終わりの始まり‐1‐
風が頬を撫でる。
心地よいと思える風だ。だが、同時に冷たさをも持ち合わせている風は季節の変わり目を知らせてくれる。冬の訪れを感じさせる冷たさではなく、冬の冷気を持ち合わせながらも確かな暖かみを持った、春の風。
目覚めをもたらす一風に従い、充は重い眼を開いた。太陽の光を取り込む眼は眩むも数度瞬きを繰り返すまでの事。そうして、間の前に広がる高く、蒼い空を彼は見上げていた。
――広い、な。
ふと、脳裏に思い返されるのは誰かの言葉だ。
世界は広く、空も広い。その広大に包まれれば人間なんてちっぽけで、悩みも些細なことに思える。だから悩んだり、苦しんだりしたら空を見ろ。
ここまで難しくはなかったような気もしるが、こんな感じの趣旨だっただろうか。なるほど。確かにこの広く、蒼い空を見上げれば人間など小さなものだろう。人間が抱く悩みすらも包み込むだけの広さを、眼前に広がる空は持っている。
ただ、
「……コンクリートジャングルの街中じゃ、こんな空は見れないな」
あるいは、ビルの屋上からなら見えるかも知れない。
だが、そこから見える空はここまで美しくは見えないだろう。淀んだ空気は人の見える世界すら淀ませてしまう。それが悪いとは思わないが、こんな美しさを前にすれば惜しむ気持ちが湧き上がるのも事実だった。
ゆっくりと背を起こす。身体の節々に痛みはない。右手を手元にたぐり寄せ、開き、閉じ、また開く。思う通りに動くことを見て、次ぎは身体を捻る。
そうして身体に異常がない事を確認し、改めて充は周囲を見回した。
そこは見晴らしの良い草原だ。歩くのに邪魔にならない程度の草が生い茂り、腰を受け止めてクッション代わりになっている。右に視線をやるとそれなりに離れた場所だろうか。木々の包まれた森が見えた。遠目に見ているだけではその森がどれだけ大きい木々でなりたっているのかは解らない。ただ、漠然として広く、深いとだけは理解できた。
正面に広がるのは地平線だ。
先には何もない。ただただ、生い茂る草と大地が続いている。
左に目をやれば、そこには道が見えた。とは云っても整備された路上ではない。草を刈り、土を踏みしめただけの道だ。歩くのにも苦労しそうな舗装もないもない道を見て、そうして充は吐息を漏らす。
「……夢、じゃないよなぁ」
そうして彼は身を大地に投げ出した。両手を広げ、大の字になって仰向けになって寝転がる。肌に受ける風も、時々肌に擦れる草の感触も本物だ。
――脳が見せてる幻覚、とか?
思い返すのは鮮明に焼き付いた二つの光景だ。
一つは己が死んだその時。車に引かれる瞬間、時間が緩やかに進んだその時。
もう一つは、神を名乗る老人との対話。幽霊になるか、話し相手になるか、異世界に行くか、三択を問われた時の記憶。
どちらも明確に思い出せる。そう、充は脳の構造に詳しいわけではない。第一、現代医学において解明されていない脳が死に際に何を起こそうとおかしくはないのだ。実は商物状態にあって全ては脳が見せておいる幻覚と云う事もある。
光の世界では確かに己の死を受け入れ、認めた。それは広がる光景が余りにも非日常的で幻想的だったからこそだ。
だが、こうも現実味を与えられては、期待してしまう。どれだけ現実に執着がないと云っても。
「あの世界で生きている、って。思いたいんだよな」
面倒なことだ。もう一度、吐息を漏らす。深々として吐き出す溜息を。
それでも、認めなくてはならない。何せ、誂えたように着込んでいる服が問題だ。くたびれた濃紺のスーツではない。色は同じだが、今、羽織っているのは全身をすっぽりと覆い隠せるほどのマントだ。その下には皮製だろうか。伸び、しなり、それでいて身体に安心感を持たせるほどに頑強な鎧を着込んでいる。足元には悪路を物ともしないであろう底が深いブーツを履き、両腕には鎧と同じ素材であろう籠手をはめていた。
このような時代錯誤の服を持っていた記憶も、着た覚えも充にはない。何せオーダーメイドとばかりに充の身体に合うのだ。ならば理由は一つしかないだろう。
「神様が用意した、か」
「うむ、うむ。その通り。ワシが用意した。気に召したか?」
声が響いた。
訊き覚えのある、しかしその声とはどこか異なる茶目っ気を含む声だ。
急いで首を揺らし、辺りを見回すが人の影はない。目に映るのは先ほどと変わらない景色だけだ。草があり、森があり、地平線があり、街道がある。それだけだ。ならば、
――また後ろか!?
