03 葉月匠 著 角 『兎にも角にも』
挿絵/深海様より御拝領
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冬の二月、夏の八月。それは客足が落ちる時期だ。
不変の法則なのだろう、閑古鳥のさえずりでもいっそ聞こえたら気も楽になるだろうか。自嘲気味にガランとした店内を見渡す。
「はぁ……今夜もオケラや」
鉄板焼き屋【おたふく】。この店の主である哲也は独り言ちる。
見渡すと言ってもそんな広い店内でもない。下町の小さな鉄板焼き屋である。中小企業というよりも倉庫が工場であるような小さな会社が軒を連ねる製造業者が多い町で祖父がこの場所で店を開いた。仕事帰りの職人たち相手に安くて旨いものを思う店主の気持ちは伝わり賑わいの途絶えない店になった。祖父と祖母、そして父へと受け継がれたこの店を自分も継ぐのだと思ってはいたがまだ先の話だと安心していた。
中学に上がる頃、母が家を出て行った。派手好みだった母にはこの暮らしは気に入らなかったようだ。物心ついた頃には喧嘩の絶えない夫婦だったからこの事態にさほど驚きはなかった。
「私についてくるかあの人のとこ残んのか、あんたが決め。私はどっちでもええさかい」そう真っ赤な唇から吐き出された言葉に、「俺はここが好きやから母ちゃんとは一緒にいかん」そう哲也は答えた。
そして男所帯となって以来、賄いは哲也が作った。料理を作る事は好きだった。父は店を切り盛りするのに忙しく料理の手ほどきをしてくれはしなかったが料理本を先生にいろいろな物を作ってきた。
そんな息子の姿を見て父は料理学校へ行けと薦めてくれた。こんな小さな鉄板焼き屋ではなくもっと広い世界を見て来いと言ってくれた。
高い入学金と授業料に戸惑いを見せた息子に、「心配すな、それくらいの蓄えはあるわ」と父は引き出しの奥から通帳と印鑑を引っ張り出し息子に渡した。父の想いが嬉しかった。有難いと心底思った。進路に迷う息子の為に背中を押してくれた父の想いに応えようと高校卒業して料理学校に通った。無事卒業し就職先もよい場所に恵まれた。リゾートホテルの洋食部門、キツイ職場だったが学ぶことも多い。人間関係に悩まされることもなく忙しい充実した日々を過ごし、気付けば七年が経っていた。
職場内でも責任ある立場になった桜咲く頃、父の訃報が届いた。
仕込みの途中、厨房で倒れ馴染み客が店が開いてないのを不審に思い覗いてくれた時にはもう遅かった。脳卒中だった。発見が早ければ助かったという。父はまだ六十だった。
呆気なかった。間に合わなかった。駆けつけた時にはもう白装束をまとい眠るように横たわっていた。
「なんでや、なんで俺は父ちゃんの傍で出来る仕事選ばんかったんや」
悔いても悔いてもキリがない。哲也は打ちひしがれ泣きに泣いた。
通夜も葬式も父の仲間や常連客に助けてもらい無事に終えようやく一人になった時、哲也は薄暗い店の中にいた。長年使い込まれた店の中は火を通していなくても油の匂いが染みついている。子供の頃から馴染んだ場所、ここに来れば父がそこに立っていた場所。厨房の中に入り冷え切った鉄板に触れる。嫌だ、と思った。冷たい鉄板なんか嫌だ。
ガスの元栓を捻り火を点ける。鉄板を温める間に生地を作る。粉を溶き出汁を加えキャベツを刻む。冷蔵庫にあった豚肉を取り出す。
鉄板はいい具合に温まっていた。生地に具材を練り込み卵を落とし鉄板に流し込む。しばらくすると香ばしい匂いが漂い始めた。
片面の焼き具合を確かめ厚切りの豚肉を乗せてからひっくり返す。
親しんだ匂いだ。じゅうじゅうと焼ける音とこの匂い。ワクワクする心でこんがり焼きあがった豚玉をいつも待ったものだ。
薄暗い店の中で豚玉が焼けた。
コテで切り分け熱々のを口に運ぶ。
「ちゃう、こんなん父ちゃんの味やない……」
慟哭ではなく静かに、哲也は泣いた。
もう一度父のお好み焼きが只食べたかった。
鉄板焼き屋【おたふく】二代目が逝去して二ヶ月が経ち戸口に貼られた休業を知らせる紙切れが風に煽られ侘しさを醸す頃、哲也は再び戻ってきた。三代目を継ぐために、この店を続けるために仕事を辞めて戻ってきた。
父の味に及ぶ訳もないのだけれど。
まだまだ足りない事だらけだけれど。
冷めきった鉄板を嫌だと思ったあの日。
父の作ったお好み焼きをもう一度食べたいと願ったあの日。
この店を続けよう、哲也はそう決めた。
「最近出荷かんばしぃないって工場の人ら言うとったし今日もめっちゃ寒いし外、出よう思わんやろ。哲ちゃんあんま気にしなや」
閑古鳥のさえずる店に今夜も常連客が一人座っている。
自宅の隣に住んでいる幼馴染の由芽だ。
生ビールのジョッキを片手に豚玉を食べている。
二十二歳保育士の由芽は哲也が店を再開して以来ほぼ毎晩店でビールを飲んでいる。この寒空、と言うならば何故に由芽は寒さに負けずここで飲んでるんだ?と説得力の無い言葉に溜息をつきたくなる哲也だった。
店を再開し三代目を継ぐと知り、古くからの常連客は変わらず店を愛してくれたが言わずとも聞かずともわかる。父の味に追いつけない哲也の技量。洋食で腕を磨いた哲也だったがこの場所では通用しなかった。
もどかしさと焦りを感じながらも無我夢中で半年は過ぎた。勿論離れていく客もいたがそれでも何とか続けてきたが……
初めて迎える二月の洗礼。
ずっと燻り続け誤魔化し続けた気持ちがぽっかり浮き上がる。
「なぁ、由芽。俺まだまだ足りてへんのやろなぁ……」
五歳も下の幼馴染につい弱音を漏らしてしまった。
由芽は何も言わずじっと哲也を見ている。
(しょうもない事言うてしもた……お客に愚痴ってどないすんねん)
気恥ずかしさに猛烈に襲われ由芽に背を向けかけた時。
「兎にツノって書いて兎に角って読むやろ? 兎にツノなんかあらへんのになんでそんな言葉生まれたんやろうなぁ」
のんびりした声で由芽は言った。
唐突な言葉に哲也は戸惑う。
「兎にも角にも」
由芽は残りのビールを一気に煽った。
「おっちゃんは喜んでると思うで?哲ちゃんが戻ってくれて。やりたい事辞めさせてしもてすまんなぁ、って頭掻いとるかもしれんけどそんでも店続けてくれてアリガトウって草葉の陰で思てる気ぃするよ」
只々染みた。
心に染みた。
「そやな、兎にも角にもやな」
そう呟いた哲也ににかっと笑い由芽はもう一杯生ビールを所望した。
兎にも角にも始まったばかりなのだ。
これからまだまだ続いていくのだ。
それでいい。
それだけでいいんだと哲也は思った。
了