心荒意乱のヴォルテックス 2
「忙しくなるのは、夏休みからじゃなかったっけ?」
パーテーションで区切られたメイクスペース、制作用のパソコンにこじんまりとしたソファ。池袋の駐車場に似つかわしくなく、限られた人物だけが立ち入りを許されたキャンピングカーの中でユウリはぼやく。
運転手の白井が常駐する事を考えれば護衛という観点からも、控室兼更衣室兼パウダールームとしても最適だろう。狭い楽屋で煙草の煙も人目も気にしないで済むのだから。
しかしさきほどのリハーサルが尾を引いているのか、綾香は少しバツが悪そうで、詩織は俯いてしまっていた。
「時間の使い方に変わりはないじゃろ。こん子らもおどれの歯医者に付き合ったんじゃろうが」
「別に、行きたいなんて言ってないし」
「顎の筋肉は貧相でも口は達者なんじゃのう。綾香と詩織の手を離さんかったくせに」
どこか勝ち誇ったように笑う和紗の皮肉に、ユウリはぐぬぬ、と悔しそうに歯噛みする。
診断結果は顎関節症。原因はシェアハウス外での偏った食生活らしい。思い返せば、学校では菓子パン。外ではピザやハンバーガーばかりを食べていた。ファストフードなら全世界共通で安心できるとはいえ、完全な自業自得である。
「それで、ヴォルテックスだっけ? あのライブハウスはいわゆる登竜門か何かなの?」
「いいえ。普段はバンドが出るような所で、珍しくアイドルイベントをやる事になってたのを見つけたのよ」
「……言葉を選ばずに言わせてもらうけど、それってなんか意味あるの?」
「意味は後からついて来るし、意義なら既にあったわよ――カズさん、始めましょう」
「おう――それと不知火。ラブリエから新規発注分の衣装用のアクセサリーを受け取って来て欲しいんじゃ」
仕方ない、とユウリはソファから立ち上がってスーツを正す。少しナーバスになっているのは彩雅も同じらしく、言葉は端的で視線を合わせようともしない。考え込んでいる相手に余計な事を言って手を煩わせる必要はない。
キャンピングカーに同乗を許されたのはユウリと和紗、運転手の白井だけ。和紗はメイクの手伝い、白井はハンドルの前から動けないとなれば、ユウリが受け取りに行くしかないのだ。間に誰かを挟むよりはずっと良い。
「あ、あの、私も、外の空気を、その……」
「高速が走る都会の空気を?」
「気分の話でしょ。ラブリエさんにお礼を言っておいて――それと、お腹空いてもいいようになんか買ってきてちょうだい」
「何で俺が」
「アンタの顎があまり開かなくて、アンタが一番偏食が激しいから」
綾香はテーブルとソファをずらしてスペースを作る。やや強引にも感じるがそれもまた仕方ない。このキャンピングカー大きめのものとはいえ、いつも通り綾香がストレットをするのならユウリも詩織も邪魔になる。厄介払いがしたいとう訳ではなく、詩織が外に出たいのと同じで綾香も気を静めたいのだ。
何より、詩織はジャケットの袖を離してはくれないだろう。
そういえば、とユウリは綾香へと振り向く。
「あの時さ、気持ちは分かる言っていたけどアンタも医者が苦手なの?」
「ええ。昔、医者に裏切られた事があったのよ」
裏切り。親しみ慣れた言葉にユウリは眉を顰めそうになる。
明神綾香個人なら出来ない事もないが、それは背後に見える明神を無視して初めて出来る事。財閥を築き、日本経済を手中に収め、教育にまで口を出す明神を相手に出来る個人などユウリは自分を除いて知らない。あの狗飼美緒でさえ手をこまねいていたのだから。
そんなユウリの戸惑いを察してか、綾香は詩織の帽子とサングラスをユウリに渡して言った。
「美咲、美咲・レッドフィールドって医者に」
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「ブレスレットにコサージュ、それぞれのヘアアクセ。確かに受け取りました」