振り向く。だが、そこにも声の主はいない。四方にいないと云うのに、声は確かに響く。
「今ならまだ作り変える事も出来る。もっと、こう、神の遣いらしく神々しい方が良かったか? 天使の翼などとか輪だとか」
「……それ、気軽に世界回る事できなくなりますよね」
「それもそれか」
肯定が訊こえ、そしてようやく、気づく。声が降り注いでいることに。
蒼天を見上げれば瞳に一つの影が映り込んで来た。それは徐々に近づき、大きくなって行く。太陽を背とした逆光は姿を隠し、眼を眇めるも輪郭ははっきりしないままだ。
それでも訊こえて来るものはある。
羽音だ。
大気を叩き、翼を用いてその身を浮き上がらせんとするたくましい音色は確かに充の耳に届いていた。その音は降りて来るものが人ではない事を示していた。否、声の主が語った通りに翼を持った天の遣いであるのならば人の形はしているのだろう。だが、それにしては影は小さすぎる。
小さな身に太陽を包み込み、ようやく、その姿がはっきりと瞳に入って来た。それは、
「……白い鳥?」
「正しくは鴉、この世界で云うのならば天からの啓示とも呼ばれる」
喉を震わせて人語を介する鳩は獣の口で訊き覚えのある声を発する。それはつい先ほどまで訊いていた老人の声だ。
眼前まで来た鳥は、ほら、とばかりにホバリングしながら足を掲げて見せた。そこに在るのは右足、左足、そして、その中央にある中足だ。三本の足を持つ白鴉はそのまま胸の上に降りて来る。爪先は確かにマントに食い込み、
「痛いんですが」
「そんなに柔くは創っていない。神の特注なのでな」
その通りだ。だから充は頭の下で手を組み、言葉を続ける。それは白鴉の姿に対するもので、
「アレですか。日本神話に出て来る八咫烏みたいな?」
「そうなるな。もっとも、この世界では希少と云うだけでいないわけではない。見た者に幸をもたらす、や、幸せが訪れる。他には危険を知らせると云われているがワシはそんな権能を白鴉に与えた事はないな」
「だと云うのに黙示ですか」
「人の子とは希少性に意味や価値を持ちたがるものだ」
苦笑。
老人の姿から発せられる圧力とも重圧とも取れる雰囲気は白鴉からは受けない。だから語る言葉は気軽なものだ。
それで、と充は言葉を続ける。
「……で、貴方は神様なんですよね?」
「うむ、うむ。ワシは確かに神だ。この世界を含むいくつかの世界を管理する神」
そして、
「君はその神の話し相手、手伝いをする事を選んだ神の御遣い(アンガロス)候補となるな」
頷きながら、白鴉はどこか楽しげに訊こえる声で云う。笑みが伝わる声音は鳥の声帯を震わせて低い笑声を鳴らす。
吐息。何度目になるか解らない息を深く吐き、そして吸う。心地よい風と空気が肺を膨らませ、身体を巡る。
そうして倉木充は改めて理解し、納得した。
この世界も神とのやり取りも、全ては現実であるのだと。自身は死に、そしてこの世界は異世界だ。しかし、一つだけ引っかかりを覚える。だから感じる違和感を解く為に神の化身であろう白鴉に手を伸ばし、
「――なら、なんで異世界に俺がいるんですかねぇ」
「ぐ……!」
首を絞めた。
指先に力を込めて鳥特有の細い首を掴む。柔らかな羽毛が五指を撫で、反して力を更に込める。入れすぎては駄目だ。それでは細い首と骨を手折ってしまう。それはいけない。苦しみは一瞬ではなく継続して与えるものだ。だから充は絶妙な力加減で白鴉の首を絞める。
