プロローグ‐1‐
そこはただ、広いだけの空間だった。
光に満ち溢れ、遥か遠くまで見通せると云うのに地平線が見えない。木々が生い茂るわけでも、無機質な鉄塔が立ち並ぶわけでもない。気が狂いそうになるほどに広く、殺風景な空間だった。
こつり、爪先を立っているその場に打ち付ければやけに音が残響する。風もない空間では己の吐息、衣擦れ、心音ですら耳に届いてしまう。
そんな空間に男は立っていた。シガレットを唇に挟み込む、無沙汰とばかりに上下させる。整えられていないぼさぼさの黒髪を気にする様子もなく、両手をくたびれたスーツのポケットに差し込んでいた。
辺りを散策するでもなく、漫然と広大な空間を見据える黒の瞳に生気はない。見る者がいれば死んでいるとも、目つきが悪いとも云われるであろう眇めた瞳は胡乱と焦点をさまよわせるばかりだ。
――静かだな。
光と白で作られた世界を彩る濃紺のスーツを纏った男が思い当たったのはそんなとりとめのない事だった。己の住んでいた場所でこれほど静かな場所があっただろうか。たとえ人気のない山奥でも、木々に囲まれた森の中でも有りえない。孤独にも感じられるこの世界は今の男に取って心地良いとも思えた。
だからと云って何かをする気も起きない。解放感はあるがそれ以上に虚無感が心を支配する。歩く気力もない。動く気力もない。頭を動かす事もしない。
なにせ、男はすでに、生きていないのだから。
「――倉木充。享年二十四歳。特筆する才能なし、努力なし、意欲もないがだからと責任を投げ出すこともしない。無趣味。友人関係は問題なし。家族は両親ともに健在。弟が一人。こう云ってはなんだが、平凡だな。」
耳に届く声は唐突だった。
男、倉木充は緩慢に首を捻る。そして音の訊こえて来た後ろを見れば、そこには卓上のテーブルと二つの椅子が目に入って来た。その内の一つには声の主であろう人物が腰を掛けている。
そこにいるのは老人だ。気品を感じされる長い髭は純白。伸ばされた髪も同じ色をして背中に流されている。その顔には深いが刻まれ年齢を感じさせるものだ。白い衣は貫頭衣を思わせるも質素さをかんじさせずに神々しさすら覚える。その姿はこの世界と同じ白で統一された姿だと云うのに、調和するどころか世界の中で際立ってさえいる。
手元にあるのは一冊の手帳だろうか。右手を背表紙に添え支えとし、左手で頁を捲る手は薄い手帳を読み終え、軽やかな音色と共に閉じられる。そうして文字に落とされていた瞳は充の姿を射抜いた。
――――
息を呑む。心の奥底までを見通す茶褐色の瞳。ただ、見詰められただけで五感の全てを支配されたような錯覚。否、事実、充は瞬きすら出来ず、指の一本ですら動かす事が出来なくなっていた。
「嗚呼、そんなに硬くならずとも良い、良い」
閉じた手帳を丸いテーブルの上に置き、老人は云う。困った、そんな声には苦笑が混じっていた。
「気を負う必要はない。此度、君を此処に呼び付けたのはワシの不手際と云うものだ。威圧してすまない。――掛けたまえ、話をしよう」
「――は」
そうして、老人は促す。同時に充の身体は自由を取り戻した。これほどに緊張したのは果たしていつ振りであるのだろう。おそらく、生まれてから死ぬまで味わった事のない感覚からの解放に吐息を漏らす。
そうして改めて見る先の老人には先ほどまでの見透かされるような感覚は失われていた。意図して抑えているのか、それともただ、充が覚えていた錯覚だったのかは解らない。しばしの逡巡を得た後、彼は椅子へ、老人と対面する形にあるそこへと腰を落ち着けた。そして問う。
「……それで、話と云うのは?」
「そう急くことはない。時と云う概念はすでに君から失われている。ゆるり、一つ一つ話して行こうではないか。茶は如何かね? 好みがあれば取り出そう。空腹も何も今となっては意味のない事象だが、気分は変わろう」
屈託のない、茶目っ気を含む笑み。まるで他人との会話を楽しむ雰囲気が老人からは感じられた。老人は右手を掲げ、指を鳴らす。すると、ソーサーの乗った白磁のカップと、ティーポットが現れる。何も存在しなかったテーブルの上に、だ。しかも、ティーポットの口からはたった今、淹れたかのように暖かみを教える湯気までかもし出して。気づけば、咥えていたシガレットもいつの間に失われていた。
老人はティーポットを手に取り、そしてカップへと注いで行く。零れ落ちる淡い色の茶から程よい酸味の香りが湧き上がる。老人は口を開き、
「人の子が作り出した嗜好品は様々とあるが、この香りは素晴らしい。心と云う不確かなものに届いて安らぎを与えてくれる。もちろん、普通の茶も良い。香りではなくいささか強い苦みと渋みは舌に残って食を豊かにする」
