心荒意乱のヴォルテックス 1
「さっさと行って、さっさと終わらせるわよ」
「嫌だ」
「で、でも、行か、ないと、その」
「嫌だ」
「ほら、わがまま言わないの」
「い、や、だ」
ユウリの端正が歪んでいるのは鼻を突く独特の臭いのせいか、それとも、両手首に感じる圧迫感。体を水底に沈められたかのうような重い倦怠感のせいか。
あまりにも聞き分けのないユウリに、3人はどうしたものかとため息をつく。
まるで、いや、獣医に連れられてきた犬そのもののようにユウリは抵抗する。右腕を問答無用とばかりに、左腕をおっかなびっくりと引く手は首輪とリードのよう。力づくで連れて行くのは簡単だが、と綾香も困惑してしまっていた。
事の始まりは昨晩の夕飯。その日食卓に出されたのは、綾香の彩雅手製のビーフシチュー。ビーフシチューは余程こだわりがあるのか、気に入った肉が入らないと作られない綾香のお気に入りだ。
しかし、ユウリはほとんど手を付け居なかった。初めて聞いた東上線ジョークなるものを口にするほど機嫌が良かったというのに。
本当に固いバケットが嫌いなのか? 否。材料が同じでも、もっと固く、乾燥したパンを食べてきたはず。
ジョークに水を差されて不愉快な思いをした? 否。この程度の事を屈辱と捉えるほどユウリは幼稚ではない。
つまり、食べれない理由があるという事。普段口にしないジョークを口にしてまで。
そこでユウリが秘密裏に連れて来られたのが、3人の掛かりつけの歯科医。3人に虫歯はないが、3つの家が認めた医者だ。信頼と技術は疑いようもないが、そんなことはユウリには関係ないらしい。
「気持ちは分からなくもないけど、先延ばしにしても良い事はないわよ」
仕方ない、と彩雅は不承不承うなずき、綾香は半ば強引にユウリを引いて診察室の扉を開ける。ボディガードというユウリの立場を考慮して、わざわざ掛かりつけの歯科医を助士をつけさせずに用意したのだ。今を逃せば、時間も機会もなくなってしまう。信用してもらうほかないのだ。
「すいません。お待たせしてしまって」
「いいわよ。待ってた分はちゃっちゃとやっちゃうから」
白で統一された壁や床。診察台。薬品棚。申し訳なさそうに頭をする彩雅に女がけだるげに答える。
薄い化粧を施したこざっぱりとした印象の顔にはやや吊り上がり気味の目。白衣の背中に黒い三つ編みの長髪を垂らした女医。彼女こそが3人の掛かりつけの歯科医、雪村千紗だ。
「お、俺みたいな美少年に、何をする気さ?」
「なんもかんもするわよ。診察ってそういうもんだし」
「じゃあなに!? ギュイーンってやるつもりなの!?」
「治療が必要ならね。綺麗な助士さん用意してあげるから」
「俺の方が綺麗だし!」
「そうかもね」
気のない千紗の返事にユウリは顔を青くする。待たせたのは悪かったが、心の準備というものは時間が掛かるものだ。結果として準備が終わらない事も含めて。
どうすれば。いつもならばこの美貌と頭脳で切り抜けられる修羅場も、相手がユウリに興味を持っていなければ意味がない。
しかし、もし千紗が美少年の口の中に器具を入れる性癖の持ち主だったなら。 美緒に押し付けられた防犯ブザーが火を噴くのは今なのかもしれない。
「ま、待って! もう少しで礼拝と瞑想の時間だから!」
「礼拝と瞑想って、アンタ無宗教でしょうが」
「ここぞという時だけの神頼みは日本文化でしょ!?」
「黙りなさい顔面東欧系。食生活はアメリカナイズされているくせに」
「そんなに恐いなら明神さんと氏家さんにこのまま手でもつないでもらいなさいな。このままじゃ埒が明かないし」
「……すんごい恐い」
「そういう事らしいから」
最低な思い付きから抵抗。その後に弱音を吐くユウリを診察台に寝かせ、千紗は綾香と詩織に脇の椅子に座るよう促す。まるで小さな子供のようだとあきれてしまいそうになるが、最近の子供はもっと物わかりが良い。16歳の子供なら抵抗を覚える事があっても、ここまで恐がられたのは初めてだ。
そして、ここまで往生際が悪い子も。
だけど、と綾香はユウリの手を握り直して耳元でささやいた。
「気持ちは分かるから、ずっとこうしててあげる。アンタも少しは安心出来るでしょ」
●
漂う煙草の煙を払うように、不快な視線を退けるように、ユウリは伊達メガネを指で押し上げる。普段なら注目は美しさの代償だと受け入れられるが、流石に初めて訪れる施設での護衛中となれば話は別だ。自他共に認める美少年なのだから、色目を使われるのも、羨望の目を向けられるのは当然と理解していても。
「姐さん! 物販の設営終わりやした!」
「やり直しじゃ」
「ど、どうしてっすか!?」
「アイドルの物販に薔薇の一輪挿しを中心にしたレイアウトはいらんからじゃ」
身内が現場を賑やかしていればなおさら。和紗の言う社会人スキルのおかげで妙な軋轢はないが、タオルを鉢巻のように巻く宮前里美という女性社員や、度の過ぎた三白眼と姐さんという呼称は周りとの距離を作っていた。ユウリを含めたレインメイカー関係者全員がダークカラーのスーツを着ているのだ。和紗がこの場に居なくとも、威圧感を与えていただろう。
『――キャッ!?』
『ご、ごめん!』
聴き慣れたはずのサウンドに交じる悲鳴に、ユウリは視線をステージに戻す。ステージでは歌を中断してしまった詩織に綾香が両手を合わせて謝っていた。
それも仕方ない。
今日の戦場はホールではなく、ライブハウス。ステージはいつかよりもずっと小さく、照明やスピーカーも小規模。壁や床はすっかり薄汚れており、このライブハウスの年季を伺わせる。老舗なのかもしれないが、やり辛い場所に代わりはない。
「――ちの道楽――」
「――ともない。金だけあっ――」
1度ぶつかってしまったショックで綾香の動きはこじんまりとしてしまい、詩織に至っては歌までどもり始めている。流石の彩雅も音響や照明などのチェックの傍らでフォローまでは出来ない。現にリハーサル時間の終了は間近に迫っており、ジャージ姿の3人を見る共演者達の視線や言葉もどこか冷ややかだ。
そしてユウリもまた、この環境に手をこまねいていた。
狭くて薄暗い閉鎖空間での襲撃は対処しづらく、フロアから見えてしまう袖で待機する事は出来ない。待機できそうな場所があるとすれば、フロアの最後列かキャットウォークのような申し訳程度の2階席。警備員など居るはずもなく、対処に動けば注目される事は間違いない。全ての雑務を引き受けてくれた和紗とその部下達が居なければ、あらゆる状況を考える事は出来なかっただろう。彩雅の煙草アレルギーを受けて、ライブ中は禁煙を徹底すると言うライブハウス側の訴えすら疑わしく感じているのだから。
『サウンドに関してはこの形でやらせてください。レインメイカー、本番もよろしくお願いします』
これ以上は時間と手間の無駄だと考えたのか、彩雅は手を上げて音を止めてミキサーに頭を下げる。
誰にとっても、難しい1日となるだろう。
漂う不穏な雰囲気をかぎつつ、ユウリは3人の元へと向かった。




