七難八苦のスチューデント 1
黒革の手袋に包まれた左手が左耳へと伸び、そして止まる。息が詰まると言う程ではないが、言いようのない居づらさにユウリは落ち着かない様子で膝の上で手を組む。
呼び出されたのは生徒指導室。時刻は15時過ぎ。授業はとっくに終わっており、窓の外からは部活中の生徒達の喧騒が微かに聞こえている。本来であれば、とっくに下校している時間だった。
護衛対象の3人は和紗と白井に任せており、心配する必要がない事くらいは分かっている。その事を理解していても、落ち着けない本当の理由も。
無機質なテーブルと椅子も、独特な空気感も、閉鎖的な雰囲気も慣れたもの。繰り返された生徒指導と課題の手直しで何度も呼び出されていれば、慣れもするし、飽きもする。熱心な担任とクラスメイトが居なければ、こんな場所に居る必要もなかった。
だからこそ、ユウリはずっと目を背けている。
向かいと隣に座る2人の女から。
「……それで、あなたが不知火君の?」
「はい。いつも、この子がお世話になっております」
珍しく疲れているような、少し覇気のない響子の声に傍らの女が頭を下げる。首元で1つに結われたブリュネットは垂れ、真っ白なシャツをさらって背中を伝うように揺れた。
冗談じゃない。その一言がどうしても口にできず、ユウリはため息をついた。
ゆっくりと上げられた顔は、ユウリとは似ても似つかない東洋人のもの。
だというのに、女は堂々と名乗ったのだ。
「この子の叔母の、狗飼美緒と申します。」
どうか、と微笑みかけて来る美緒とは裏腹に蘭の顔が僅かに引きつる。珍しい光景ではあるが、今のユウリにそれを茶化す余裕はない。
灰色のシフォンカーディガンに白いブラウス。灰色のボトムだけはいつもと同じように見えるが、ナチュラルな化粧や流された髪が美緒を品良く飾り立てている。
なぜ顔みしりの捜査官がここに居て、自分の叔母を自称しているのか。ユウリには何も分からないまま、ただその場の流れに身を任せていた。
「以前当校にいらっしゃった代理人の方とのご関係は?」
「おそらく、その方は父方の縁者なのでしょう。私は母方の方の親戚でして、残念ながら面識の方は」
美緒はわざとらしく困ったように頬に手を当てて言い張る。
繰り返すが、ユウリは東欧系の顔立ちで美緒は東洋系。
しかし、転校時に提出された書類を信じるのであれば、ユウリの両親は亡くなっている。容姿から血の繋がりを感じはしないが、叔母が面談に来るのは自然な流れだ。そうでなければ、後見人の代理人を校内に入れる事もなかった。
何より、学園が認めるのであれば、一介の教師でしかない響子には何も出来ない。不知火ユウリの身辺がごたついていようと、周りの大人達が不知火ユウリをどう利用しようと。
「……分かりました。それでは、成績の方から」
「何か、問題が?」
「ええ。苦手な数学は徐々に理解できているようなのですが、他の教科はあまり」
「文系はそんなにひどい事になってると?」
「英語の理解力だけは、ネイティヴ並だと担当教師が太鼓判を押していたのですが。その、会話文にスラングを混ぜるのをやめない限り、進学は難しいかと」
「ユウリ?」
「だってさ、あんな会話が地球上に存在するはずがないじゃん」
どこかあきれたような美緒にユウリは大げさに肩を竦める。クイーンズイングリッシュに似て非なるだけならまだいい。机のそばに立っている男性は私達の先生です、という一生使いそうにない文章はユウリには受け入れがたかったのだ。
「勉強と日常会話は違うのよ。難しい数式だって将来使う人は稀だけれど、その稀な才人になったり、そう言った人を見つけるために学ぶの。きちんと意味を理解しなさいな」
「わ、わかったよ」
返す言葉もない美緒の正論にユウリはがっくりと肩を落とす。課題を仕上げたのは響子につきまとわれないためで、勉強にいまいち真面目になれないのは必要ないだろうという甘えのせい。響子はユウリをきちんと卒業させるつもりでいるが、ユウリは進級でも出来れば十分だと思っていた。たとえ卒業が出来なかったとしても、ボディガードを続ける事は出来る。明神敬一郎に近づく方法を得ただけでも、ユウリには僥倖だったのだ。
