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レインメイカー  作者: J.Doe
ドリズル・チューズデー
111/131

情け無用のスプリント 1

 タオルで汗を拭いながら綾香は1階へと続くシェアハウスの階段を上って行く。出来るだけ閉塞感を感じないようにという配慮からつけられた射光窓からは夕日が差し込んでいる。いつもなら自主的に3人で振付確認などをする時間だが、それぞれ作業がある2人は自室にこもっており、体を動かさないと落ち着かない綾香だけが地下スタジオで自主練習をしていた。

 体の調子は限りなく良い。先日のレクリエーションで足を転んだ事からコンディションの事が気に掛かっていたが、体には一切問題はない。問題があるとすれば、綾香の精神的なものだろう。


 ここ最近立て込んでいた何もかもで改めて、自分ははすぐに熱くなり過ぎると綾香は理解させられていた。


 そんな負けず嫌いな気性のおかげで首席を維持できている自覚はあるが、ここ最近はすぐに手が出るようになっている気がする。伊勢裕也の一件で惨状を見てしまったから事や、不条理な胸への風評被害が理由だとしても、すぐに暴力に訴えて良い理由にはならない。明神綾香としても、厄介なボディガードの監視としても、レインメイカーのメンバーとしても。綾香がもし冷静だったのなら、勝つことは出来なかったとしても無様に転倒するようなことはなかったはず。彩雅は勝つための方法を取ることはあっても、相手を陥れるような真似はしない。最後は相手にその選択をゆだねているのだから。


 そんな事より、まずはシャワーだ。


 ようやくたどり着いた1階の共同のバスルームの前で綾香は大きなため息をつく。前髪とウェアは汗で張り付き、このままでは流石の綾香でも風邪をひきかねない。今年の夏はやりたい事がたくさんあるのだから、夏風邪などひいては居られないのだ。幸いにも競争相手は部屋で作業中。ボイラーの調子が悪くとも気にはならない。

 そして、それぞれが用意した使用中の札のない扉を開けた綾香は思わず凍りついたように動けなくなってしまう。


 湿った金と黒のツートンヘア。驚いたとばかりに見開かれた琥珀色の瞳の目。部屋着代わりのイージーパンツに、胸を隠すように抱きしめられたバスタオル。

 そこに居たのは、突然開けられたドアに驚く美少年。


 どうして。綾香は何も言えずに口角をヒクヒクと痙攣させる。確かにここは共同のバスルームだが、それはレインメイカー3人だけの話。自室に専用のシャワーがあるユウリがここに居る理由がない。

 だが、ユウリはここに居る。ここでシャワーを浴び、ここで部屋着に着替え、そして、多くの空気を吸いこむために口を開いている。

 綾香が次の光景を直感的に察したその瞬間、自主トレーニングで温まった綾香の体が躍動した。まるでその姿は獲物へと飛びついた猛獣。戦い方を知っているユウリでさえ、その勢いには逆らいきれずに押し倒されてしまった。


「お、大きい声を出すんじゃないわよ」


 右手を口に、左手を後頭部に。最低限の気遣いと共に組み伏せたユウリに綾香は囁きかける。風呂上りでも黒革の手袋はいつもどおりはめられ、体を隠すようにバスタオルを必死に握っている。女子かと言いたいところだが、この状況では男も女もないだろう。胸部の形状もお互いにどこか見慣れた雰囲気であるが、それも含めて。

 しかしこのままではいられない。見上げて来る視線はどこかつめたく、押さえつけた唇はもごもごと綾香の手のひらをくすぐっている。

 頼むからさわいでくれるな。祈りるような気持ちを抱き、脅すような視線を贈りながら、綾香は恐る恐るユウリの口から右手を離した。


「この、けだものが」

「ほ、本当にごめんって。びっくりしたらつい体が動いちゃって」


 そう言いながらも頸椎付近から手を離さない綾香に、ユウリは心底不愉快そうに眉を顰める。綾香にそのつもりはなくとも、男1人をしめあげたその手はただの凶器。頸椎ごとねじ切られてしまうのではないかと思うほどの恐怖。ユウリの生殺与奪は文字通り綾香の手の中にあった。


「もしかして、監視役もそのつもりで……」

「ち、違う違う! アタシはシャワーを――というか、どうしてアンタがここでシャワーなんか浴びてるのよ」

「ボイラーの修理と試運転だよ。業者が入れないなら俺が直すしかないし、艸楽には許可をもらってる。だから2人とも部屋で作業をしてるんでしょ」


 そういえば。綾香は何も言えないまま表情を凍りつかせる。あくまで自主的とはいえ、3人での振付練習は理由もなく中止にはならない。ダンスが苦手な詩織には練習時間が2人よりも多く必要で、楽曲に時間を取られがちな彩雅も練習時間として空けていたのだから。

