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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

心ノ音

作者: 木邑菜子


 そのぬくもりに包まれているのは心地よかった。狭くて柔らかい袋のようなものが、自分を覆っている。中には水が満たされていて、まるで楽園のようだ──と思う。自分がなぜここにいるか、ということを理解できていなかったけれど、外から聴こえる声が自分を慈しみ愛してくれているのを、感じていた。

 けれどもある日。自分を包む柔らかい袋を、衝撃が襲った。袋が大きく揺れて、袋の外側で何かが騒ぐ声がして、それからぱったりと、自分を愛す声はしなくなった。袋の外側は常に緊張しているようで、それは袋にも影響を与えた。外はひどく疲れているのだ、と思う。自分を愛す声が聴こえなくなってくるとだんだん、この心地よい空間で悲しみを感じずにはいられなかった。自分は外側に、もう望まれなくなったのだ。そうとしか、考えられない。ならば自分はどうしたらいいのだろう。もはや外にとって自分は邪魔くさいものでしかないのか。うつらうつらとそんなことを考えては、心地よい空間の中で眠った。自分にだんだんと、しっかりとした栄養が行き届かなくなったのはわかっていたけれど、それも自分が邪魔になったからなのだろう。ああ、どうかここから追い出さないで、ずっと袋の中で揺らしてくれているといいのだけど。





 少年がその異変に気づいたのは、外から赤い光が差し込む逢魔が刻だった。胸がやけに早く波打っている。手のひらを胸に押し付けると、気持ち悪くどくどくと波打っていた。しばらく、いつものように顔をしかめては、手のひらを押し付けている。少年はつい最近、母親にいわれたことを思い出した。「それは心臓の音よ。あら、風邪をひいたのかしら、脈が早いわね。熱計ってみなさい」

 風邪だという。本当だろうか? だってこんなに早く、まるで生き物みたいに。いつもいつも、心臓が通常より早く音をうつと、なぜか不安を感じずにはいられなかった。なんでかはわからないけれど、気味が悪いのだ。なにかがいる気がする。


 ぼーっとして、少年は布団も潜り込む。暖かく自分を包む布団に潜っていると、少年はなぜか不安を感じた。前も、こんなことがあった気がする。でも……、違う。なにかがわかりそうで、少年は必死に考えた。暖かい袋の中。なにか嫌われるようなものがいて──、違う。嫌われるようなものがいたのではない。自分が、そうだったのだ。自分が邪魔なものだった。そう、母親の胎という袋の中。自分は、いらないものであったのに産まれてきてしまった。ふっとそう気づいて、少年は恐怖した。自分の胸の中に潜む何かは、自分という肉の殻をかぶったおぞましいものだ。


 ──おぞましいものを取り出せば、母親は愛してくれるのではないか。


 しゃくりも抑えられず布団の中で泣きじゃくっていた少年は、ふと思いついた。きっと、そうだ。目の先に、シャープペンシルを見つける。それを手にとって、胸を調べるように押し付けた。鋭いペン先が、少年の柔らかい肌に突き刺さっては、小さな跡になる。痛い、痛いけれど母親に愛されるためには。

 こんなのものではだめだ。ペンケースをひっくり返し、はさみを手にとった。もつ手が震える。泣きじゃくりながらはさみを開き、片方の刃で胸を鋭く掻っ切る。皮膚の上を滑る刃が、少しだけ傷をつけた。血がじんわりと滲んでくる。もう何も考えられなかった。むちゃくちゃに刃を滑らせては、心臓の音を確認する。けれどもその何かは、慌てたのだろうか──先ほどよりもずっと早くうごめているのだ。

 傷口を確認すると、少しも傷は深くなっていなかった。爪で少し引っ掻いたような浅い傷が胸の上に無数に散らばり、肌を赤く染めているだけ。

 少年はふらりと立ち上がり、はさみを置いて部屋を出た。母親は仕事でいない。いつの間にか太陽が沈み、真っ暗になった部屋に電気をつけて、台所へ向かった。今朝の茶碗が残っている。それを横目に、小さな引き出しを開けた。数本の包丁が台所の光をうけ、冷たく光っている。一本を取り出すと、ソファに向かった。


 軽く腰掛け、包丁を見る。自分は死なない、きっと。だってこの、母親に愛されない原因を取り除くだけだから。死なないんだ。怖くなんかない。言い聞かせ、なんとか息を落ち着かせ、ゆっくりと息を吸った。包丁の刃を自分に向け、渾身の力で突き立てる。がつん、とあたったと思うと、包丁は少しだけ肉に沈んだ。痛い! 痛い痛い痛い! 吐き気が喉元からつき上がってくる。力が抜けて包丁が落ちそうになり、慌てて握り直す。包丁が少しでも動くと痛みが胸を刺した。あきらめちゃ、だめだ。自分を奮い立たせ、刃の先でぐりぐりと胸元を抉る。そこで、少年の意識は途切れた。けれども、強い意志によって動かされる体は、少年が白目を剥いても手を動かし続けていた。中にいる、そのおぞましい生物を取り出すために──。





「続いてのニュースです。東京都で、わずか八歳の少年が自らの胸部を抉り死亡するという事件が発生しました。少年は普段から一人で過ごすことが多く、内気な性格でしたが、悩み事があるようには見えなかったそうです。自殺と見て間違いないとされていますが、不可解な点が多いため、警察は動機などを捜査中です」


 この事件は警察一同を困惑させた。麻薬をヤッていたわけでも、精神に異常を来していたわけでもないほんの小さな子供が胸部を抉り自殺するなど、そんな事例は担当したことがない。原因も不明だが、胸部を抉るとなると並大抵ではない強力な意志が必要だ。

 少年の自殺した姿を発見した母親は、ショックで精神病院に入院した。ベッドの上でぼんやりと思う。


 ──きっとわたしの愛情不足だったのだろう。


 あの子の父親が、妊娠してすぐに逃げた。それも、腹を殴って。子供は無事だったが、養育費などを巡って何度か会い、その度に心労と疲労が重なった。そしてあの子が生まれれば生活費のために働かなければならなかった。いつもいつも、寂しい思いをさせていたに違いない。物分かりが良くいい子だったが、いつも何かに怯えているようだった。いまさら嘆いても遅いのだけど、なんて思いながら我が子の自殺場面が脳にフラッシュする。

 白目を向き、包丁が真っ赤な胸に突き刺さっていた。膝には、心臓が置いてあったのだ。どういう意味だったのだろう。こみ上げてくる吐き気と涙を抑え、思った。もう終わったことだけれど……。

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