01 奄美剣星 著 角 『エルフ先生の診療所』
挿絵/深海様より御拝領
朝起きて歯を磨こうと鏡の前に立ったら、痩せっぽちな僕が流し髪にしている頭に、角が生えていることに気づいた。角といってもいろいろある。鹿でもキリンでもサイでもない、牛や羊だと悪魔的でちょっとカッコいい。――などと減らず口を叩いている場合じゃない。夢か幻か。夢ならこういう場合、頬をつねってみるといいというのだが、実際は痛くもないのに、つねれば痛いと認識するので無意味だということを僕は知っている。……それでその日は職場の上司に電話を入れ、タオルを巻きその上にニット帽を被って病院にいった次第だ。
渓谷の谷底にある無人駅からタクシーで十五分、山裾絶壁を少し削った平場に建てられた、県立病院でもなく市民病院・警察病院でもなくましてや大学病院でもない、かといって町医者でもないところの、平屋のくせにベランダをすっぽりと覆うようなオレンジ屋根の診療所だった。
「ねっとりしている感じはなんとなくカタツムリの触覚に似ていますが……」
「――思い当たることは?」
診療所とはいってもけっこう大きく患者二十人分のベッドがある。そこで看護師五人を仕切っているのが女医さんだ。すらりとのびた手足に切れ長の目。僕は勝手にエルフと呼んでいる。
そういえば……。
置くだけでも置いてくださいよと旅の置き薬屋が薬箱を家に残して行った。箱の中には、風邪薬、頭痛薬、傷薬、……といろいろあった。客は目減りした薬の分だけ料金を支払い、薬屋は補充する。――薬屋は、ネクタイにスーツ姿の男で、年齢は四十か五十、小柄で、浅黒く、スキンヘッド。どうみたってファンタジー映画にでてくるゴブリンだ。
土地区画整備事業といって、農家の入り組んだ土地をまっすぐな土地に線引きし直すのが僕の仕事で、その際、各農家からいろいろと不満がでて、ストレスが溜まる。先輩方のなかには胃袋内壁に穴が開いて入院した人もいるくらいだ。かくいう僕も胃の調子が悪くて数日前、薬箱の壜の蓋を開け錠剤を飲んだ。その結果、嘘みたいに胃の調子は良くなったのだけれども……。
「それが問題の薬ね?」
壜を渡すと、エルフ先生はしげしげと眺めた。
茶色の壜には、幾何学模様のようなものが描いてあった。
「これは神聖文字、森の妖精製薬のものね。……というか、薬売りはなんでこんなものを薬箱にいれたんだろう。確かに万能薬だけれど、家一軒が建つくらいの額になる大損じゃない、とんでもないハプニングだわ」
「先生、その薬なんなんですか?」
「北の氏族王室が特注した延命薬、いわゆる〝仙丹〟……寿命を百年伸ばす引き換えに、カタツムリみたいな角が生えてしまうという副作用がある。――どう、二百年くらい生きてみない?」
「えっ? カタツムリみたいな角を生やして二百年生きるんですか? 冗談じゃない、カッコ悪い。せっかく縁談がまとまりかけているのに破談です」
「そう、じゃあ、七、八十年でいいのね。……まあっ、なんて謙虚な人なのですこと」
笑みを浮かべた先生のまつげは長い。指が細くてこれまた長い。
僕は子供のときから彼女の診察にかかっているのだが、まったく変わっていない。……というか母が僕を出産したときもエルフ先生のお世話になったのだそうだ。――この人は少なくとも診療所に三十年は勤務しているはずだ。それだというのに、二十代半ばの若さを保ったままなのだ。独身だということだが、年齢について町の人がとやかく噂するのはタブーになっていた。
古い置時計がボンボン鳴った。
白い内装の天井と壁、板床。壁際にノートパソコンが置かれた事務机、横に人体模型、後ろに診察用ベッドが置かれている。僕はベッドにうつ伏せになり、脊椎に注射された。骨に刺すわけだから針はけっこう太く丈夫なもので、当然のごとく激痛が走る。
「この注射って解毒剤みたいなものですか?」
「そんなところね。――しかし残念だわ。カタツムリの角って、可愛らしくって、私好みだったのに」
えっ? いまなんと?
先生は愛おしそうに僕の頭に生えた角を撫でると、口づけした。それから手鏡を僕にむけた。――そこに映った角はみるみる萎えだしてきたではないか。
「明日きてみて。……そうね、頭を洗うのは明後日からよ」
先生は立ち上がった。膝丈スカートの内で軽く組んだ脚に黒の網タイツをはいているのをのぞかせていた。羽織った白衣の上から垂らしたロングヘアがふわりと宙に舞った。香水はシャネル、柑橘に似た香りがする。
翌日、診療所にきて、包帯をとってもらうと、綺麗さっぱり角は消えていた。
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半年後、僕は交際していたカノジョと森の小さな教会で結婚式を挙げた。牧師を前に指輪を交換するときに、ふと思った。――もし、カタツムリの頭のままだったら、目の前にいる花嫁はカノジョではなく、参列者席の中ほどにいるエルフ先生だったのではないのだろうかと。……いや、戯言だ。ゼロ・コンマ何秒かのマリッジ・ブルーってやつさ。
カノジョのカンは鋭く、すぐさま僕の顔を覗き込んだ。
誤魔化す。
「結婚式はいつ? きょうかい?」
「なにいってんの、バカ」
「あがってるんだ」
「どうだか」
薬指に指輪をはめてやったウェディングドレスのカノジョがいったとき、頭に角が生えたようにみえた。――五十年くらいは尻に敷かれそうな気がする。
了
「ドワーフ親爺の自転車屋」に続く主人公〝僕〟のロー・ファンタジー。