ライブハウス近くの遊歩道でユウリは書類に受け取りを書いた書類を愛に渡す。衣装が変わった事やアクセサリーの追加発注があった事は聞かされていなかったが、それは和紗とその部下達が何も言わずにマネージメントを引き受けてくれたから。いちいち信頼を確かめ合うような真似はしないが、信用はされているらしい。少しでも過ごしやすくなるようにと女性社員ばかりでチームを組んで甘やかされている詩織を、たった1人で任されているのだから。
「はい、確かに――ごめんさいね、こんなギリギリになってしまって」
「自分は構いませんが、忙しいから続けられないとか言わないでくださいね」
「大丈夫大丈夫。レインメイカーのおかげでオファーが増えたんだもの。お店に来てくれてるみたいだし」
ね、と愛は帽子を詩織に微笑みかける。どこか楽しげな愛の態度に思うところがあるのか、詩織は目深に被った帽子で紅潮した顔を隠すように俯く。それでもユウリのスーツの袖をつまんで離そうとしない手が、愛にはほほえましいのだが。
「それで、誰とお店に来てくれたの?」
「はい?」
「お店の子が言ってたのよ。詩織ちゃんが懐いてる男の人なんてあなたくらいだろうって」
「鉛地部長の事じゃないですかね。自分はあれ以来そちらに伺っていないので」
「……聞かなかった事にしておいてちょうだいね」
男という目撃証言と和紗のコンプレックスが結びついたのか、愛は顔を引き攣らせた愛は軽く頭を下げて停めていた車へと歩いて行く。当時着ていた学生服について言及がないのも、和紗の剣幕があっての事だろう。もし学生服について聞かれたとしても金持ちの道楽に付き合っているだけ、と嘘ではない言葉で応えればいいが、美緒について聞かれるのは面倒だ。美緒から愛に近づいて行くとは思えないが、近づいて来た愛に美緒がまた自分は叔母だと吹聴するのは容易に想像できる。森崎奈津美の件で未熟さを思い知らされたように、ユウリがこれ以上問題を持ち込むこ事は許されないのだ。
しかし、ジャケットの袖を強くつまむ手の主には関係ないらしい。
「アイツの事は説明しづらいけど、一応今のところは味方、なんだと思う」
「狗飼さん、でしたっけ?」
「うん。俺が動きやすいように振る舞ってくれてるし、今のところは敵対する可能性は低いんじゃないかな。少なくとも艸楽とは連絡取り合ってたみたいだし」
そう言って、ユウリは目深に被った帽子で顔が見えない詩織から目を逸らす。
信用はするが、警戒を緩める気はない。利用できるのであれば利用し、邪魔になれば始末する。追っている真相こそ違うが、明神に猜疑心を抱いているのは同じなのだ。綾香が過去に裏切りを経験したように、ユウリも詩織達を裏切ってしまうかもしれない。
だけど、とユウリは脳裏で綾香の言葉を反芻する。
美咲・レッドフィールドに裏切られた。
他の誰でもない、明神綾香がそう言っていたのだ。レッドフィールドは日本では"そういう事"になっているのだろう。
レッドフィールドが明神を裏切ったからか。それとも、明神がレッドフィールドを裏切ったからか。
ユウリにその判断を下す事は出来ない。出来なかったからこそ、ユウリ・レッドフィールドは不知火ユウリになったのだ。殺すかもしれない相手と同じ学校に通い、同じ釜の飯を食い、その命と意志を守って。
真実を公表し、殺すべき者達を殺すまでは誰にも邪魔をさせる訳にはいかないのだ。
「詩織さん」
聞き慣れた名前を気安く呼ぶ聞き慣れない女の声。強くなった袖をつまむ手の力にユウリは詩織を背に隠すようにして振り向く。
結い上げられた暗い茶の髪。細身の体には泡藤色の着物を纏い、傍らにはスーツ姿の男。そこに立っていた女は、どこか既視感のある顔立ちをしていた。




