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隣の条件

作者: 彩里きら

設定ありきの話のため、説明文が多いです。苦手な方はご注意ください。

「お気をつけて~」

 ひらひら~と緩く軽い動作で手を振るランダに雅紀は殺意を覚えながら現れたゲートをくぐった。

 いつも通り見えた自室のベッドに目をやり、少しの躊躇の後、欲求にまかせて倒れこむ。着ていたカッターシャツと制服のズボンは砂ぼこりにまみれ、返り血も所々ついているが、漸く安全と言える場所に帰りつけたのだ。

 後でいくらでも洗濯する。

「ねむい……」

 朦朧としたまま呟いて、そのまま意識は眠りへと落ちていった。


 彼、田倉(たくら) 雅紀(まさき)は美男美女の言葉がぴったりの夫婦の間に生まれた、言うなればサラブレッド美形である。

 金持ちとまでは言えないが一般家庭の中では割りと裕福で、苦手な教科を持ちつつも概ね頭も良く運動神経だって抜群だ。流石に聖人君子では無いが、人当たりも良くリーダーシップなんかも発揮するクラスの中心人物でもある。

 さて、そんな神様の依怙贔屓を受けるものの普通の男子高校生に見える彼は、残念ながら普通ではなかった。

 正確に言えば、普通じゃない両親の割りを食っているため普通ではなかった。


 軽やかな携帯電話の電子音が意識の端で何かを奏でている。

 ぼんやりする頭でその音を聞き、そして勢い良く起き上がった。

 この着信音は只一人にしか使っていない。

 慌ててベッドから降り、机の上に置かれた携帯を手に取った。電池の消耗が気になるため未だ二つ折りのそれの小窓には思った通りの人物からの電話着信を知らせている。

 あたふたしながら通話ボタンを押すべく手を動かすが、あまりに慌ているためにうまく操作できない。

 切れないことを願いながら思い通りにならない手を必死なって動かし、何とか電話を受けることに成功する。

「は、はい、もしもし!」

 胸がドキドキして、その音が電話の向こう側に聞こえてしまわないかが心配だった。

『まさき君?』

「う、うん!」

 本物より少しざらついた、それでも耳に心地よいソプラノが少し舌足らずに呼ぶ声に、雅紀は被り気味に返事した。

『あ、やっぱり帰ってたんだ。お帰りなさい』

 見えなくてもいつも通りにっこり笑顔で言っているのだろうことが声から分かり、雅紀は口元が緩むのを自覚した。

 疲れて帰ってきて、一番が聞くものが優しく名前を呼び帰還を喜ぶ声で幸せなのだ。

「うん、ただいま。でも良く気付いたね、さっきまで寝てたの、に……」

 言いながら、しまった、と語気を弱めた。これでは電話で起きたことが丸わかりだ。彼自身としてはモーニングコールみたいで嬉しいと思っているが、電話の相手は睡眠を邪魔したと感じるだろう。

『起こしちゃったみたいだね。ごめんね』

 案の定申し訳なさそうな声で謝る相手に、雅紀は見えないのは分かっているが反射的に首を左右に振った。

「ううん! 良く寝たし、そろそろ起きなきゃって思ってたから!」

 だからもう、全然問題無い、むしろ嬉しい。思わず言いそうになった言葉を飲み込んだ。

 押しの強い母親では無く、残念(ヘタレ)なイケメンと仲間内で評判の父親に似てしまった彼は、ヘタレである。

『それならいいんだけど……。怪我、無い?』

 心配そうな声に、雅紀は笑った。

「大丈夫。あってもかすり傷だから」

 かすり傷レベルだと面倒なのでそのまま帰ってきてしまうが、怪我というレベルのものになれば雅紀は帰ってくる前に徹底的に治療してもらう。行きたくないのに行ってるのだから、それくらい当然の権利である。それに、余程の事態ならば両親が出てくる。倉田家が慌ただしくなるはずなので、一人帰還していると言うことは何事もなかったという証明でもあるのだ。

 この事は前にも伝えているから、知らないわけではないだろうけれど、怪我がないか、無事なのか、安否を確認してくれることがたまらなく嬉しい。

『良かった。帰って来たことに、気付いたの、お母さんなの。部屋が一瞬光ったって教えてくれてね』

 この台詞に、雅紀は得心が行った。

 どれ位の時間眠っていたのかは分からないが、何もする気が起きないくらい疲れきっていたのが、幾分かマシになっていることを考えると、数分、数十分というレベルではないのだろう。

 あまり記憶は定かではないが、ゲートをくぐって帰ってきた際に開けられたままのカーテンから見えた外は明るく、昼間と言うべき時間帯だったはずだ。今はもう暗い。

 これまでの経験上、雅紀が帰っていることが分かれば、電話越しの相手は学校からでも安否確認をしてくる。机の上にあるデジタル式の目覚まし時計には時間と日付、それから『WED』の三文字。水曜日、である。平日真っ只中の今日、学校から帰ってきて母親に帰還について聞き、すぐさま電話をかけてきたのだろうと想像がついた。

「そっか、おばさんが見てたんだ」

 あちらとこちらを繋ぐゲートをくぐる瞬間、ちょっとどうかと思うくらいに光る。躊躇して一歩ずつゆっくり進めばその分光を発する時間が長くなるという、嫌な仕様になっているのだ。勿論それを知っている雅紀は素早く移動を行うが、それでもゲート帰還位置に設定されている自室がやたらと光ってしまう事を避けられない。特に、カーテンが開きっぱなしになっている時は外にまで光が漏れてしまうのだ。

