02 柳橋美湖 著 針 『北ノ町の物語』
【あらすじ】
東京にある会社のOL・鈴木クロエは、奔放な母親を亡くして天涯孤独になろうとしていた。ところが、母親の遺言を読んでみると、実はお爺様がいることを知る。思い切って、手紙を書くと、お爺様の顧問弁護士・瀬名さんが訪ねてきた。そしてゴールデンウィークに、その人が住んでいる北ノ町にある瀟洒な洋館を訪ねたのだった。
お爺様の住む北ノ町。夜行列車でゆくその町はちょっと不思議な世界で、行くたびに催される一風変わったイベントがクロエを戸惑わせる。
最初は怖い感じだったのだけれども実は孫娘デレの素敵なお爺様。そして年上の魅力をもった瀬名さんと、イケメンでピアノの上手な小さなIT会社を経営する従兄・浩さんの二人から好意を寄せられ心揺れる乙女なクロエ……。そんなオムニバス・シリーズ。
挿絵/深海様より御拝領
.
21 針
.
白い天井。
たぶんそれは湖に覆いかぶさった厚い氷。
毬藻がところどころで漂っている紺碧の水がゆらゆらとゆれて、ワカサギが、天井にぽっかりあいた釣り坑にむかっていっては釣り上げられてゆくのがみえました。……それを尻目に、小判形、コバルトブルーをした、体長十センチほどの魚が、せっせと湖底で動き回っていました。餌となるのは布藻草で、生育の邪魔をする他の藻草を除草してゆくので、結果として畑ができあがります。青い魚は布藻草のサラダを主食にしていたというわけです。
ところが。
たまたま釣り師が捨てていった針と糸が背に引っかかってからみつき、泳ぐのに難儀している様子。このままだと、除草作業に支障がでそう。……夜行列車が目的地に着く少し前、三等席に座って眠っていた私は、そんな夢をみて目を覚ましました。
.
ご機嫌いかが、鈴木クロエです。
立春となった北ノ町ですが、そう簡単には恵ノ姫神を返さぬぞとばかりに、名残の大雪を降らせ、夜行列車の到着を遅らせたのでした。二月の連休にあわせ、お爺様のいる丘の上にある旧牧師館にむかいました。明け方、湖にいた白鳥は数羽から十羽の群れをなして、湖から田地に生えた草を食べにやってきます。
駅まで迎えにきてくれたのは従兄・浩さんの自家用車は四輪駆動のランドクルーザーで、いかにも雪道を走るのに適した感じです。
私も浩さんもトレンチコート姿。
ハンドルを握るピアニストを副業にしている浩さんの指は長くて綺麗。
「髪切ったんだね?」
「いや、そんなことはない。似合っている」
「ありがとう」
浩さんは女の子のちょっとした変化に気づく。そいうところは如才ないと思います。長身なわりに細身であるその人がいいます。・
「この休みじゃ、お爺様、みんなで上ノ湖にゆこうっていたぞ」
「上ノ湖?」
「昔、火山が噴火して、火山灰の土石流でできた湖が二つある。それが上ノ湖と下ノ湖だ。――標高が高くて面積が狭い上ノ湖は全面凍結するんでワカサギの釣り場になっている。下の湖は面積が大きいから真ん中あたりが凍結しない」
「そこに白鳥が棲んでいるんですね?」
「そういうことだ」
地方財閥一門であるお爺様はガレージに、用途に合わせた自家用車を三台所用しており、冬場は浩さんがつかうのと同じランドクルーザーをつかいます。お爺様は私を誘って、連休のうちの一日をつかって上ノ湖にでかけることになりました。同行したのはいつもの、従兄の浩さん、それから、お爺様の顧問弁護士・瀬名さんです。
洋上を通る寒気が荒削りの山々に激しくぶつかり、湿った空気が跳ね返されて雪になる。樹氷に沿った細い国道は、下ノ湖の湖畔に沿ってあり、さらにそこから連続クランクになった峠の坂道を登って行きます。
お爺様が運転席に、助手席に私。後ろに瀬名さんと浩さんが座っていました。その瀬名さんが思い出したように、湖の謎をきかせてくれました。
「昔、このあたりには北ノ国鎮守府というのがあった。平安時代の文献にもでてくるんで、県の教育委員会が長らく発掘調査をして捜していたんだけれども、まだみつかっていない。伝説だと、冬神山の火山爆発で、上ノ湖と下ノ湖ができたとき、そこの湖底に沈んだというのがある」
「それ、ほんと?」