嗚咽が訊こえ、喉から零れた息は声にならずに消えて行く。首を掴んだままの右手を擡げれば爪先は胸から離れ、自重によりいっそう、鳥の首には負担がかかる。
そうすれば自然な首吊りの出来上がりだ。
少しでも身体を軽くしようと翼を羽ばたかせるも無駄だ。大気を捉える事もできずに暴れる事にしかならない。
「俺は貴方の話し相手になる事を選びましたよね? 異世界に行く事は選んでいませんよね? 少なくとも俺はそう記憶していますけど、神様はどうですか?」
問うと、鴉の嘴がこくこくと頷いた。どうやら記憶に違いはないらしい。だから、指には力を込める。見上げる先で身体を必死にばたつかせる白鴉が見えるが充は気にしない。
「なら、なんで俺はここにいるんですかねぇ」
あの時、自身は選んだはずだ。
安穏と刺激を秤にかけて安穏を選んだ。危機がない平和な対話を選んだ。
だと云うのに神は安穏ではなく、危機を授けた。それでは約束が違うではないか。いや、約束などそもそもしていなかいったのかも知れないがどちらにせよ口約を違えたのは事実だろう。薄らと唇を歪めて問う充に、白鴉はか細く声を発した。
すでに羽ばたく気力も失ったのか身体を弛緩させて垂れ下がる頭で、
「――それは本心か?」
「――――」
指先の力が弛む。捉えた手はそのままだ。だが、神の一言は確かにその耳へと届いた。
無音がすぎる。緑を撫でる風が通りすぎ、草木を揺らして音を奏でる。
――本心か、か。
その問いは卑怯だ。本当に卑怯だ。それを問われてしまえば自身は黙るしかできないのだから。指は白鴉の首から剥がれ落ち、そして大地に落とされる。胸には再び重さがかかり、しかし充はそちらを見ない。見上げるは全天だ。
吸い込まれそうになる空。それは、安穏の中では見る事の叶わなかったものの一つだ。
「――うむ、うむ。これが話し相手と云うものか。ワシと対等に接せられるとは……」
数度の咳払いを終えた神はなぜか感動しているようだったが気にしない。
深呼吸。草の香りを吸い込み、そして両手を地につけてゆっくりと背を起こす。胸に乗っていた白鴉は翼を広げて空を舞い、肩へと降り立って来た。肩に小さな痛みが走る。それは鴉の爪がマント越しでさえ肩肉に触れたせいだ。
「肩当てが欲しいですね。爪が引っかかるので」
白鴉の爪は猛禽類と比較しても遜色ない。体躯も自らの知識にある鴉より一回りか、二回りは大きいだろう。なるほど、確かに金色の眼と純白の体毛を持つ姿は天の啓示と称されるほどの神々しさを持っていた。
「どこかで調達すればよいか」
「……神様の力でどうとかできないので?」
「猶予は過ぎているからな」
苦笑。
どうやら糾弾に思ったよりも時間を費やしてしまったらしい。それも仕方ないと腰を持ち上げ、立ち上がる。そうして広がる平原を改めて見据えれば口元は自然と綻んでしまう。
笑みを浮かべ、そして、充は踏み出した。
一歩だ。たったの一歩。しかしその一歩は、
「異界に地で初めて踏み出した一歩、か」
「セリフ、取らないでくれますか?」
ゆっくりと、それでいて確実に、彼は新たなる道を歩みだした。
作者の一言
天の遣い→アンゲロス
神の遣い→アンガロス
誤字ではありません。5000文字ってなかなか辛い。4000文字くらいです。