 これのお陰で出入りが分かり、寝起きから最高の気分を味わえたのだから、一概に嫌だとは言えないのが悔しいところである。

『うん。あ、あのね、まさき君が心配だったのもあるんだけど、おじさん、昨日から出張で、おばさんもついて行ってるの』

 身を案じられて、言葉でも心配だったのだと、そう言われて。

 雅紀は顔が熱くなるのを感じた。

 彼は常に落ち着いた行動が取れるようにと教育されている。電話越しの言葉一つで、こんなにも一喜一憂してしまっているのが知られれば、多分怒られるだろう。

 耳すらも熱くてどうしようもなくりながらも、そんな自分が嫌いではなかった。

「ああ、昨日からだったんだ。一週間北海道に行くって言ってたかな」

 電話越しの会話には真っ赤になっていることなんておくびにも出さず、極々自然に言葉を返す。

『うん。でね、まさき君一人で家の事出来るだろうけど、帰ったばっかりで疲れてるでしょ? うちにご飯食べにおい――』

「行くっ!!」

 クールな俺、どこ行った。

 思ったかどうかは分からないが、雅紀は皆まで言わせず、脊髄反射の如く返事をした。


 電話越しの相手。

 雅紀の態度からもうバレバレだとしか言いようが無いが、彼の好きな人、である。

 幼稚園年中の頃に田倉家の隣にあった古い民家を取り壊し、夢のマイホームを建てて引越してきた一家の住人で、父、母、長女、長男の四人家族の、長女がその人だ。

 絵に描いたような平凡な一家で、誰もが思い描く普通の幸せな家族、を体現している。

 お隣さんで、しかも彼女と雅紀が同い年ということもあり、必然的に仲良くなった両家なのだが、初めて家へと招かれた時の衝撃を、彼は今だに覚えている。

 理由は忘れたが、雅紀の母が彼を置いてどうしても出かけなればならないことがあった。しかも父親は休日出勤で不在。仲良くなりつつも、越してきて日が浅く家へのお呼ばれには今一歩、の所だったのだが、困った母はお隣に雅紀を預けることを打診した。

 お隣は、娘と彼の仲が良い事、また、公園やら何やらでもお行儀も悪くない事から、それを快く引き受けた。

 そして、招かれたお隣さんの家。

 おもちゃやらテレビやらで楽しく遊ぶ中、おやつよ~、の言葉に反応して行ったリビングで、彼は初めて見た。

 美味しそうに湯気を立てる、ホットケーキを。

 別になんてことはない光景だろう。むしろ、手作りおやつとしてはお手軽の分類に入るものだ。

 しかし残念ながら、雅紀はそれと初遭遇だった。

 雅紀母は大変美人で有能だが、こと家事全般に関しては何も答えず笑って誤魔化すタイプなのだ。普段は父が頑張っている。

 見よう見まねで頬張るそのホットケーキは、とても、とても美味しかった。キャラクターの型を使って焼かれたものや、丸を三つでねずみを表現したものなんて、もう、格別だった。

 何となくふわふわ夢見心地の雅紀へのダメ押しが、おいしいね~、なんて口の周りをシロップでべたべたにしたお隣さんのにこにこ笑顔。

 今思えば残念すぎる光景なのに、その笑顔に雅紀はやられた。

 ある意味、吊り橋効果だったのかもしれない。

 その日から、十年以上、雅紀はお隣さんを一途に思い続けている。

 当のお隣さんはその事には気付かず。あんまり気持ちを隠そうとしていない周囲にはバレバレで。

 さて、そんなお隣さんの名は、中谷(なかたに) (あおい)。雅紀と同じ高校に通う、おっとりタイプの平凡な女子高校生である。


 雅紀は急いでベッドへと戻ると素早く汚れたシーツを引剥し、ボロボロになって帰ってきた時用に置いてある汚れスリッパに足を突っ込み、猛ダッシュで階下の脱衣所へ駆けていった。

 洗濯機にシーツを入れ、それから刃物やらで切られた跡と埃と返り血で装飾されたカッターシャツを脱いでゴミ箱に投げ入れ、汗が乾いて嫌な臭気を発していそうなTシャツを洗濯機へ突っ込んだ。黒のお陰で見えないものの、多分血が付いているだろう制服のズボンに一瞬動きを止め、捨ててしまうか悩んだ末、後で洗う用の小さめの洗濯カゴに放り込む。靴下は捨てた。

 慌ただしい、という言葉がぴったりの動作でそのまま浴室に入り、カラスの行水と言うべき早さでシャワーを浴びる。それから、そのまま自室に戻りたいところをぐっとこらえ、濡れ物を洗濯機へ入れ、汚れ物洗いから乾燥までのフルコースを設定し、家人がいれば怒られるだろうドタバタ音を立てながら自室に戻った。