とくとくと静かな水音が響き、白磁の陶器に薄い紅の水面を描く。老人はそれをソーサーに乗せ、充の下へとスライドする。
立ち上る香りは確かに心地良い。鼻先を擽り、身体を弛緩させる。彼はカップに手を伸ばし、音を立てないようにソーサーから陶器を浮かせ縁に唇を付ける。口の中へ流れ込む紅茶は芳醇な香りで鼻孔を満たし、喉を通る瞬間に来る熱は身体を温める。
ほ、と、溜息が漏れる。安堵の息だ。視線を老人に向ければ相手もその香りを楽しんでいるのか、口元まで運んだ器に唇を付け、小さく傾けていた。
喉を潤し、身体の緊張が解れたのは老人の云う通り、紅茶に心を癒す効果があるからなのだろうか。ゆっくりと充は陶器をソーサーへと戻し、冗談めかして、
「……俺は、もう死んでるんですよね。そして貴方は閻魔様か誰かですかね。」
云った。
充は現実を見ないほどに愚かでも、生に執着するほどの理由もなかった。だから、あっさりとその現実を受け止める。この空間が無意識の見せている幻覚であればあるいは、現実では意識を失っているだけなのかも知れない。だが、
――その時の記憶があるからなぁ。
諦めにも似た感情が湧き上がる。仕事帰り、翌日が休みと云う事もあって友人に誘われて飲みに行った。充はそれほどに酒を飲まない。いつものように馬鹿ほどに騒いで大して強くもないのに酒を飲む友人を介抱するのが彼の役目だったし、それに対して悪い気は起きなかった。
その帰り、酔い潰れた友人を呼びだしたタクシーへと押し込み、金を払って自宅へ送り届けるように頼んだ後、そこで事件は起こった。
良くある、ありふれた話だ。車線を外れた車が路肩に突っ込んで来て、運悪く路肩に立っていた者が跳ねられた。そして、運が悪かった者が自分であったと云う話。
車の運転手は酔っていたのかも知れないし、居眠りしていたのかも知れない。そんな事はどうでも良い事だ。突っ込んで来た車に跳ねられ、しかし跳ね上げられずに下敷きになりタイヤに押し潰された。それが倉木充の知る自身の最期なのだから。
目の前にタイヤが迫って来て意識は失った。潰されたのが首にしろ、頭にしろ、もう、自分は生きていないのだろう。そんな納得が彼にはあった。
「……そう、だな。君は死んだ。間違いなく」
老人はゆっくりと頷き、肯定した。カップをソーサーへと置く。陶器が擦れる乾いた音が訊こえ、
「すまない。その件は私の不手際だ」
頭を下げた。
――は?
充は眼を開く。細い瞳孔を見開き、
「それは、どういう事、ですか?」
「人の子と云うのは運命が存在する。生を与えられる時、死を与えられる時、そう云ったものを人の子は運命や因果と云う。線のようなものだ。レールと云い換えても良い。生と死は生まれながらに決められ、その中で人の子は道を歩む。故にそれを人生と云う」
一息。
「しかし、因果が線であれば時に他者との接触によりほつれ、ねじ曲がる事もある。他者との関わりによって双方の因果が絡まるのだ。それは良い結果にも、悪い結果にもなる。長く生きる事が出来るのならそれで良い。それは予期せぬ結果を生み出すがそれは人の子が努力した証だ。しかし、悪い結果――他者と関わった結果に失われる因果にはいけない。歩む筈であった軌跡が全て無駄になる」
だから、
「その時には我々――人の子に神と呼ばれるワシが干渉し、運命を正しい方向に修正するその結果に死が近づく事はあるが、それもまた因果と云うものだ」
「……けれど、俺は違った、と?」
神を名乗る老人は頷く。頭を下げたまま、声には謝罪を乗せて語る。
「……君の因果は変哲のないものだった。普通に生き、普通に死ぬ。そうであったし、そうであるはずだった。だが、それは崩れた。本来、事故が起こっても軽傷で済むはずだったというのに、因果の線はまだ残っているというのに、君の人生を終わらせてしまった。……本当に、すまない」
つまり、自分は生きるべき運命を乗り越え、そして死んだと云う事か。
「――はっ」
笑えてくる。何という運の悪さ。何という間の悪さ。神たる老人の言葉が真実か、虚偽か計る手段は自分にはない。頭を下げる老人に当たり散らす気も起きない。これが高圧的であれば話は変わったのだろうが、神は一介に人間に過ぎない自分に頭を下げ、許しを請うている。その姿に糾弾を向けるほど、充は短気ではなかった。
「……ま、死んだものは仕方ないですよ。謝るって事は生き返らせるわけにもいかないのでしょうし、頭上げてください、神様」
肩を竦め、吐息を漏らす。
下げていた頭を上げ、自分を見据える老人の瞳には最初のような見透かす色は見えない。あるのはただ、後悔の色ばかりだ。きっと、この神は苦労人なのだろう。人ではないが。そんな事を考えつつ、口を開いた。
