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第一話『どうか心の片隅に』第一章

 千夜は学校で女子生徒にキスをされる。だが、その夜彼女は死んだ。殺されたのだ。そして千夜は殺人鬼と再会する…。

第一章

 混雑した駅のホームで、千夜は前に立つ男の背中を見つめていた。

 スーツ姿のその男は、無防備な背中を晒している。

 ――今なら、この男を殺せる……。

 千夜はごくりと唾を飲み込んだ。

 周りの人間たちはスマートフォンをいじっていたり文庫本を読んでいたり、と他人に興味はないらしい。

 絶好のチャンスと言えた。憎い男を殺す、チャンスだ。

 千夜は大きく息を吸い込んだ。

「電車が参ります、ご注意ください」

 そのアナウンスを聞きながら、息を吐き出す。

 あと何秒だろう。この男の命の火が尽きるまで。

 電車が見えた。

 千夜は思い切り手を突き出した。

 男は背中を押され、バランスを崩す。ホームに留まろうとするが足は絡まり、死へのステップを踏む。

 電車のブレーキ音を聞きながら、千夜は背を向けた。

 ――ああ、やっとあんたを殺せた。


「ん……」

 千夜はベッドで目を覚ました。

「ああ、夢かあ」

 体を起こし、息をつく。

「嫌な夢」

 まだ掌に、あの男の背中の感触が残っているようだ。

 千夜の部屋にはベッドや机の他に本棚がある。

 本棚には様々な本が詰め込まれていた。

 ミステリー小説が多いが、中には高校生が読むとは思えない専門書も収まっている。

 彼女の成績がトップクラスなのは、それらから得た知識のおかげと言えるだろう。

 千夜はピンク色のパジャマ姿のまま洗面所に向かう。

 顔を洗ってさっぱりすると、リビングでテレビを点け、コンビニの菓子パンの封を開けた。

 特に料理をすることのない千夜には、真新しいダイニングキッチンは無用の長物だろう。

 パンにコーティングされたチョコレートの香りで、頭が覚醒していく。

 それを齧りながらテレビに目をやると、昨夜通った道が映っていた。

「あ」

 やはりあの公園で女子高生が殺害されていたらしい。

 千夜はワイドショーに集中した。

 コメンテイターが「やはり『現代の切り裂きジャック』でしょうか」などと話している。

「現代の切り裂きジャック、かあ……」

 それはここ最近話題になっている殺人鬼だ。マスコミによると被害者――この一ヶ月で三人、昨夜で四人目だ――が全員売春をしていたらしく、週刊誌やワイドショーでは犯人のことを現代の切り裂きジャックと呼んでいる。

