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自作小説倶楽部 第12冊/2016年上半期(第67-72集)  作者: 自作小説倶楽部
第70集(2016年4月)/「桜」&「切符」
18/35

03 葉月匠 著  桜 『宵待ち桜』

挿絵(By みてみん)

挿絵/深海様より御拝領


 夜風に乗って賑やかな声が聞こえてくる。満開の桜を求めて集まる人で今宵の川縁は盛況のようだ。普段なら荷を積んだ船で行きかうこの川も桜見客を乗せ提灯を水面に映し客舟が優雅に浮かんでいる。

 多くの桜植わる川辺から少し離れてこの桜は立っていた。賑わう桜の木々から離れ何故この桜だけ一本、こんな場所に植えられたのか。川面に触れんばかりに枝を伸ばす枝垂桜。美しく凛と咲き誇っているというのにこの木の袂で夜桜を楽しむ者はいない。

 ふわり、と夜風に桜の花びらが舞う。

 満月に照らされてふわりふわりと桜の花びらは水面に落ちた。

 月夜に誘われ浮かんだ小舟のように桜の花びらはゆっくりと川を下っていく。

 人々は何時の頃からかこの桜を《宵待ち桜》と呼んでいた。

.

 やっと、やっとここに来れた。

 どうしてもアンタに逢いたかったんだ。

.

 はぁはぁ……。

 アタシの命もここまでかねぇ。少し走っただけなのに壊れちまった体が悲鳴を上げてるよ。昔は元気が取り柄だったけどすっかり軟になっちまったもんだ。長いこと夜の暮らし続けていたら色もこんなに抜けちまって。子供の頃は真っ黒だった肌も今じゃ透き通るみたいな肌の色になってるよ。そうだよねぇ、日も差さない置屋暮らし。お天道様を拝める様な身の上じゃない者の定めだ。貪百姓の家に生まれた女の辿る定め、お決まりのなれの果てさ。

 だけど、アタシが行かなきゃ弟や妹たちが生きれない。食う物もままならないのに子だけは生れる。きっと下の妹もどこかで同じような暮らしをしているのだろう。いつまで経っても貪百姓は貪百姓。抜け出せるわけもない、そしてまた誰かが売られて行くんだ。まったく女は悲しいよ。

 それでもアタシが家を出た一時だけはきっと白いおまんま食べれただろう。いつもひもじい思いをしてた弟たちもちっとは腹が満たされただろう。それでいいさ。それだけでいい。

 そう思って生きてきた、人買いに手を引かれこの堀に囲まれた門の中に連れてこられたあの日から。

 家を出る時おっかぁが何度も何度も頭を下げて手を合わせて見送ってくれたあの日から、この場所で生きる事が私の定め。年季が明けるまでは気の遠くなる月日がいるだろうし、化粧して灯りに照らされ品定めされて情も交わさずお客さんと寝るだけ。

 それでも生きていける事がどれだけ有難いことかアタシは知ってるから。ちゃんとおまんまを頂ける幸せ。貧しさは人を死なす、それを何度何度も見てきたからね。

 アタシがここでお勤めすることで誰かの命が助かっているのなら、そう思って働いてきた。厳しい仕込みも耐えられた。幸い器量は良かったようだから同じ暮らしをする他の皆よりもアタシは運が良かった方。馴染のお客もついてくれたし、女将さんもアタシにはよくしてくれた。こんな体になるまでは。薄暗い部屋に閉じ込められて厄介者扱いになって。迷惑かけるだけになちまった。

 アタシはどうしてこの場所に来たかったのだろう。まともに息もできないってのに、ここまで来てしまったよ。途中何度か咳き込んでせっかくの晴れ着も血で汚れちまった。綺麗な恰好のままで此処に来たかったんだけどね……。昔見たこの桜が見たくて……アタシは店を抜け出した。

 アタシらみたいなもんが大ぴらに桜見なんか出来やしないけど門の中で大火事が起こって焼け出され仮住まいをしていた頃に見たアンタが忘れられなかったんだ……。どうしても最期に逢いたかった。川の外れにただ一本立っていた桜の木。賑わう桜の木々たちと交わることも無く凛と立つ姿。あの時の感じたことをなんと言えばいいのかアタシには分からない。ただただ涙が溢れて、あまりにも美しい桜の花に見惚れていたんだ。やっぱりアンタはあの時のままだ、本当に綺麗だよ。

 死ぬ前にもう一度艶やかに咲くこの木が見たかった。アタシのこのちっぽけな命が尽きる前に桜を見たかった。もう誰の役にも立たないこの体が煙になってしまう前に……。

 はぁ、息が苦しくなってきた。

 少しアンタに寄りかかってもいいかい? ふふ、懐かしい匂いがするよ。木肌の香りはいい匂いだ。生まれた里でもよく嗅いだ匂い、気持ちいいねぇ。そう言えば。寝物語に聞いた事があったのだけど……桜は人の魂を取り込むんだと。だからあんなにも美しく咲くんだぞ、そう聞いたことがあるよ。本当なのかい? ……でもこうして桜を見上げていると分かる気もする。あんたは儚げにも淡く消えそうに見えるけど凛として強かで美しいよ。何度季節を巡っても変わらずに咲くもんね。

 もし、もしそうなら……。

 人の魂を取り込んでより美しく咲くというのなら。アタシの命、アンタにあげる。尽きかけた命だけど、それでアンタがまた綺麗に咲くのならアタシの命をあげるよ。惚れた男の一人もいない寂しい人生だったけど。それでも毎年咲くこの桜と一緒になるのなら悪くない。アタシの一生も捨てたもんじゃない気がするんだ。だからお願いだよ。一緒にいさせておくれ? どこかでこの桜を綺麗だと見てくれる人がいるのなら。一緒に逝きたい。

「どうか……お願い……だよ……」

 月明かりが桜を照らす。

 何処から吹いたか柔らかな風が木々をそっと撫でる。

 ふわりふわりと舞う桜の花が眠りについた女を抱きしめた。

.

 老木と呼ばれる齢のこの木が枯れることなく今年もまた鮮やかな花を咲かせた。根元に置かれた小さな祠には手向けられる花が欠くことはない。人々は遠くからこの桜を愛でる。月夜の晩に桜と舞う遊女を見たという者もいたがそれでも人々はこの桜を大切にしている。

 咲き誇る桜の花が夜風に揺らぐ。

 水面に映る月に向かい花びらの舟が流れていた。

 遊女の楽しげな笑い声が舟を追うように消えていった。

     了

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