「で、俺はどうなるんでしょう。このまま、地獄とか天国とか行くんですか? それとも生まれ変わるとか?」
現実に未練がないわけでもないが、執着があるわけでもない。その程度の思いしかないのならばいっそ、死んで次の人生に期待するのも悪くない。あるかは知らないが。普通と神が名言しているのなら地獄に落ちることもないだろう。ならば輪廻に捉われるのか、そんな思考に浸る彼に返って来たのは、予想外の言葉だった。
「……倉木充の因果線まだ残っている。ゆえに」
ゆえに。
「――その因果線が切れるまで、死ぬことは出来ない」
▼▼▼
老人――神の一柱である彼は目の前で自身の言葉に瞠目した男を観察していた。
――何の変哲もない人生を送っている人の子ではあるが、落ち着いているものだ。
この場、精神世界とも、狭間とも云われる空間に連れ込まれた人間は何も眼前の彼が初めてではない。不条理な死を与えられた者、現世に深い執念を持つ者、そして彼のように自身の管理下から外れた死を迎えた者、そう云った者は決して数は多くないとは云えどもこの場を訪れ、ある者は対話を通して輪廻の輪に組み込まれ、ある者は与えられた選択肢を享受して新たな生を育むこととなった。
その中のほとんどは狼狽し、憤り、自身の死を受け入れられない者ばかりだった。
当然だ。
誰が己の死をあっさりと受け入れられると云うのだろう。
後悔、残念、執着。現世に遺してしまった者や事、人の子とはそう云った自我に縛られる。だからこそ、彼等は云うのだ。
生き返らせはくれなのか、と。
あるいは、それが出来るのならば神はこのような対話を望む必要はないのだろう。どのような因果であろうと、自身が管理しきれなかった死であろうと、それは終焉に変わりない。終わりから新たに始めることは出来ても、終わりを続けることはいかに神の御業をもってしも不可能だった。
全知ではあるが全能ではない。それが神の限界でもあったのだ。
そうしてしばしの沈黙が流れる。瞠目していた男は思いを巡らせているのか、俯き気味になって口元に右手を添えている。
ふと、男が動いた。左手をスーツの胸元、そこにあるポケットに伸ばし、内側から取り出すのは白い小箱だ。確かそれは、
――タバコ、と云ったか。
人の子が作り出した嗜好品の一つ。その身体を内側から蝕む代わりに脳内を麻痺させて一時の快楽を得る代物。老人に取っては余り好ましいものではなく、なぜ自ら身体を害するのか、理解は出来ないがそう云った道理にそぐわない事を行うのも人の子の生業というものだ。男は箱を掲げ、
「吸っても?」
「……禁煙でな。代わりにこちらでも咥えていてくれ」
再度、指を鳴らす。
この空間では神の能力、そのほとんどが発揮できる。だからこそ何かを創造することもたやすい。作り出すのは彼が手にしている小箱と同じ箱、しかし決定的に異なるのはその中身。卓上に作り出した箱を男の下へスライドさせ、彼はそれを手に取る。
中身を確かめるために数度箱を振り、乾いた音が鳴った事を確かめると箱の口を開いて中身を取り出す。それは一見して彼が持っていた煙草と変わりない。しかし、彼は違いに気づいたようだった。
「……これ、シガレット菓子?」
「そちらより健康的だと思うがな」
半目。何か訴えるような視線を向けて来るが神は気にしない。おそらく、なぜこのようなものを知っているのか訊ねたいのだろうが神は全知だからとしか答えようもない。
シガレット菓子を咥えた男は歯を立て、吹かす仕草をする。中々に様になっているのは彼の目つきが悪いからだろうか、人ならば無言の圧力を受けているに違いない。
「で、因果線とやらが残っていて、それがある限りに死ねないのなら、俺はどうなるんですかね? というか、もう死んでるのに死ねないっていったい」
苦笑。それは矛盾だ。倉木充の肉体はすでに生命活動を停止している。どうやっても蘇生は不可能だ。だが、因果線が途切れていない限り彼は生き続けなければならない。その口から零れたように、死んでいるのに死ねない。それが彼の状況を表すに相応しい言葉だ。
だから、神は右手を掲げ、云う。
「手段はある。ここからが本題だ」
そう、この矛盾を解消するために、神は倉木充と云う死者を呼び付けたのだ。老人は無骨な人差し指を立て、
「一つ、このまま因果線が切れるまで精神体として生きる。いわゆる、霊体というものだ」
続いて中指を立て、
「二つ、ここでワシの話し相手になってもらう。人の子を観察する手伝いもしてもらうやも知れない」
最後に中指を立て
「三つ、ワシの管理下にある他の世界に行き、そこで新たな人生を歩む。因果線が切れるまで、な。」
三本の指を立てた老人は薄く唇に笑みを描き、
「倉木充、どれを選ぶかは君の自由だ。――どうする?」
云った。
◆◇◆◇