情け無用のスプリント 2
「……アンタって、嫌味なくらい容量が良いのね」
「俺がただの美少年じゃないのは確かだけど、今回ばかりは流石に頑張ったよ」
禁制した覚えはなかったが、女の城と化していたキッチンで綾香は小皿を置く。口にしたスープはレシピを残してくれた彩雅の味に近く、さっぱりとして美味しい。コンソメに沈む野菜たちもは丁寧に処理されており、手慣れた包丁遣いは詩織以上の実力かもしれない。
しかし、褒められたというのにユウリの表情はどこか浮かないもの。
それもそのはずだろう。
「竹刀を持った猪女が居ればね」
「凶暴って、いつまで昨日の話をしてるのよ。あの件はちゃんと謝ったじゃない」
「そっちじゃなくて、平然と凶器を持ち出しているところだよ。俺だって持ち込むのは最低限にしたのに」
「ただの雰囲気づくりの小物よ。特訓って言えば竹刀だし、なんか気合が満ちて来る気がするし」
「満ちたのは恐怖だよ……」
準備運動代わりのナイフジャグリング。疎かにした猫の手。とりあえずの強火。元を正せばただの自業自得なのだが、失敗を重ねる毎に背後で軋む竹刀の音はただの恐怖でしかない。特に、つい昨日力任せに押し倒されたユウリなら。
「一応聞いておくけど、そんなに俺の用意した食事に問題があったの?」
「ほとんど炭水化物だったのが問題なのよ」
「他者の介入を避けるための無作為な選択。加熱前と加熱後に毒見が出来て、俺以外が手を加えられない。ボディガードとしても合理的で、お嬢様方としてもあきらめがつく夕食だと思ったんだよ。素人が下手に料理するよりマシだし、ボイラーの修理の傍らで用意も出来るし。むしろの手際の良さを褒めてほしいくらいだね」
「それは、本当にすごいと思うけど、あのメニューは女の子には重すぎるの。 どういうつもりか知らないけれど、冷凍食品ではしゃげるほど箱入りじゃないんだから」
「庶民の食事ではしゃげなくても美少年の裸にはこうふ――オーケー、俺が悪かった。俺みたいな美少年が居なくなったら世界の美的ランクが1段階下がっちゃうって。暴力反対」
「モラルレベルは上がるかもしれないわよ。アンタ、詩織に洗濯とかさせてるらしいじゃない」
「俺が頼んだわけじゃないよ。詩織がついでにやってくれるって言うから」
ぷるぷると震える竹刀の切っ先に注意を払いつつ、ユウリは首を横に振って否定する。よろしければと話を持ちかけられた記憶はあるが、面倒だからと頼み込んだ記憶も罪に問われる覚えもない。綾香の言い分はもっともだが、確実に重い一撃をもらう理由にだってならない。
「だからって嫁入り前の子に下着まで洗わせる理由にはならないでしょう。どうせアンタがいい加減にやってたのを見てたんじゃないの」
「男が下着を洗ってる現場を嫁入り前の子が見ている事は問題じゃないんだ」
「とにかく、簡単なものくらいは覚えなさい。アンタ自身が工程と内容を理解していれば安心だし、詩織も彩雅姉もアンタの食生活を相当心配してたんだから」
綾香は手を叩いて誤魔化す。昨日の不手際を理由に料理を教える事にようにという沙汰は受けたが、2人の関係に踏み込んで行く気などない。何より、特に隠し事はない関係であっても、妹分の性癖を追及する理由はない。したくもない。本気で恋愛をしたいのなら応援するが、何らかの共犯になるのはまっぴらごめんだ。下着を直接手洗いしていない事実に心から安堵してしまった時点で、綾香には不干渉を決め込む事しかできない。さわらぬ神にたたりはなく、しっぽを踏まなければ猛犬も従順な下僕。いらぬ事実を白日にさらす必要などない。
それはユウリも同じらしく、火を止めて肩をほぐすように腕を回してた。
「余計なお世話とは言わないけどさ。俺からすれば、そちらさんの方が意外過ぎるんだよね」
「女なら当然、という訳じゃないけど料理が出来て損はしないし、仕事が多い彩雅姉に面倒を掛ける訳にもいかないでしょ」