だが、ユウリを卒業させたいと思っているのは、響子だけではないらしい。
「先生、出来れば大学まではきちんと出させてあげたいのですが」
「どこでも良いと仰られるのでしたら簡単ですが」
響子はそう言ってバインダーから1枚のグラフ用紙を取り出し、レーダーチャートに赤ペンで几帳面に線を引いて行く。
「例えばですが、もし星霜学園の大学部へ進むのであれば、これまで以上の努力を強いる事になります。率直に申し上げさせていただきますが、生活態度の事もあってこのままでは他校への推薦を出す事も難しく、奨学金の審査を通ろうとするのならなおさらです」
印刷された黒い線が現状の成績。赤い線が進学に必要な最低ライン。響子はそう説明をしてペンの頭で2本の線をなぞる。2本の線の距離は遠く、努力を強いるという言葉は現実味を帯びていた。
「しかし、本人にやる気があるのでしたら、その限りではありません。 全教科の課題をしっかり提出できたので、赤点を克服さえできれば進級自体は出来るはずです。不知火君が望むのであれば、補講もやぶさかではありませんので」
どういうつもりで人様の進路を決めようとしているのか。
何も言えないまま、ユウリは顔を俯かせる。美緒はともかく、響子は心からユウリの将来の事を考えてくれているのだろう。これまでの指導の事を省みるのなら、蘭響子という女は教育という点に置いて妥協はしない。その事をユウリは誰よりも理解しているつもりだった。
「次に、生活態度のお話を」
「……もしかして、誰かとケンカしたりとか?」
「ピアスと頭髪の事です。一応規則では禁止となっています」
気まずげに頬を強張らせる美緒に響子は首を横に振る。ユウリは過去に庭園で乱闘騒ぎを起こしているが、明神の手腕でもみ消されており、響子はその事を知らない。知られていたなら、ユウリはもうここには居られなかった。
2人の視線がふてくされたようにふんぞり返るユウリへと向けられる。ツートンの髪はブロンドと黒、星形のピアスは左耳でキラキラと輝いている。それらは制服があるような学校で許容されるはずも宗教的な意味もなく、ユウリ自身も信心深そうには見えない。教育熱心な担任教師が問題視するのは当然だった。
「大変あつかましいお願いをしてしまうのですが、もう少しだけ時間をいただく事はできませんか?」
「時間、ですか?」
「はい。実は金髪の方が地毛で、染髪もこの子なりに気を遣っていただけなんです」
そう言って、美緒はユウリのツートンの髪を指先で梳き、ユウリにくすぐったそうに目を細める。確かに根元の色はブロンド。毛先の黒と比べれば、どちらが自然かは言うまでもない。
「叔母の欲目と思われるでしょうが、最近では自分でも思うところがあるみたいなんです。染髪をやめてピアスを減らした事が、自分で考えた事なら最後まで考えさせてあげたいんです。道を逸れた際には私が責任を持って指導しますので、どうか」
ユウリの後頭部を掴んで一緒に頭を下げさせる美緒に、響子は困ったように顎に手を添える。以前も言っていたように、ブロンドが地毛なら何の問題もない。しかるべき検査を行い、自然な物であると証明するだけ。ヘアカラーやブリーチを強要する訳にもいかず、髪に関しては現状維持以上の事が出来ないのは事実だ。
漠然と、このやり取りは続きそうな気もするが。
「教師として、注意は続けます。少なくとも、ピアスは校内で外す事も出来るのですから」
「ありがとうございます」
仕方ない、と響子は吐息を漏らす。金で問題をもみ消そうとする保護者と戦うのは訳ないが、狗飼美緒という女と戦うべきではない。これまでの経験が響子にそう訴えているのだ
「良い叔母を持ちましたね」
「……そうみたいですね」
皮肉めいた言葉にうなだれるように応答が、2人には何よりの賛同に聞こえた。




