情け無用のスプリント 3
週末の星霜学園のグラウンドの片隅。ユウリは呼吸を整えるように深呼吸をする。湿気交じりの空気はもはや熱気。まだ昼前だというのに強い日差しに汗が吹き出し、南アフリカとは違う暑さも、汗ではりつくシャツが少しだけ不快だが、不思議と気分は悪くなかった。
「どうしてヌイヌイ先輩はそんなに速く走れるの?」
「神様なんて信じてないけど、天は美少年にいくつも才能を与えたがってるって事なんじゃないかな」
「もう、トモは本気で聞いてるのに。トモもヌイヌイ先輩みたいに速く走りたいのに、なんかこうバビューンって」
「同じ陸上部の奴にでも頼ってよ。美少年とその他が同じ世界に住んでると思わないでよね」
不満だとばかりに頬を膨らませる智子の頬を、ユウリはひどいのはどっちだと指先で突いてしぼませる。
付き合って。ヌイヌイ先輩。正しく綴り直すのであれば、週末の自主練習に付き合って下さい。不知火先輩。
どういう事だと前髪越しの目で訴えて来る護衛対象。電話越しにお願いと連呼する赤の他人。流石に見るに堪えなかった綾香によって詩織の追及は逃れられたが、事情を理解した綾香のせいでユウリは話を受けざるを得なくなってしまったのだ。
「マジな話をするとさ、アンタには無理だよ。俺みたいな美少年に憧れる気持ちは分かるけど」
「それってトモが話にならないくらい遅いって言いたいの!?」
「そうじゃないよ、面倒くさいな」
途端に眉尻を上げる智子にユウリはついぼやいてしまう。
言い方が冷たかったのは自覚しているが、100メートルを数本走らされて成果が得られないというのであれば、ユウリとしてもこれ以上は付き合いきれない。影響があまりなかったとはいえ、智子のために最低でも5人の人間が予定を変更しているのだ。
しかし智子は何も知らない。綾香の鶴の一声でこの瞬間が実現した事も、詩織への説明に時間が掛かった事も、彩雅がサロンで持ち出せる仕事をしている事も。
「面倒くさいって言った! ヌイヌイ先輩の人でなし! 負けわんこ!」
「何だとこのチビ!」
「ヒィッ!? 綾香先輩! ヌイヌイ先輩が怒鳴った!」
珍しく声を荒げるユウリから逃れるように、智子は綾香の背中へと逃げ込む。盾どころか要塞扱いさえされているような気もするが、綾香は所詮後輩のやる事だとぐっと飲み込む。
才能がないのであれば努力で補い、持てる才能を根性で更に飛躍させる。努力、根性、やせ我慢。前時代的なスポーツ漫画のような性質の綾香は智子のお願いを無視できる訳がなく、サロンで作業をしている詩織と彩雅と分かれて素知らぬ顔で合流していた。日焼け止めを全力で塗り込み、スポンサーに提供されたウェアを完全に着こなし、新しく用意されたシューズを慣らしに来たという体で。
「ユウリも大人気ないけど、椎葉さんもそんなこと言っちゃダメでしょ」
「ごめんなさい、ヌイヌイ先輩」
あの悪口教えたのはアンタだろ。そうは思うも謝られしまった手前、ユウリは何も言えずに舌打ちをする。
自主練習という事で屋内競技場を使う事は出来なかったが、それを理由に詩織を彩雅と一緒にサロンに押し込む事は出来た。セキュリティへの信頼が比較的高い星霜学園で、比較的サバイバビリティが高そうな綾香だけを守ればいい。ほぼ面識のない後輩を想っての事なのか、それとも広い所で体を動かしたかっただけなのかは分かりかねるが、綾香が生じる負担を減らそうとしてくれたのも事実だった。
「それで、何か掴めた?」
「……全然です」
「なら映像を撮っておいたからフォームの確認から始めるわよ。ユウリは少し休んでおきなさい。この後も走る事になるかもだから」
「お言葉に甘えまして、俺は飲み物でも買って来るよ」
「スポーツドリンクならあるけど?」
「気持ちは嬉しいけど遠慮しておく。なんか苦手なんだよね」
いつの間にか撮っていた映像をタブレットを操作する綾香に手を振って、ユウリはグラウンドの脇に置かれた自販機の方へと歩いて行く。上手く説明出来る気も、しっかりと説明する気もない。精々綾香に活路を見出してもらい、この不毛な時間を終わらせてもらうしかない。ユウリに出来る事などハムスターのように走らされ、2人の邪魔をしない事くらいだった。
「おい」
そもそも。そもそもだ。つきまとわれていた理由が足が速かったからなどという、今どきの小学校低学年でもありえない理由なのも気に入らない。その気になれば国すら傾けられると自負するこの美貌、あるいは当初の艸楽彩雅のそばに居るからという理由の方がまだ納得が出来るというものだ。
「おい」
もしかして。ユウリはふとした思い付きにハッとするも、すぐさまありえないと否定する。
たとえ思い付き通りに椎葉智子が彩雅のような同性にしか興味がなかったとしても、美少女よりも美しい自分に心を奪われない理由などなく、最初から智子はユウリの足の速さを認めていた。ライバルや教師役になるとまでは思わなかったのだろうが、智子はそちらの理由でもユウリを試そうとしていたのだろう。美しさを理解できないのは悲しいが、理解できずとも生きていけるのは幸福だろう。高嶺の花に気付くという事は、自分の低い立ち位置に気付くという事なのだから。
「相変わらず、愛想もねえ奴だな」
「相変わらず、常識もねえ奴だね」
ついに無視しきれなくなったユウリは意趣返しのように吐き捨て、ぶしつけな声の主をじろりと睨みつける。。
極端なくらいのベリーショートの髪、真っ黒に日焼けした顔には糸のように細い目。いつかとは違う制服姿。
そこに居たのは、先日のレクリエーションで張り合った森崎仁だった。