 つまり、綾香はまた熱くなってしまったのだ。反省してから3分も経っていないというのに。

 まずい事になった。かいていた汗すら冷や汗に代わって行くような錯覚さえ覚え、なんとかしなければならないのにアイディアは何も出てこない。ユウリもすっかり脱出をあきらめてしまったのか、抵抗もせずにされるがまま。息がかかるほどに近い端正な顔も、どこかぐったりしているよう。

 押し倒された美少年。覆いかぶさる美少女。あらゆる勘違いが重なれば耽美的にも見えてしまうかもしれないこの光景を、妹分にでもこの光景を見られてしまったなら。

 もしこの時、綾香の脳裏にマーフィーの法則という言葉がよぎってさえいれば、あるいはごめんと謝って扉を閉めていたのなら運命は違ったかもしれない。


 しかし、その時は訪れてしまっった。


「何を、されているんですか」


 感情も熱量もなく、どもりすらない。淀みなくすらすらと告げられた簡潔な問いかけ。

 見慣れた青いスリッパを横目に見つつ、ようやく熱を失った頭の中で綾香はただ弁解の言葉を考えていた。


 ●


 綺麗な赤毛のつむじに彩雅は大きなため息をついた。階下での騒ぎを聞きつけて来てみれば、半裸の弟分をよそに硬直する妹分達。ある意味での地獄絵図を見せられてしまえば、保護者としても何も言わずにはいられない。

 これまでこういった問題が起きなかったのは、あくまでユウリが自分の立場をわきまえていたから。互いが大事にしていた垣根をうっかり力任せに乗り越えられてしまえばどうにもならない。それだけ綾香がユウリに心を許していたとしても、それはばかりは理由にならない。


「まったく。恋愛まで禁止するつもりはないけれど節度くらいは持ってほしいものね」

「違うって、それだけはないって!」

「冗談よ。でもユウちゃんがボイラーを直してくれるっていうのは昨夜の内に言っておいたのは真実だけど」

「つ、つい……」


 怒ってまではいないが流石にあきれたとばかりの彩雅に綾香は苦笑いを浮かべる。彩雅は綾香がのぞきに行ったとは思っていないだろうが、詩織がそう思っていてくれているかは分からない。長めの前髪から覗く目はまっすぐ綾香を見つめ、口に端に掛かっている一筋の髪がそこしれない恐怖を突き付けて来るのだ。刃傷沙汰には絶対ならないだろうが、この空気で過ごすなどまっぴらごめんだ。


「もういいよ。罪作りな美しさだってのは自覚してるし、このままだとせっかくこの俺が用意した夕飯だって冷めちゃうしさ」

「アンタが食事の用意って、大丈夫なの?」

「安心してよ。シャワールームに侵入してくるような奴とは違――」

「あーお腹すいちゃった! 早く夕飯にしましょ!」


 綾香は急かすように手を叩きながらユウリの言葉を遮る。

 昼食を菓子パンと甘いコーヒーだけで済ませ、ここでは準備どころか皿洗いすらしない。そんなユウリが用意したとあって心配もあるが、毒になるような物だけは出さないだろう。忙しい3人に代わって食事を用意を言い出したのは本人で、女に押し倒されるほどにか弱くてもボディガードはボディガード。綾香は自分の剛腕を棚に上げるが、他人に対しての評価を見誤った事はあまりない。詩織も彩雅も綾香にはない魅力を持っており、2人以外のメンバーなど考えられない。だから妹分が髪を食べてお腹を壊す前にさっさと食事にしたいのだ。

 しかしテーブルに並べられた夕食に綾香のみならず、3人の顔はみるみると引きつって行く。


「……ユウリ、メインディッシュは?」

「マルガリータも捨てがたいけど、今日の気分はペパロニかな。やっぱり日本製の冷凍食品は出来が良いね」

「えっと、その、お野菜は?」

「ポテトとオニオンリングがあるじゃん」

「飲み物は?」

「コーラとダイエットコーラ。好きな方選んでいいよ」

「……家族会議! レインメイカー、アッセンブル!」


 あっけに取られた妹分達とペットボトル2本をテーブルに置いた弟分。まだまだ3人の悩みは尽きそうにない。

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