七難八苦のスチューデント 2
「良い先生を持ったわね」
「そうだね。良いおばさんも来てくれたみたいだし」
近頃物騒だから、と美緒に無理矢理押し付けられた黒い防犯ブザーを手で玩びながら、煙草臭い車内でユウリは助手席のシートで窮屈そうに身をよじる。法令で決まっているのだから仕方ないと分かっていても、長らく離れていたシートベルト着用の文化がユウリには心地悪く感じられた。そもそも誰が物騒な事に巻き込もうとしていたのか、という言葉は既に呑み込んでなかった事にした。どうせどれだけ言葉を尽くしても、美緒の法令を盾にした言い分には勝てやしない。
「嫁入り前の女をなんて呼び方するのよ。まだおばさんって呼ばれたくないって言ったでしょう」
「嫁に入る前に余命を鑑みるべきなんじゃない? 美緒の衛生感って基本的にどうかしてるし」
「決めたわ。年末の大掃除、絶対ユウリにも手伝わせるから」
口をつくユウリの皮肉に、ハンドルを握る美緒の表情が僅かにゆがむ。いつもとは違う化粧と髪型のおかげで印象は違うが、美緒が微妙なお年頃である事に変わりはない。化粧品も、香水も、挙句の果てに美容室で用意される雑誌も変わってしまった。結婚適齢期にはとっくに入っており、学生時代の友達のほとんどは結婚している。新しい家族が生まれた報告を受けたのも1度や2度ではない。
やりがいのある仕事をやれているせいか、結婚を深く意識した事はない。それでも親が小言を言わなくなっていた辺りから、漠然とした危機感は感じていた。
「それにしても、随分緊張していたみたいね」
「仕方ないでしょ。3者面談なんて初めて――じゃなくて、渋谷で降ろしてって言ったはずだよね?」
「少しくらい付き合いなさいな。ピアスくらいなら買ってあげようかと思っていたし、こんな車でドライブデートできる機会なんてほとんどないんだから」
明治通りを軽快に進んで行く黒いシボレー。随所にこだわりの見られるその車は確かに世界に1台の代物であり、美緒が世界で1番信頼している右腕。
しかし残念ながら、ユウリに車の趣味はない。ルックスと性能の良い車でさえ、美緒に掛かれば汚れてしまう不条理さ程度しか思うところはない。
「まったく、大きい声でも出してやろうか」
「お、男がすることじゃないでしょ!? 大体、公務員をなめんじゃないわよ。信用ってもんが違うわ」
「いかにも男の影がないアンタと俺みたいな美少年、信じるならどっちだと思う?」
先ほどまで嫌がっていた防犯ブザーを見せつけて来るユウリに、美緒はうっと言葉を詰まらせる。男日照りは言うまでもない事実で、連れているのは血の繋がりなど一切ない東欧系。比較的整っている東洋人の女との組み合わせは、下世話な想像を駆り立てさせるだろう。美緒が警官なら間違いなく、1度は声を掛けている。
「どうして、美緒が来たの?」
方法ではなく、理由。幼稚過ぎたと反省したユウリはシートベルトを手で伸ばしながら問い掛ける。
星霜学園内に入る事が目的だとしても簡単な手段があったず。あの学園には資産家達の子供達が多くいるが、スポーツ特待生のような一般家庭の出の生徒も少なくはない。探せば生活に苦しんでいる生徒も居るはず。手間を掛けてまで、ユウリのような目立つ生徒の叔母として面談に参加する必要などなかった。
「この間の恩返しよ。ミーガンとエイミーを守れたのも、ミーガンが拷も――尋問に参加してくれたのもユウリのおかげ。髪とピアスの事をなあなあにしてあげたんだから、感謝くらいはしてほしい物だわ」
ふんと、ユウリは鼻を鳴らす。確かに美緒の説得がなければ、響子は今でも絆創膏を片手にユウリを追いかけ回していただろう。廊下を走らずに、理想的なフォームの競歩で。口が上手いだけかもしれないが、美緒と和紗にある漠然とした信頼はユウリにはない。
「でも、大学くらいはって考えているのは本心よ」
「やりたい事もないのに?」
「だったらなおさら。目的もなく社会に出て新卒って重要なアドヴァンテージを捨ててどうするつもりよ。本当のところ、この先の事は考えているの?」
「先の事を考えてたら、こんな仕事出来ないよ」
「だったら考えなさい。いつまでも艸楽のお嬢さんが守ってくれる訳じゃないんだから」
分かってるさ。そう言う代わりに、ユウリは舌打ちをしてそっぽを向く。
彩雅は何らかの目的があってユウリを守っただけ。高校さえ出てしまえば、ボディガードが未成年である必要もない。美緒の言う通り、彩雅はいずれユウリは必要しなくなる。それが良い事であっても、悪い事であっても。
「何なら、私の所に就職してもいいのよ。入るまではすごく大変なのだけど、私なら最後まで面倒見てあげられるし」
「俺は犬じゃないんだけど」
「今のあなたは明神の犬よ。裏切ってくれなんて言うつもりはないけど、きつい首輪と短い鎖よりはきっと良くしてあげられるわ」
「そんな事より、恩返しついでに聞かせてよ。渋谷で大きな動きがあったはずだよ」
痛い所を突かれ、今度はユウリが顔を顰める。綾香には負けわんこ、美緒には飼い犬扱い。番犬を気取るつもりはないが、
「恩返しに恩着せがましい事を言わないの」
「こっちは連れまで巻き込まれたんだ。情報くらいもらってもいいでしょ」
美緒は1つため息をついて、火が付いていない煙草を咥える。ユウリがパネルのシガーライターに手を伸ばそうとするが、ただの癖だ、と美緒は首を横に振って遠慮する。灰皿に縦に刺して吸殻のピラミッドを作るほどのへヴィスモーカーでも、隣に未成年が居るのに吸う気にはなれなかった。