 明日にしか会えないと思っていた葵の顔が見れるのだ。

 一分一秒だって惜しい。

 それでも、後から面倒な思いをするのを避けて最低限の事をこなし、電話から三十分後には、彼はお隣中谷家のインターホンを鳴らしていた。

『はい、どちら様?』

 こんなに早いと思っていなかったのだろう、中谷家母の余所向けの声が聞こえてくる。

「雅紀です。ご飯食べに来ました」

 モニターに向けて、濡れた髪のことなんて物ともせず、笑顔で返答する。

『早っ。……ちょっと待ってて、今開けるから』

 正直すぎる声の言葉に従って待つ間に、髪を乾かしたり服を気にしたりするより葵に会うことを優先した自分を思い出し、少しばかり恥ずかしくなって俯いていると、家の中からバタバタと玄関へと向かって走る音が聞こえてきた。

「まさき兄! お帰り! いらっしゃい!」

 扉が開くと同時に元気よく出迎えてくれたのは、中谷家の長男小学五年生、修二(しゅうじ)だった。

 母親のものだろうサンダルを引っ掛けて門の外まで寄ってくる修二に、雅紀は恥ずかしがっていたことなんて遥か彼方においやって、憧れの格好良いお兄ちゃんの態度を取る。

「ただいま。お邪魔するよ」

 手を軽く上げて笑いかけると、修二はキラキラした目で見上げてくる。門の中に入れば、早く早く、と手を引かれた。全身で嬉しそうなのが分かるだけに苦笑が漏れる。

 六つ離れた修二のことは生まれた頃から知っていて、弟同然の存在であり、将来的には義弟になって欲しいとすら思っている。この熱烈歓迎は嬉しいと思うものの、正直、真っ先に葵の顔が見たかった。

 短いアプローチの間ちょこまかと纏わりつくのを適当にいなし、玄関扉を開けた。

「まさき君、お帰りなさい」

 雅紀は知らず知らずの内に息を飲み込んだ。

 ベージュのパーカーに濃い緑のフレアスカートを合わせた葵が、笑ってそこにいた。

 彼の時間にして一週間、時計で確認した日付から考えてここの時間にして二日。長期間離れていたわけでも無いのに、知らない内に葵欠乏症にでもなっていたのか、普段と変わりない様子の彼女がいつも以上に可愛く見えた。

 思う存分抱きしめてしまいたい衝動を、動きを止めた雅紀を見上げようとしてくる修二の頭を押さえつけることで抑えた彼は、心臓の拍動が早くなるのを自覚しながら、精一杯いつも通りの表情で口を開いた。

「ただいま」

 若干上ずってしまったのは分かってしまっただろうか。

 見惚れて動けない雅紀に、不思議そうな顔をして葵は中へと入るように促した。

「お邪魔します」

 言いながら、三和土で靴を脱ぎ一段高いフローリングへと上がる。少し強く押さえつけてしまっていたらしい修二は、頭を撫でてケアするのに忙しくなったらしく纏わりついてこない。

 勝手知ったる他人の家。案内を待たずにリビングへ進もうとした雅紀は服が引っ張られる感覚に足を止めた。

 何かと思って振り向けば、葵が少し怒った顔で見上げている。万人には普通の顔。しかし、こと彼にとっては反則級の可愛さを含んだ表情だった。

「まさき君、髪」

「へぁ?」

 図らずして寒いギャグで返すことになった間抜けな声に、葵は頓着せず少し背伸びをして雅紀の髪を一房摘んだ。

「もう! なんで濡れたままにしてるの! 肩まで濡れてるし! 疲れてるんでしょ? 風邪引いちゃうじゃない!」

 信じられない! 言って、葵はリビングに向かおうとしていた雅紀の方向を変え、洗面所へ向かって背を押した。幼少の頃はさておき、大きくなった今では流石に洗面所の事情については分からない。しかし、言葉から推測するに、ドライヤーがあるのだろう。

 男女の差、更に言えば同世代の普通の男よりも雅紀は体力やら力やらが強い。抵抗しようと思えばいくらでもできるけれど、大人しくなすがままにされた。

 田倉家と同じか、少し小さめの洗面所に着くと、葵は戸棚からスポーツタオルを取り出し彼の頭の上に掛けようと背伸びしてから、諦めて肩へとかける。届かなかったらしい。

「椅子取ってくるからちょっと待ってて! その間タオルで拭いててよ!」

 何やら興奮気味に洗面所を出ていった葵に、雅紀は肩を竦めた。

 適当に髪を拭いたため少し水滴が多いが、普段からドライヤーで乾かしたりしていないためこれくらい慣れている。風邪の心配もされたものの、疲れているからと言ってこれ位で病を得るほど弱くもない。

 心配されることは嬉しいが、そこまでカリカリしなくても、というのが雅紀の本音だった。

 それでも彼女の言葉を逆らうつもりもなく、大人しく渡されたタオルで髪を拭いていると、折りたたみのスチールチェアを持って戻ってきた。

「はい、これに座って」

 促されるまま椅子に座ると、コンパクトなそれと自分の体格とが合わず、何となく心地悪い。

 洗面台の戸棚からメタリックピンクのドライヤーを取り出した葵は、迷うこと無くプラグをコンセントに差し込み、熱風を出す。

 あれ、これは。

 もしや、と思う雅紀の心の内など気にすることもなく、葵は椅子に座ることで自分より低い位置にいる彼の髪に躊躇なく触れた。

 肩にかけたタオルを使い、水分を吸いながら熱風を吹き付ける葵に、雅紀は心臓が壊れるのではないかと思うほどドキドキした。

 好きな子が、自分に、しかも髪に触れている。

 お隣さん歴の長い彼ではあるが、流石にこんな事態は初めてだった。

 設定を強に合わせているのか、勢いがよく外にまで聞こえてしまいそうな血流音はドライヤーにかき消されて聞こえないのが幸いだ。

 顔が真っ赤になっているのも、葵は髪の水分を飛ばすことに専念しているし、見えないだろう。後は、鏡越しにその一挙一同余さず見つめている姿が気取られなければ良い。

 文化系よりも体育会系を名乗るべきだと日頃から囁かれる吹奏楽部所属の葵の指は、程よく日に焼けている。丁寧に髪を扱う手に、触れたい。握りしめたい。出来れば、握り返して欲しい。

