思い違いのランデヴー 5
小さい頃、綾香は母に動物園に連れて行ってもらった事があった。
立場もあって家族水入らずという訳にはいかなかったが、母と出掛ける事が少なかった綾香はその時の事を今でも鮮明に覚えている。
うさぎ。パンダ。ライオン。映像で観た事がある動物達も実際に見れば印象が違い、タイマンならという物騒な考えも気付けば消え、母は娘の行く末を案じざるを得なかった。可愛いや怖いと思うよりも、勝てる勝てないを最初に気にされてしまえば無理もない。理由が分かっているだけに頭を抱えてしまうほど。どれだけ可愛らしい見た目をしていてもパンダは熊なのだ。漢字で書けば熊猫。ジャイアントパンダに至っては熊猫の前に大がつく。
だが明神の名前はは綾香に敗北を許さず、綾香自身の気性が貪欲に勝利を求め続けた。艸楽彩雅という姉貴分は先導者としても、障害としても最高の存在だったのだ。引っ込み思案な詩織を守りたいという気持ちも、綾香を強く突き動かしたのだろう。
近くで見ていたからこそ。競い合っていたからこそ。守られていたからこそ。
詩織と彩雅はその気持ちの強さを理解していた。
流石に、紛争地帯帰りのボディガードを倒すほどの力があるとまでは思っていなかったが。
「アヤちゃん?」
「……ごめんなさい。やり過ぎました」
彩雅のどこか咎めるような声に綾香は素直に頭を下げる。視線の先に居たのはぐったりとベンチに横たわり、詩織にハンカチで風を送られているユウリ。綾香の紛う事なきバカ力は華奢な少年の体を曲げるくらい容易く、理想的な技の極め方は完全に調子を取り戻したユウリでも逃げ切る事は出来なかったようだ。
「話が、違うようだけど」
「それに関しても、ごめん」
好奇心は猫を殺しもするが、どうやら猪を殺す事は出来なかったらしい。
謝っているつもりなのか。両手を合わせる綾香にユウリは呆れ果てたようにため息をつく。あれだけ興味津々で、星霜学園の庭園は文字通り綾香達の庭のような物。他の2人はともかく、綾香が大人しくサロンで待っている訳がない。少し考えれば分かる事で、そもそも指定された場所にのこのこと訪れた事自体が間違いだった。誘いに応じてさえいなければ、つまらない事に時間を取られる事も苦手な関節技を極められる事もなかったのだ。
「でも、殴るのはやりすぎよ。同じ女としても見苦しいとは思ったけれど」
「答えを誤魔化すのも相当見苦しいと思うけど」
「ご、ごめんって」
想像以上に怒っているらしいユウリに綾香はもう1度頭を下げた。焚き付けただけでなく、約束も破ってしまったのは自覚していて、挙句の果てに渾身の技を極めてしまった。何もかも自分が発端なのだ。余計なひと言を添えられれば不愉快にもなる。綾香がサロンを抜け出せば、詩織と彩雅がついて来ざる得ない。そして何より、仮称アン自称ドミニクの想いも踏み躙ってしまったのだから。
「勘違いされるのも、面倒事に巻き込まれるのも、何も分かってないくせにいろいろ言われるのも。嫌だから、ここではっきり言葉にしておく。そちらさんだけじゃなくて、アンタもちゃんと理解して帰って」
少しはマシになったのか。顔を覗き込んできていた詩織を避けてユウリはゆっくりと体を起こす。琥珀色の瞳の視線は綾香からドミニクへと移り、への字の口は呆れと苛立ちを吐き出すように舌打ちをする。
悪気ない事くらいは分かっていても、悪気がないから性質が悪い。結局暴力でしか状況を動かせなかったというのに、片方に至っては善意すら感じさせているのだ。やり辛くて面倒くさい。
諧謔を弄すことはあっても言葉を尽くす事はしないのがユウリであり、掠め手すら正面から受け止めるのが綾香。中途半端な誤魔化しは通用せず、完全に事態を解決させない限り、面倒事が続くのは目に見えている。ユウリは綾香だけでなく、詩織にも背中を押されてしまった。見かけによらず、押しの強い護衛対象に。
「俺は誰かの物になる気はないんだよ。俺みたいに美しい奴は高嶺の花で居続けるべきだし、俺の足を引っ張るような奴はいらない」
つまり、気安く話し掛けてくれるな。簡単に焚き付けてくれるな、という事。
部活のスカウトなどで敷居を低くされてしまったが、ユウリは誰とも親しくならない事で不確定要素を排除していたのだ。綾香の懸念はユウリにとっては見当違いの営業妨害でしかない。協力と慣れ合いは似て非なるもの。その気になれば、老若男女関係なく籠絡して利用すればいいだけ。気に入らなくとも、気分が悪くとも、いざとなれば手段を選ぶことなどできない。本当にいざという時であれば。
もっとも、そのせいでこのような事態を招いてしまったのだ。結果的に綾香の暴走を止められなかったとしても、ベンチに横たわるような状況にだけはならなかっただろう。
だから、とユウリは眉尻を下げて気まずげにしているドミニクを睨みつける。
「で、でも!」
「分からないならもう1度だけ教えてやる。それでも理解出来ないなら今度こそ叩き潰してやる。さっきだって、俺はそのつもりだったんだから」
少しハスキーな声で縋り付いて来るドミニクに、ユウリは苛立ちを隠しもせずに吐き捨てる。
「何があっても俺はアンタだけは付き合わない。この先何があっても、どれだけ金を詰まれたりしても」
勝手に惚れるなとも、勝手に思うなとも言わない。迷惑さえ掛けてくれなければどうでも良い。その程度の寛容さを持ち合わせているからこそ、ユウリは智子がつきまとってきても文句すら言わなかった。バカにはバカなりの利用価値があり、少なくとも椎葉智子は鬱陶しくともユウリに迷惑を掛けてはいない。何かとしつこい綾香とドミニクと違って。
だというのに、ドミニクだけは辛そうに顔を歪めていた。
「どうして、不知火さんばかり」
彩雅は声を掛けようとするも、他ならぬドミニクの言葉に制止させられてしまう。
あまりにも気の毒で。そんな気遣いすら拒否するように、涙ぐんだ目はまっすぐ彩雅を睨みつけていた。
「艸楽先輩には分からないんですか。こんな事を続けさせられて、不知火さんがどんな気持ちなのか。どれだけ追い詰められているのか」
確かに、そればかりは否定できない。
赤の他人でしかないドミニクの慟哭にも似た糾弾が。視界の端でビクリと肩を震わせる下の妹分の姿が。その事実をハッキリと彩雅に理解させるのだ。
勝手な信頼をユウリに押し付け、その挙句に体も心も信頼も傷つけてしまった。
狗飼美緒が居なければユウリを連れ戻す事は出来ず、後腐れを残さないための詫びは良いように利用されてしまった。
不知火ユウリは彩雅にとって最高の切り札で、唯一の弱みなのだ。社会的背景の不安定さは本人にはどうにもできず、金だけの関係程もろい物はない。ユウリと詩織の間にある種の信頼を感じていればこそ、たとえ身勝手と言われようとも手放す訳にはいかない。
そんな彩雅の考えを察してか、届かなかった想いで胸が張り裂けてしまいそうなのか。
ドミニクはジャージの強く握りしめて、色が変わるほどに噛みしめていた唇を開いた。