「死体蹴りだよな」

 被害者は私生活を暴かれ、ネットでは殺されて当然の売女扱いをされている。

「ま、いいけど」

 千夜は肩を竦めて残ったパンを口に詰め込み、ハンガーに掛けていた制服を取った。

 それに着替え、三年生であることを示す赤いネクタイを締める。

「さ、そろそろ行かなきゃ」

 千夜は通学鞄を手に取り、専門家らしき男が現代の切り裂きジャックのプロファイリングをしているのを見て、テレビを消した。

「あれは三十代、かな」

 昨日の男を思い出し、小さく呟く。

 玄関に向かう千夜には「行ってきます」を言う相手がいない。

 去年母が他界し、その位牌も田舎に住む祖父の家にある。

 千夜は何も言わずドアに鍵をかけると、エレベーターに向かった。


 マンションから歩いて二十分ほどの所にある晴常高校。その校門付近は生徒たちで賑わっている。

 八時を少し過ぎた今は、朝練などのない生徒たちが登校してくる時間だった。

「もう二人とも来てるかな」

 千夜は呟き、南校舎の階段を上がる。

 三年一組の教室に入ると、クラスメートは半数以上来ており、思い思いの話に興じている。

 千夜は窓際の席で雑誌を読んでいる男子二人の後ろから手元を覗き込んだ。

「おはよ、高石君」

「お、おおっ!」

 長い金髪を結った少年、高石正太が驚いたように振り向く。

「私はこの子が可愛いと思う。清純そうで」

 そんな高石に向かってニヤリと笑うと、千夜は彼が見ていたグラビアページに載っている少女を指差した。

 その隣で、

「お、千夜いい趣味してんじゃん」

 と、黒髪に分厚い眼鏡という地味な印象の秋葉貴弘が頷いた。

「いやいやいや、こういうのは男の会話だろ! 何で千夜が参加してんだよ!」

 高石は顔を赤くして雑誌を閉じるが、千夜と秋葉は顔を見合わせて笑う。

「ちなみに高石の好みは巨乳らしいぜ」

「まだまだ若いねー」

「いや、同い年だろ! つーか……、昨日殺人事件があっただろ。お前のマンションのすぐ近くで」

 高石は無理矢理話を変えにかかった。

「あれね、今朝ワイドショーで見たよ。現代の切り裂きジャックかとか言ってたけど」

「千夜は大丈夫なのか? 塾の帰り、遅くなるんだろ?」

 彼は本気で心配している様子だが、千夜は苦笑する。

「切り裂きジャックの件について大丈夫かって言ってるなら、私は売春とかしてないから狙われることはないかな、としか」

「お、俺は危ないこと全般について言っただけで、お前が売春してるとか思ってないからな!」

「高石、千夜もからかってるだけで本気にしてねえから」

 秋葉はけらけらと笑う。

「ま、笑い事じゃなく気を付けた方がいいと思うぜ」

「まあねー。というか秋葉君こそ大丈夫? 遅くまでバイトしてるじゃん」

「俺も売春はしてない」

「お前がしてたらこえーよ」

 高石が秋葉にツッコミを入れる。

「でも、何で現代の切り裂きジャックなんだ? ジャックって誰?」

 その問いに千夜は、

「ジャックは名無しの権兵衛みたいなもんだよ。十九世紀ロンドンで売春婦ばかりが殺された事件の犯人。未解決だから名前も分かってないの」

 と、答える。

「へー、千夜ってそういうのよく知ってるよな」

「切り裂きジャックはミステリーではよく使われるネタだからね」

「でもさー、現代の切り裂きジャックじゃなくて、切り裂き権兵衛って呼べばよくね? ジャックだとなんか格好良くて腹立つ」

「それは和風……、なのか?」

 高石の発想に秋葉は呆れたようだが、千夜はツボにはまったようでくっくっくっと笑う。

「まあ切り裂き権兵衛なら模倣犯は出ないだろうねー。普通にダサい」


 六時間目の授業が終わり、千夜は「うーん」と伸びをする。

「この後どうするかなー」

 六時間目は選択授業で、音楽の授業を取っている千夜は特に話し相手もいない。ちなみに秋葉は美術、高石は書道の授業を取っている。

 荷物は持ってきているので教室に戻る必要もない千夜は、このまま帰ることにした。

 音楽室のように普段使わない教室は北校舎にある。千夜は三階から階段を下りていった。

「ん?」

 踊り場で蹲っている女子がいるのに気付く。

「大丈夫?」

 千夜は階段を駆け下り、彼女に声をかけた。

 こちらを向いた少女の顔は、紙のように白い。

「顔色悪いよ、保健室行く?」

「大……、丈夫……」

 掠れた声で返す彼女は、話したことはないがクラスメートだった。

「えっと、香川さんだよね」

 確か、香川弓子だったはずだ。

「ええ、海戸さん」

 弓子は弱々しく微笑む。

「ちょっと貧血を起こしただけだから、気にしないで」

「そう? でも保健室に行った方が……」

「いいの、ありがとう」

 本人がそう言うのなら、千夜が強制することではない。

「じゃあ、お大事に……」