 ヘタレからそんな風に思われているとは知らないだろう葵は、ドライヤーを小刻みに動かしながら口を開いた。

「ねえ、今回はどんな要件だったの?」

 ドライヤーの音に負けないように声を上げる彼女に、動きを見つめていた雅紀は直ぐには反応出来なかった。

 見惚れていて、聞いていなかったのだ。

「え、な、なんて?!」

 あからさまに動揺した彼に、彼女は別段気を悪くした様子もない。

「今回は、何があったの?!」

 少し言葉を変えて、今度は先ほどよりも大きな声で葵は質問を口にした。まさか聞いていないとは思っていないのだろう。

 二度目はきちんと聞いていた雅紀は邪魔しないように僅かに頷いて、それから彼女の質問に答える。

「東の山に、火を吐くでっかいトカゲがいるんだけど、そいつに将軍が喧嘩売りに行ったんだ! 実力が互角だったらしくって、どんどん周囲に被害が及んできてるけど、将軍レベルが二人となると流石に誰も止められなくて、俺が行く事になったんだ!!」

 風の音にかき消されないようにしゃべると、葵は思わず、と言った風に吹き出した。

 別段笑うところはなかったはずなのに、と訝しそうに眉間に皺を寄せた雅紀に、彼女は少し含みのある笑みを見せてから、口を開いた。

「おっきい火トカゲ」

 葵が何に反応したのか。

 声は小さいながらも、口の動きで何を言ったのか理解できた。雅紀自身も、初めて聞いた時思ったからだ。

 思考回路が似ている、と喜んでいいのか何といっていいのか、微妙な気分に陥りつつも、雅紀は右手を横に振った。

「そんな可愛いもんじゃないから! まさしくトカゲ! ドラゴンじゃなくトカゲ! 俺の背より長い尻尾がんがん振ってくるし、火事かって位の火吐いてくるんだから死ぬかと思った!」

 人間の背よりも長い尻尾を持つキノボリトカゲ、しかも火も吹くとなると、葵が笑ったようなとりあえず見た目の可愛い存在ではないことがわかるだろう。

 一応言語を解する一種のため、将軍共々力でねじ伏せ、それから言葉で説得したことで何とか収めることができたが、周囲の木々はなぎ倒され、焼け焦げ、森の一部がハゲになってしまった。その事でランダやナリヤにしこたま怒られた事も腹立たしいことこの上なかった。嫌だと言っているのに無理に呼んでおいて結果が意にそぐわなかったら怒る。理不尽としか言いようがない。

「異世界って、面白い生き物がいるのね」

 髪を乾かしきったのか、ドライヤーを止めての葵の言葉は、心底楽しそうだった。


 普通ではない話をしよう。

 雅紀父には幼馴染の親友がいる。本人曰くただの腐れ縁で親友では無い、との事だが意味は一緒だ。

 この幼馴染は小さい頃からそれはもうキラキラしいほどの美形で、ご近所様から美男美女夫婦だイケメンだと言われる雅紀父なんて霞むほどのものである。

 さて、今から二十年といくらか前、幼馴染は異世界召喚の憂き目にあった。勇者としてその異世界の人間世界を脅かす魔の世界の王、いわゆる魔王を退治しろと、そういうことだったらしい。

 この時、召喚網の範囲がちょっとばかり広かったせいで、偶々幼馴染の側にいた雅紀父は異世界召喚に巻き込まれた。

 そしてだいぶ省略して何やかんやあって、無事、魔王を倒したのはいいのだが、雅紀父のことを好きになった異世界住民がいた。魔王の娘である。

 淫魔の血を引く魔王の娘は、元の世界に戻ると言う幼馴染と雅紀父に強引についてこちらの世界に来てしまった。幸か不幸か異世界魔族の扱う魔法とやらがこの世界でも使えたため、淫魔お得意の記憶と情報の操作をして、書類なんかも作らせたりして、魔王の娘はこの世界の住民になった。

 日本人離れした美貌を持つくせに純日本人の戸籍を持った魔王の娘は、あの手この手で雅紀父を捕まえ、泣き落とし、陥落させ、ついにはその妻の座に収まった。雅紀母の誕生だ。

 まあ、ここまで良いとしよう。

 雅紀には関係のない親の裏話だ。

 ところが、裏話では済まなかった。

 亡き魔王の跡を継いだのは、雅紀母の兄であった。特に人間世界を脅かすこともなく、順調に魔族世界を統治しているわけだが、ひとつ、問題があった。現魔王の子供、つまり雅紀の従兄の魔王としての素質が著しく低かったのだ。