「真相は判っていない。しかし網を投げると、壺や皿なんかが引き上げることが多いし、夏場にダイバーが潜ると、鳥居があったりして、少なくとも集落があったことは確からしい」
「そういえば、浩くん、大学の友達が考古学をやっていて、でてきた壺とか皿とか鑑定したことがあったよな」
「ええ。そいつの話だと、一番新しい土器が平安時代の終わりごろっていっていました。冬神山爆発と同じころになりますね」
お爺様は、その会話に割りこんだりせず、じっときいているだけでした。
目的の上ノ湖につきました。
ホテル・ペンション・土産物屋さんが並んだ小さな町があり、お爺様が馴染にしているペンション駐車場に車を停めさせて頂いて、道具をソリに載せて、私たち四人は湖にでかけました。
その日はいいお天気で、真上に視線をやると、青空に白い雲がいく筋か、はるか遠くにある冬神山のむこうまで流れて行き、少し視線を下にやると、白銀で覆われた擂鉢形になった上ノ湖と湖畔の町を眺望することになります。
瀬名さんと浩さんが、お爺様を手伝いドリルで、湖上の分厚い氷に数か所、孔をあけ、そこに私たちは釣り糸を垂らしました。ワカサギ釣りでは竿を用いず、釣り針が沢山ついた糸を水中に降ろして行きます。だから釣り上げるとき、まとまって何匹も掛かることもあり、実際、近くでテントを張っていた先客・地元の方は、そうやって釣り上げ、ビクに放り込んでいました。
一時間が経ち。
二時間が経ち。
三時間が経ちました。
お昼時になったころ。
「今日は釣れないみたいだ。こういうときもある。さっきのペンションで昼食を準備してくれているはずだ。食事をしよう。それから近くの温泉に寄って帰るとしようか」
そう、お爺様が切りだしたときのことです。
急に私の釣り糸に何かが引っ掛かりました。ワカサギにしては引きが強い感じです。私だけでは無理で、獲物が疲れるのを待つために、瀬名さんと浩さんにも手伝ってもらうことになりました。
吊り上った魚が、氷上で跳ね回っています。
青い魚で、私が北ノ町へくるとき夜行列車でみた夢に登場したものとそっくり。口をパクパクやっているところが、喋っているようにもみえました。
お爺様はしばらく魚の口を眺めると、釣り道具のハサミを取りだして、青い魚に巻き付いた釣り糸と釣り針を切ってやりました。
「この魚は草食で、ワカサギが食いつくような餌には見向きもせん。たまたまかかったのは、身体にまきついている糸に偶然、クロエの針が引っかかったからじゃ。――運がいい。いや、クロエがくるのを待っていたようにも思える」
浩さんが口を挟むように、「なんなのです、その魚?」とお爺様にきいてきました。
瀬名さんも興味津々という感じ。
「湖の守り神・河伯だ」
お爺様が青い魚の正体を私たちに説明し、絡まったものを外し、湖上の氷坑から戻してやりました。その際も魚は口をパクパク動かしていましあ。
パシャンと水柱が上がって、瞬く間に、水中に潜ってゆく魚をみた、浩さんと瀬名さんが呆れ顔で、
「東京くんだりからやってきたクロエが、せっかく釣ったというのに……」
といって互いに顔を見合わせています。
「河伯は、もっといいものをくれるのだそうだ」とお爺様。
なにやら昔話みたいな。
お爺様は青い魚を戻した坑にもう一度、釣り針を垂らしました。
「河伯のお礼は金銀財宝か」と浩さん。
「それとも聖剣か」と瀬名さん。
けれど、けっきょく、お爺様が釣り上げたのはお箸くらいの長さの黒ずんだ小枝でした。……きっと魔法の杖だわ。そういうことにしておきましょう。命名〝河伯の杖〟――お爺様を介して手渡された青い魚からの贈り物は北ノ町の素敵なお土産になったことですしネ。
By Kuroe
【シリーズ主要登場人物】
●鈴木クロエ/東京在住・土木会社の事務員でアパート暮らしをしている。
●鈴木三郎/お爺様。地方財閥一門で高名な彫刻家。北ノ町にある洋館で暮らしている。
●鈴木浩/クロエの従兄。洋館近くに住んでいる。
●瀬名玲雄/鈴木家顧問弁護士。
●小母様/お爺様のお屋敷の近くに住む主婦で、ときどき家政婦アルバイトにくる。
●鈴木ミドリ/クロエの母で故人。奔放な女性で生前は数々の浮名をあげていたようだ。
●寺崎明/クロエの父。母との離婚後行方不明だったが、実は公安委員会のエージェント。