「せめてアイエイチなんとかって電気のやつでやらせてもらえないのかね。何でボイラーもコンロもガスなのさ」
「さあ、火力とかいろいろあるんでしょ。停電してもお湯を作れるってのは大きいし」
「非常用電源ってないの?」
「あるにはあるけれど、セキュリティ関係が優先されるようになってるんじゃないかしら。アンタの部屋がどうなってるかは彩雅姉しか知らないけど、システムダウン中に狙われるなんて映画でよく観る展開だし、アンタが閉じ込められたら話にならないし」
間違ってはいない。もし明神が思っていた通りの仇敵なのであれば、ユウリも手段の1つとしてセキュリティを狙う。物理的な防壁ごと配電設備を吹き飛ばし、混乱に乗じて明神敬一郎を殺す。そのために明神綾香の身柄を抑えるのは当然と言えるだろう。多少の自信で一世一代の賭けは行えず、いくらユウリでも金で集められたボディガード部隊をまともに相手にする事は出来ない。だからこそ、紛争地帯を渡り歩き、挑発行為を繰り返す事でその真意を探り、歯向かうようであれば自分のテリトリーで殺すつもりだったのだ。
悩ましい事に、明神敬一郎の意志は未だに計りかねているのだが。
「まあ、間違っちゃいないね。一応聞いておくけどさ、夏休みいっぱいは忙しくなるの?」
「そうなる、かもってところね」
「かも?」
「大きめのイベントの選考次第なのよ。出られるならそれに向けて忙しくしていくし、出られないなら今まで以上に地力を上げていくための何かをするだろうし」
「……結局忙しくなるんじゃん」
「本当に忙しくなる可能性もあるって話よ」
「ポトフの作り方を覚えたからって俺に料理を期待するのはやめてよね」
「別に期待なんかしてないわよ。ただもうお客さん扱いはしないってだけ。アンタがちゃんとやれるならお弁当くらいは作れるようにしてあげるから」
「……全部自己責任ってことでなんとか」
「それじゃどうせ詩織の善意に甘える事になるじゃない。全部を完璧にこなせとは言わないけど、あの子に面倒を押し付けるのはやめなさい」
はいはい。ユウリは口に出せば竹刀の餌食になりかねない言葉を胸中で呟く。ボディガードとしての仕事はしていても、家の事はここ最近何もしていない。料理に至っては先日が初めてだったのだ。やればできると知られてしまった以上、綾香はユウリの怠慢を許しはしないだろう。幸いにも伊勢の一件以来、ボディガードとして分かりやすい仕事もなく、甘やかされては困ると綾香は教師役を買って出ようとした詩織をなだめかしているのだから。
「それはそうと、アンタ、やってみたい事はないの?」
「車の免許取りたいとか、そういうこと?」
「まあそんなところ。免許はまだ無理だけど、料理みたいに教えられる事なら教えてもいいわよ。彩雅姉みたいに何でもは出来なくても運動とかピアノとかくらいならなんとか出来るし。部活とかそういうのはさせてあげられな――電話?」
突然震えだした携帯電話にユウリは首を傾げる綾香を無視して思わず顔を顰めてしまう。
ディスプレイに表示されている名前は椎葉智子。電話番号を教えた覚えも、教えられた覚えもない後輩だった。
嫌な予感しかしないが、出ない訳にもいかない。智子の事などほとんど何も知らないが、このまま放っておいても電池が切れるまで鳴らされ続けるだけだろう。不幸にも椎葉智子という後後輩は誰よりも早く登校し、校門でユウリを待ち続けられる見当違いな辛抱強さを持っているのだから。
そしてユウリは意を決して携帯電話の画面をタップした。
「ゆ、ユウリさん、や、やっぱり、私もお手伝い――」
『付き合って! ヌイヌイ先輩!』
背後から聞こえたどもりがちな言葉。スピーカーからつんざくように叩きつけられた音量の暴力。
我関せずを貫かんと明後日の方を見ている教師役を恨みつつ、この状況をいかに切り抜けるか考えつつ、ユウリはねえねえと叫び続ける携帯電話の通話を切った。