 魔族世界の王の条件は、強いこと。そしてカリスマがあること。

 両方の素質がいまいちな従兄に危機感を抱いた重鎮達は、一つの結論に達する。

 現魔王には強くてカリスマのある妹がいるじゃないか。

 いろんな意味で遠くにいる妹、雅紀母を呼び戻そうとするも、それは失敗に終わる。幼馴染を異世界に喚んだのと同じ技、つまり強制召喚を試みるも、力の強い雅紀母はさらっと拒否したのだ。次期魔王に据えようと思う程の力の持ち主となると、当然召喚を行うものよりも強い。当たり前の結果である。

 次に目を付けられたのが、雅紀である。

 魔法はお伽話であると教えられるまでも無く理解される世界に産まれ、親のあれこれも知らずに普通に生きてきた雅紀は、当然、強制召喚に抗う術を持っていなかった。

 普通でなくなった瞬間だった。


「おっきいトカゲは逆鱗とか無いの?」

 未だ交差箸の直らない修二の言葉に、雅紀は僅かに首を傾げた。彼の強制異世界召喚の理由は大きく分けて二つ。一つは従兄の魔王の素質を向上させるための相手役。もう一つが並の魔族に対処できない事柄を解決する役。勿論、対処出来るだけの実力を持つ魔族はいる。伯父である魔王がその筆頭だろう。しかし、それをあえて強制召喚までして任せているということはつまり、雅紀の力の底上げを狙って言うということは想像に難くない。

 彼の本音としては召喚拒否の魔法を覚えたいわけだが、これのお陰で幼馴染、男女という一般的には疎遠になりやすい状況でも葵との関係を保てている部分がある。

 更に言えば、普通で平凡な日常を送る中谷家は異世界に興味津々なのだ。自分にとって嫌な事でも面白おかしく話題を提供して一家との友好を深めておくのも悪い手ではない。

 そんな訳で、今回も家族プラス雅紀の食卓にプチ冒険譚を供した結果が、修二の謎の問いである。

「ああ分かった。ほら、ドラゴンって大きいトカゲ、みたいに言われることもあるでしょう。で、ドラゴンって逆鱗があって、触るとすっごい怒るって言うから、火トカゲにもあるのか、ってことでしょ?」

 トカゲと逆鱗が繋がらない雅紀への解説か、中谷母はご飯をお茶碗によそいながら口を挟む。

「……いや、だからトカゲだってば。ヤモリの仲間のトカゲで、ドラゴンじゃないから」

 血生臭く、食事中しかも葵の前で言えないような部分は適当にぼやかして、他の部分を若干盛って話をしたためか、何度もトカゲなのだと力説したはずの部分は記憶に残らなかったらしい。

「もーまさき兄は夢が無いなあ」

 修二は本日二杯目の白米を左手に持ち、右手の箸をぴしっと雅紀へと向けた。流石は小五クオリティ。意味が分からない。

「行儀悪い」

 ぺしりと中谷母は息子の頭をはたいた。そんな親子のやり取りに雅紀は場を濁すよう笑っておいた。

 夢が無いと言われたところで、彼にとってそれは現実である。話を聞いている側は、物語を読むような、テレビを見ているような、そこにあるけれど現実ではない空想にしか感じないのだろう。

 お隣さんとして田倉家の事情を知っていても、自身の身に起きなければその程度にしか思えないという事は理解している。

 それでも納得しきれない部分を抱えながら、気分を変えるために左側に座る葵を見た。

 アイランド型キッチンのカウンターに対して垂直縦に設置されている食卓では、雅紀の指定席はキッチンの正面、お誕生日席である。カウンター側の席に夫妻、母の隣に修二、父の隣に葵が配置されている。

 トカゲの逆鱗には入って来なかったものの、適度に話に参加し、笑ったりと反応を返しながらも淡々と食事を進めていたらしく、もう間もなく全てを食べ終わりそうだった。

 食事量の多い中谷父、細々用事をこなす母、おかわりしながらゆっくり食べる修二。開始は一緒なものの、各自の事情から終了は自由というルールがあるため、一番に食べ終わる葵はさっさと部屋へと引き上げてしまう。彼女とゆっくり話すなら、このタイミングを逃してはいけない。のんびり食べていると修二に捕まることも理解している雅紀は、残しておいたサラダを素早く胃の中へ収めた。

 そんな地味な努力に気付くことなく、彼女はのんびりとお茶を飲んでいる。スピードを調整し、ちょうど良い位で食べ終えることが出来て、内心ぐっとガッツポーズをしてから雅紀は箸を置き、手を合わせて食事への感謝の挨拶を口にしてから食器を流しへと運んだ。

「あら雅紀君もういいの?」

 中谷家のルールに従い使用した食器にさっと水をくぐらせ、改装の際に導入された食洗機に並べていると、カウンター越しにそう声をかけられた。

「お腹いっぱい食べさせてもらいました。やっぱりおばさんのハンバーグは絶品だよね」

 家事はからきしの母のためお手伝いさんを入れているが、中学生の頃からはハウスクリーングだけをお願いしている。食事は父か雅紀の仕事でなかなかセンスのある方だと自負している彼だg、ハンバーグとホットケーキだけは中谷家のものに敵わない。

 肉汁がたっぷり詰まっていて、自家製トマトソースのかかった一品は是非葵にも習得して欲しいと密かに願っている品だった。

「ふふふ。好きだと思って作ったのよ~」

 誉められて気を悪くする人はそういない。例に漏れずウキウキと言葉を返した中谷母に礼を言っていると、葵が食事を終えたらしく感謝の言葉を呟いてから台所にやってきて、同じように軽く漱いで食洗機に皿を入れた。

