろ話を進めていただかないと困ってしまうんですがね。こればかりはロスタイムも認められませんし」
「忠ッ!」
「そんなに睨まないで下さいよ。この時間だって佳乃さんのために作ったんですし、老人どもの説得だって僕がしたんですから」
忠と呼ばれた男は金切声をあげる佳乃を無視して、ユウリへと向き直った。
「僕の名前は祭主忠。急ですまないけど、本件の見届け人を勤めさせてもらう事になってる」
「祭主様、本件とはいった――」
「不知火君、君は敬語でなくても良いよ。君は権力に外にいる存在のようだし、敬一郎様の関係者に様なんて呼ばせられないよ。嘘だってつかないし、難しい言い回しなんかもしない。質問があれば気楽にしてね」
手を取って握手をしてくる祭主に、ユウリはどうしたものか、作り笑いを浮かべる。
どうして不知火ユウリがただのトライトーン社員でないことを知っているのか。それは誰が教え、どこまでの人間が知っているのか。
状況を理解するまではユウリはヘタを打てない。祭主は敬一郎の関係者としながらも、"本件"にユウリを巻き込む事で詩織との時間を手に入れたのだ。
「……では、お言葉に甘えて。そちらの目的は?」
「氏家の第一後継者である氏家詩織様が現状をどう把握しているかを確認し、速やかに判断を下していただく。とても大事なことでね」
「それにしては不作法極まりないんじゃないの。さっきも言ったけど、この後ライブがあるんだよね」
「僕もそれには同感だ。ただ佳乃さんがどうしても顔を見て話がしたいって言うからさ、このタイミングしかなかったんだよね」
「……妾腹のクズが、何を偉そうに」
「そのクズが居なきゃこうやって話も出来なかったんですよ。こっちは不利益覚悟でやってんですから――良き方々に大事にされた詩織様にこのような話をするのは気が引けるのですが、現状の説明をお許しください」
忌々しげに歯噛みする母の表情か。飄々とそれを無視する祭主の態度か。それともユウリを巻き込んでしまった負い目か。
困惑するばかりでユウリの背中から離れようとしない詩織に頭を下げ、祭主は簡単な言葉を選んで説明を始める。
氏家亮太と祭主佳乃の婚姻関係によって結ばれた2家の同盟は2人の婚約関係と共に破綻。婚約を決めた先代の言葉の軽さとは裏腹に同盟は重い意味を持っていた。詩織を産んだ事でお役御免だと奔放にふるまっていた亮太と佳乃が、権力争いの座に引き戻されるほどに。
全ての意糸を引いていた先代が亡くなった事で祭主の勢力拡大は失敗。血を濃く継ぐ1人娘を差し出してしまった事で、妾腹の身である忠を当主候補に据えなければならなってしまうほどに追い詰められてしまった。
そこで祭主の老人達は方針の転換を決定した。佳乃を氏家に差し出した代金として、氏家から後継者を引き取る事にしたのだ。