 千夜はそう言ってまた階段を下りていった。

 しかし、どうも彼女のことが気にかかる。

 普段あまり他人のことを気にしない千夜だが、何故か気になった。

「仕方ないなあ……」

 千夜は手洗い場に入ると、ポケットから取り出した水色のハンカチを濡らした。

 そして、先程の踊り場に戻る。

「お節介かもしれないけど、これ額に当てたら少しすっきりするかもよ」

 千夜はまだ蹲っていた弓子にハンカチを差し出した。

 弓子は目を瞬かせると、

「ありがとう」

 と言ってそれを受け取り、額に当てた。

「気にしないで」

 千夜はしゃがみ込み、弓子の頬に触れた。

「熱っぽくはないね。貧血かー、私も昔、よく貧血起こしたなー」

「そう、なの?」

「うん、朝礼中とか、よく保健室に行ったもんだよ」

 千夜は自分の中学時代を思い出す。

「今は、大丈夫なの?」

「うん、しばらく薬飲んでたら治った」

「良かった」

 弓子は普通に話せる程度には回復したらしい。

「体質とか薬で改善できるしね」

「そうなのね」

 弓子は長い黒髪を揺らし、頷いた。純和風美少女といった感じである。

「海戸さん」

「ん、何?」

 何が起こったのか、一瞬分からなかった。

 弓子の顔が近付き、唇が千夜のそれに触れる。

 さすがの千夜も、反応ができなかった。

「ごめんなさい」

 弓子は真剣な顔でそう言うと、ふらつきながら立ち上がった。

 千夜は言葉を返せない。

「本当に、ごめんなさい」

 弓子はもう一度謝罪すると、ゆっくりとだが階段を上がっていった。

「いや、うん……」

 弓子の姿が二階に消えてから、千夜は唇を押さえた。

「アメリカ人の、挨拶的な?」

 ――じゃ、ないか……。

 弓子の表情は真剣そのものだった。

 あれは、純粋な好意からくる口付けに思えた。

「うーん……?」

 千夜は背中を壁に預け、その場に座り込む。

「最近の子の行動は、よく分からんなあ」

 そう呟き、溜め息をついた。

 ハンカチのことなど、すっかり忘れていた。


 翌日、教室に入った千夜は妙な雰囲気を感じ取った。

 生徒たちはどこか深刻な顔をし、声を落として喋っている。

 その様子に千夜は首を傾げ、先に来ていた二人の元に駆け寄った。

「ねえ、何かあったの?」

「なあ、千夜は香川と喋ったことあったか?」

 高石がいつもより小さな声で尋ねる。

「香川さん、か……。昨日ちょっと話したよ」

 キスされたとはさすがに言えない。

「昨日、亡くなったって」

 秋葉の言葉に、千夜は目を瞬かせた。

「そういや具合悪そうだったけど、病気?」

「いや、殺された、らしい」

「ええ、殺されたって……」

「俺、今日日直だったから職員室行ったんだけど、東尾が話してた。なんか、酷い有様だったって……」

 顔を顰める秋葉に、千夜は「そっかあ……」と言葉を返す。

 クラスを支配する重い空気はそのせいらしい。ただ死んだのではなく殺された。

 しかし、涙を零している者はいなかった。彼女はクラスに友人というほどの者がいなかったのかもしれない。

 千夜自身、悲しいというより驚いたという気持ちの方が強かったのだ。


 その日の放課後、弓子の通夜が行われた。

 学校の近くの葬儀場で行われた通夜には制服で行くのが好ましいとのことで、ほとんどの生徒たちがそのまま来ている。千夜たちもそうだ。

 前方のパイプ椅子には親類であろう大人たちが、後方には三年一組の生徒や教師たちが座っている。

 ――お母さんのお通夜を思い出すな。

 千夜はふと思った。

 母の通夜や葬儀は祖父に任せきりで、千夜はただぼんやりとその光景を眺めているしかできなかった。

 ――でも、あの時ってこんな感じだったっけ。

 母の通夜ではすすり泣く声が聞こえてきた気がするが、今はただ読経の声が響くだけだ。

 どこかピリピリした空気すら感じ、千夜は居心地の悪さを覚えた。

 焼香の順番も淡々と過ぎて行き、通夜は終了する。

 黒い額縁の中で静かに微笑んでいる弓子が、印象的だった。

 千夜は自らの唇を撫でる。

 ――結局、あの時のキスの意味は分からず終い、か。

「この後、どうする?」

 少しボーッとしていたところを高石に声をかけられ、我に返った千夜はパイプ椅子から立ち上がった。

「ああ、どうしようか」

「とりあえずここ、出ようぜ」

 秋葉も居心地の悪さを感じていたのかもしれない。

「うん」

 会場から出たところで、千夜は足を止めた。

「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくる」

 そう告げ、出口と反対の方に向かう。

 角を曲がろうとした時「何でこんなことに」という声が聞こえ、千夜は足を止めた。

「私だって分からないわ」