「そうだ。まさき君、佐々木君からノートのコピーを預かってるの。部屋に来てくれる?」

 願ってもない申し出だった。

 何を理由に部屋までくっついて行くかを悩んでいた雅紀にとって、向こうから体の良い理由を提供してくれるなんて、何てラッキーなのだろうか。

「う、うん」

 つっかえながら返事をして、雅紀は階段に向かって歩き出した葵の後を素直に付いて行く。

 その軽い足取りを、中谷母がにやにや笑って見ていたことに、彼は気付かなかった。


 ひと月に一度、多い時には二度行われる強制異世界召喚は、雅紀の学業成績にとって少しばかりの影を落としている。

 召喚時は視認できる範囲に他人がいない、両親に喚び出しを受けたことが感知される、という制約があるため騒ぎにはならないものの、長い時で一週間、短い時で二日ほどのそれの為に授業内容には遅れる、提出物は出し損ねる、酷い時にはテストが被るという被害を受けているのだ。彼を次期魔王候補と見る重鎮たちは、義務教育でも無いんだから別にいいだろ、という嫌なスタンスを取っているため、その辺りの事情はお構いなしだ。

 中学生の頃から帰宅した後直ぐ様提出物関連を片付け、期限を紙に記して机に置いておき、万が一の時には持って行ってもらうという、葵の助けを借りた地道な努力のお陰でその問題はクリアしているものの、テスト中の召喚は努力ではどうにもならない。これは流石にまずいという事で、期間中は雅紀母による召喚避けが施されている。

 目下の目標は、高校在学中には自力で召喚避けの魔法を組み立て、通知表に記載される年間欠席日数を十日以内に収めることだ。

 小学生の頃から数えて十一年ほど雅紀と葵は同じ学校に通っているのだが、残念ながら同じクラスになれたことは片手にも満たない。一年生の頃は休む度に授業に遅れ、いかに地頭が良いとは言っても魔王教育でも習うようなものを除きついていくのに苦労していた。

 二年生に入ってから全く同じ授業選択をしている佐々木という友人を得て、雅紀の就学関連の問題が大分マシになった。

 気の良い彼は病弱な雅紀にいたく同情し、お隣さんの葵伝手にノートのコピーを届けてくれるのだ。

 自分がわかれば良いという方針なのか、お世辞にも余り綺麗なノートでは無いが、それでもワンポイントアドバイスも添えられたそれには、かなりお世話になっているわけである。


 淡い緑を貴重とした葵の部屋には、ここ数年ほとんど入る機会に恵まれない。

 久しぶりの好きな人の部屋に若干邪な考えなんかもよぎりながらも、ギリギリ態度には出さず雅紀はカバンからコピーが出てくるのを待った。

「はい、これ」

 ピンク色のクリアファイルを手渡され、簡単に中身を確認する。

 角を合わせて几帳面に折られたコピーは二日間の授業分ということで、そこそこ多い。しかし、インデックスシールの如く教科名の書かれた付箋がはみ出ているため、ひと目で何のノートなのかが見て取れた。

「あれ、この字……」

 付箋に書かれた文字は、ダイナミックで角ばった佐々木のものとは違い、小さく、丸々としている。葵の字だ。

「コピー室の前で佐々木君に会ってね、そのまま渡されたからお節介かとも思ったんだけど折って、ついでに付箋貼ったの。余計だった?」

 考えてみれば、彼は大変気の回るものの、大雑把なところがある。これまで渡されたコピーはいつも端がずれていた。

「ううん。分かりやすくて嬉しいよ、ありがとう」

 パラパラとファイルに挟んだままコピーを捲っていると、間に封筒が入っているのが見えた。佐々木からの手紙にしても中途半端な位置に挟まれている。何かと思って引っ張り出し、封のされていないそこから中身を抜き取った。

「あ、それ」

 葵の制止にも似た声よりも早く、内容に目を滑らせる。

 書かれている文章は短い。『放課後、中庭のベンチで待っています。』

「何これ」

 割りと整った文字は、佐々木のものでは無い。葵のものでも無い。誰か、知らない男のものだった。

 雅紀は自分がそこそこモテることを知っている。伊達にサラブレット美形をしているわけではないのだ。かっこいいね、娘の彼氏にしたい、なんて近所の奥様方から腐る程言われているし、実在が不明などこぞの聖人の殉教日には大きめの紙袋が必要になってくる。勿論葵への気持ちを隠していないため、父に続いてヘタレの称号は得ているわけだが。

 だから、この手紙が何を意味するのか本当は聞くまでも無く理解できていた。彼女の発言から、これが誰宛かも分かっている。

「帰ろうと思って下駄箱開けたら入ってたの。朝にはなかったし、もしかして待たせてるのかと思って中庭行こうと思ったんだけど、みっちゃんに止められてね。それで、とりあえず鞄に入れたんだけど、そこに入っちゃったんだね」

 ごめんね。

 返せと言わんばかりに手を差し出してくる葵の表情は、いつもどおりだった。紛れていたことへの謝罪の気持ちはあっても、そこには照れも気まずいと言うような気持ちも無いように見える。

 この状況をどう扱うべきなのか。幼馴染の隣人という感情以上の物は感じていないが故に手紙を見られた所でどうって事無いか、もしくは、手紙の意味を理解していないか、雅紀が咄嗟に思いついたのはその二つだった。

 他の部分はどうあれ、彼女への気持ちが周囲にはダダ漏れだ。牽制とまでの具体的な行動はとっていないが、彼は誰から見ても分かりやすい態度を示している。

 いわゆるイケメン、成績も良い、人当たりがよく周囲からも好印象を持たれている。そんな彼に対抗しようという人が現れるだなんて、思っても見なかった。

 休みの隙に何をしてくれたのか。

 葵の手をさらりと無視して、雅紀はにっこり笑みを作った。

「みっちゃんは正解だね」

 同じ吹奏楽部所属の葵の友人のことを口にした。予想通り不思議そうな顔をした彼女に、更に言葉を重ねる。

「吹奏楽部って朝練あって早いだろ? 多分、この手紙を入れた奴は、葵より早く学校に来ないから、放課後に入れたんだよ。本当は明日の朝に見て欲しかったんだろうけどね」

「あ、そっか」

 その説明により友人に止められた理由がわかり、素直に納得したらしい葵はうんうん頷いている。

「でもさ、葵より早く来たり遅く帰ったりって努力の足りない奴だね。人を呼びだそうってのに、誠意が無いな」

 結局の所、雅紀のお喚び出しと違って強制力の無いお呼び出しに応えるかどうかは、葵次第である。止めたいのは山々でも、理由付けができない今は、さり気なく相手の印象を落とす位しかできることはない。

「それに、名前も無い。誰かも知らせないっていうのはフェアじゃないよね」

 名前が無い人の元に行くのは、勇気がいることだ。もしかしたら罰ゲームなのかもしれないのだから。

 そういった旨を伝えると、葵は確かにと頷き、何とも思っていなかったはずの相手への印象を更に悪くした。

 誰かは知らないけれど、名前を書かなかったことが幸いだった。そこをつつけば手紙に従う事に抵抗感を植えることができる。

 雅紀はこの手紙が放課後、しかも無記名である理由が何となく見えていた。

 召喚の件があるため部活に所属していない彼は、必要もないのに朝練で早い内に投稿する葵にくっついて学校へ行く。学校無いではクラスは違ってはいるものの、ちょこちょこ教室へ出向き、そこにいる男友達のついでのように彼女にも話しかける。

 手紙の主からすれば鬱陶しい事この上ないだろう。彼女へ手紙が渡るときに雅紀がいれば邪魔されると、そう考えても仕方ない。

 恐らく、雅紀が休んでいる事をしった手紙の主は、急いで手紙を書き上げた。この時に気が急いで名前を書き忘れたのだろう。そして翌朝、少し早めに登校した主は下駄箱に封筒を入れようとするも、すでに葵が学校にいると気付く。仕方がないので更に翌朝見てもらえるようにと、放課後の下駄箱に封筒を入れた、といった具合だろう。

 これもその人にとっては残念と言うべきか、雅紀にとって幸いと言うべきか。放課後の吹奏楽部は外に走りこみに行く。室内履きがあるということと、彼女が下校したということはイコールでは繋がらない。通学靴と運動靴の有無が重要なのだ。

 にこにこ笑っている雅紀を前に、葵はもう手紙を返してもらう必要も感じていないのか、出した手を引っ込めて不満そうに息を漏らした。

「じゃあ明日行くのどうしよう。告白かと思ったけど違うのかな」

 然程特別な台詞ではないはずだった。

「え?」

 だというのに、雅紀はこれまでに受けたことの無いような、強い衝撃を受けた。

 葵は、手紙が告白についてのものだと理解していたのだ。

 考えてみれば当たり前だ。そう認識しない方が普通の女子高校生としておかしい。

 おっとりしているから、バレバレの態度に何も言わないから。だから、そういった方面に疎いのだと、彼は勝手に思い込んでいた。

 愕然として言葉の出ない雅紀のことなんて気にした様子もなく、葵は続ける。

「周りはみんな彼氏居て私だけ居ないのって寂しいから、いい機会かなって思ってたんだけどなあ。試しに付き合ってみるのもありって言うし…」

 雅紀にとって聞き捨てならない言葉だった。彼女がそんな風に思っていただなんて知らなかったのである。

 いずれは、と思っていてもまだこのままこの関係が続くのだと、そう勝手に信じ込んでいた。

「何それ! 好きだって言われたら誰だっていいってこと?!」

 腸が煮えくり返りそうな気分を味わった。

 彼が周囲から生温い微笑みで見守られるような態度をとっていても、葵はいつも通りで照れることもない。本当に普段と同じすぎて、彼は次の手が出せなかった。直接的なことをして、嫌われるのが怖かった。少なくとも側に要られる隣人で幼馴染という立場を崩せなかった。

 異世界召喚という面倒事も、喚ばれる内は葵から積極的に気にかけて貰えるから、現状打破は掲げていても多少妥協している面があるのだ。異世界の話を楽しんでいる中谷家の住人には何も伝えていないけれど、あの世界はそんなに楽しいものではない。

 父親にも、その幼馴染にも、よく行き来できるな、と言われているのだ。余り言いたい事ではないが、魔王候補の教育の一貫に、魔王の命を狙う人間世界からの刺客への対処も組み込まれている。