 続く言葉からも深刻な話のようで、姿を現しづらくなった千夜はこっそりと覗くことにした。

 声の主は喪服姿の弓子の両親だ。

 ――香川さんのこと、悲しんでるのかな。

 通夜の席では気丈に振る舞い、涙を見せなかっただけかもしれない。

「あの子が妊娠してたなんて」

 神経質そうな顔立ちの母親の言葉に、千夜は上げそうになった声をなんとか飲み込んだ。

「こんなこと、我が家の恥だぞ。親戚連中も内心笑ってる」

 生真面目そうな父親が、ぎりっと奥歯を噛み締める。

「本当に、あの子は何を考えてたのかしら。死んでまで迷惑をかけて」

 そこまで聞いていた千夜はいたたまれなくなり、手洗い場には行かずに友人たちの元へと戻った。

「立ち止まってたけど、どうしたんだ?」

 長い廊下だ、高石たちに声は聞こえなかったのだろう。

「いや、やっぱり今はいいやと思って」

 千夜は取り繕うようにそう言った。

「そうか? とりあえずファミレスでも寄ってく?」

「うん」

 秋葉の言葉に千夜は頷いた。


 ファミレスでも特に盛り上がるということはなく、千夜は帰路についた。

 一人で帰るのは少し考えたかったからだ、弓子のことについて。

 両親の言っていた通り、弓子は妊娠していたのだろう。あの時貧血と言っていたのは、つわりだったのだ。

 ――でも、誰の……。

 考え込んでいた千夜は、後ろから男がつけてくるのに気が付いていなかった。殺人鬼のことなど、半ば忘れていた。

「警察に通報しないでくれてありがとうな」

 後ろからの声に、千夜ははっとする。

「貴方は……」

 街灯に照らされた黒髪に白いジャケット、そしてサングラスの奥からこちらを見つめる暗い瞳。

 ――あの時の、殺人鬼……。

 千夜はとっさに走り出そうとした。

 だが、殺人鬼の黒い革手袋に包まれた手が千夜の腕を掴み、強い力で引き寄せる。

 後ろから抱き締めるようにして、彼はその耳元で囁く。

「やっと会えたな、千夜」

「何で、名前……」

 千夜は掠れた声で問いかける。

 だが、殺人鬼はその問いには答えない。

「俺の名前は水上圭。現代の切り裂きジャックってやつだ。よろしく」

 その低い美声が、不気味に響く。

「俺と君はもうオトモダチだ。だってお前、俺のことを警察に通報しなかっただろ? それに……」

 水上はニヤリと笑った。

「お前だって、人を殺したいんだろ?」

 千夜の体が固まる。蛇に睨まれた蛙のように。

「そんな、ことは……」

「分かるんだよ、目を見りゃあな。お前も俺の目を見て感じただろ? 殺意とか狂気とか、普通の人間とは違うものを」

 確かに、その目に深い闇が見えるのは事実だ。

 千夜は気圧されたように一歩下がった。

「私は、まだ……」

「ああ、まだ殺してない。それに迷ってる。でもな、今のままだと、お前はいつかこっち側に来る」

 水上は一歩、足を踏み出す。

 千夜は退かなかった。だが、彼の瞳からは目を逸らす。

「そうやって自分の中の闇からも目を逸らしていたら、自覚しないまま飲まれるぜ、闇に」

 水上は千夜の顎を掴み、自分の方を向かせる。

 千夜はされるがままその瞳を見つめた。

「そう、それでいい」

「どうしたいんですか、貴方は……」

 千夜の声は、もう震えていなかった。

「そうそう、一つ頼みがあってな」

 水上は頭を掻く。

「俺の濡れ衣を晴らしてくれねえか?」

「濡れ衣?」

「そう、お前のクラスメート、香川弓子殺しの濡れ衣をな」

 千夜はその名前にピクリと反応する。

「まだ発表はされてねえが、警察はあの事件も俺がやったと思ってるようでな。なんせ手口が似てる。喉を裂かれた後、腹を滅茶苦茶に……」

 千夜は想像して気分が悪くなった。水上もそれを察したのか、「悪い悪い」と謝罪する。

「でも、俺はそいつに関しちゃ無関係なんだよ。俺が殺すのは売春してる女だけだ。現代の切り裂きジャックだし」

「何で私に頼むんですか? 私はただの女子高生ですよ」

「そうだな、お前が俺のことを通報しなかったのと同じじゃねえか?」

「え?」

「事件を解決したお前が、どうなるのか見たい」

 しれっとそう言われても納得がいかない。

 だが、千夜は弓子が殺された理由を知りたかった。

「分かりました、やります」

 千夜は水上の目をまっすぐに見つめた。

「助かるよ、じゃあ頼む。俺はそろそろ行くぜ。あんまりのんびりもしていられねえからな」

 水上は千夜に背を向けると、片手を上げた。別れの挨拶のつもりらしい。

 千夜は息をついた。

 ただ、理由が知りたい。

 彼女が死んだ、理由が。

 それがただの好奇心なのか、また別のものなのかは分からない。

「とにかく、帰ろう」

 千夜は小走りでマンションに向かった。


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