 それに対して、雅紀は初めから抵抗がなかった。

 葵の側に居るにはそんな風に感じてはいけないと、本当は知っている。普通の男子高校生としての感覚を培いたいのならば、これ以上異世界へ行ってはいけないのだ。

 向こうへ行きながら召喚拒否の魔法を自力で組み立てなくても、父親やその幼馴染に聞けばしばらくは有効な物ができる。その内に自身に一番合う方法を見つければいい。

 分かっていた。

 それでも、彼が異世界へ出入りするのは葵の関心を買えるからだ。彼女の心の一番に立つには、必要なことなのだと思っていた。

 けれど。

 誰でもいいなら、雅紀だっていいはずだ。

「そ、そこまでは言っていない」

 余りの剣幕に、たじろいで葵は思わずというように一歩、後ろへと下がる。その動きに、拒絶されたような気分になって、雅紀は苛立ちを募らせた。

「明日行かないでいい!」

 強い口調でそう断じた雅紀に、葵はむっとしたように眉を寄せた。

「なんでまさき君に言われなきゃならないの?!」

 いつに無く声を荒げて反論してきた彼女に、ますます焦燥感が湧いた。

「俺が嫌だからだよ!」

「何で?!」

 当たり前だろう疑問に、雅紀は一瞬動きを止めた。幼馴染で隣人だから、だなんて理由で濁したって葵は納得しないだろう。折角マイナスイメージを植えつけた手紙の相手の元へ、反抗心から行くかもしれない。もっと言えば、そのまま了承してしまうかもしれない、否、するだろう。

 睨みつけてくる顔は、怖いだなんて思えない。

 いつもと一緒で、ただ、ひたすらに可愛い。

 ぐっと、躊躇した気持ちを追いやって、先ほどまでの勢いでもって口を開いた。

「俺が、葵の事好きだからだよ!」

 ぴたりと、今度は葵の動きが止まった。怒りを孕んだ表情で、雅紀の言葉に即座に返すべく開いていた口をそのままに、少しの間を置いて、目が泳ぐ。

 勢いに任せてとはいえ自分で覚悟を決めて言った割りには顔が真っ赤の彼に、彼女は険しい表情をゆるめ、戸惑うような、そんな情けない顔をする。これもまた、可愛い。

「え、えっと……」

 何と発言すればいいのか、探るように意味の無い言葉を発した彼女に、雅紀は遅れて異様な速さで脈打つ心臓を感じながら、ゆっくりと口を開いた。

「俺は、葵が好きだ。だから、手紙なんて無視して欲しい」

 一歩後ろへと下がっていた葵の肩を掴み、もう一度同じ事を言った。ずっと手にしていたピンクのファイルと手紙が床へと落ちた。付箋の張られたノートのコピーが飛び出して、きちんと揃えられた順番がぐちゃぐちゃになる。

「ねえ、葵。葵は俺の事なんて嫌い? どうでもいい?」

 周囲にバレバレな位の態度を取っているくせに、側に居られなくなるのが嫌でヘタレ街道を突き進んできた雅紀は、もういい、とばかりに素直な気持ちを浴びせる。

「葵、返事は?」

 困惑してか反応の鈍かったが、漸く状況を理解し始めたらしい葵は、じわじわと顔を赤く染めながらも、普段よりも近い距離にいる雅紀から目を逸らせず、無意味に口の開閉運動をした。

 赤い唇に、誘われているような気持ちを感じながらも、雅紀は大人しく言葉を待つ。

 沈黙が続いた。

 それでも答えを聞くまでは逃げることは許さない。そんな空気を感じたか、葵は息を吸って、一度口を結んでから、恐る恐るといった様子で開いた。

「どうでもいいなら、電話なんてしない」

 問いかけの答えにはなっている。

 けれど、それは雅紀の聞きたい事の全てではない。

 続きを促すように僅かに首を横に倒せば、彼女は小さく頷いて、更に言葉を重ねた。

「まさき君は、かっこよくて、同性から見ても可愛い子に好かれてる。何回も異世界の人に喚ばれるくらい、強くて、必要だって思われてる」

 言いながら、葵の顔は次第に下を向いていく。

 表情が見たい、そう雅紀は思いながらも何も言わず、何も動かず、ただ言葉を待った。

「だから、お隣さんって価値でしか、私はまさき君の側にいられない」

 段々と弱くなっていく語気に、見えないとわかっていながら雅紀は首を横へと振った。そう、思っているのは雅紀の方なのだ。

「でも」

 否定の言葉を掛けようとした瞬間、葵は強い口調でこれまでの台詞を打ち消す言葉を口にした。顔を上げ、まっすぐに雅紀を見つめる。

「私もまさき君のこと、好きって言っていい? 側にいていい? まさき君が帰ってきた時、一番にお帰りって言うの、私だけの特権にしていい?」

 思わず、雅紀は葵を抱きしめた。

「言って、俺は、葵に言って欲しい、葵だけの特権にして欲しい」

 おずおずと、彼女の手が背へと回る。遠慮しがちなそれすら、只管に嬉しい。

「好き。まさき君が好き」

 断定の、はっきりした言葉に雅紀は抱きしめる力を強くする。

「俺も、葵が好きだ」

 顔を見合わせて、二人は幸せそうに笑った。


 そして今日も雅紀はボロボロになってゲートをくぐる。

 帰還の一瞬の光に、幼馴染でお隣さんの恋人が気付いて電話をくれるのを楽しみにして。

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