第8話 聖女暗殺
その日の夜、治癒魔法を使い過ぎたオヴェリアはなかなか体調が回復せず、いつもより早く床についた。
深夜を回り、不寝番の警備兵を除いて屋敷内のほとんどの者が眠りについた頃──。
オヴェリアの部屋の扉がかすかにきしむ音を立てながら、ゆっくりと開いた。
扉の隙間からそっと顔を覗かせ、部屋の主が寝付いているのを確かめたのは……エルだった。
(扉に鍵がかかっていなかったのは好都合だが……不用心すぎる)
息をひそめながら部屋の奥にあるベッドを伺うと、そこに横たわっているオヴェリアから、かすかな寝息が聞こえてくる。
エルは安堵して小さく息を吐いた後、足音を忍ばせて部屋に入り、ゆっくりと扉を閉じた。
そうして、音を立てないよう細心の注意を払いながら、そっと近づいていく。
1歩、2歩、3歩……。
近づいて行っても、オヴェリアが起きる気配はない。
(罠かもしれないと思ったが、本当に寝ているようだな)
エルはゆっくりとオヴェリアの方へと近づき、ベッドの横まで来るとその寝顔を覗き込んだ。
カーテンの隙間から差し込む月光に照らされたオヴェリアの顔はいつもより少し血色が悪く見えたが、眠りは深いようだ。
エルはまた音を立てないよう注意しながら、服の中に隠し持っていた短剣を取り出した。
鞘から抜いて、右手に握り込んで逆手に構え、オヴェリア首の上に振り上げる。
(彼女に咎があるわけではないが、仕方がない。ここで殺しておかなければ、いずれ……)
いずれ、もっと多くの血が流れることになる──。
それこそ、彼女の愛するこのホーリング領の領民たちから、次々と殺されることになるはずだ。
(だから、仕方がない。……多くの血を流さないために、少しの血で贖うのが正しい選択だ)
──そう思うのに、手が震える。
この剣を彼女に突き立て、その白い肌から血が噴き出した時……。
痛みに目を覚ましてこちらに気付いた時、彼女はどんな顔をするだろうか?
オヴェリアの目が恐怖と失望のまなざしで自分を見る瞬間を想像すると、手が震えた。
エルが逡巡し、短剣を握った手を振り上げたまま唇をかみしめていると──。
「……ん……」
オヴェリアが小さな声を上げた。
(──!! まずい、彼女が目を覚ましたら──!)
エルが慌てて短剣を鞘にしまい、再び服の中へとしまい込んだ時、オヴェリアの瞼がゆっくりと開いて、金色の瞳がこちらを見つめた。
「……ん……エル? ……どうしたの?」
まだ夢と現の境にいるらしい彼女は、とろんとした眼差しでこちらを見つめている。
「……眠れない? 怖い夢を見たの?」
オヴェリアは眠そうに目を細めながら、柔らかい声でそう問いかけて来る。
「いえ、その……。なんでもありません。失礼しま──」
エルがそう言って踵を返そうとした時、ベッドの中からオヴェリアの手が伸びて、エルの手を捕まえた。
「──な、離し……え──!?」
オヴェリアは強い力でエルを引き寄せ、強引にベッドの中へと引っ張り込んだ。
「────!? は、離せ!」
驚き暴れようとするエルを、オヴェリアは有無を言わせぬ強引さで胸の中へと抱き寄せる。
「……眠れないなら、いつでもここに来ていいのよ……。扉に鍵はかかっていなかったでしょう? エルが夜中に寂しくなるかもと思って、開けておいたの……」
オヴェリアはそう言いながら、ゆっくりとした手つきでエルの髪を撫で、安心させるようにトントンと背中をさする。
「……私も、子供の頃怖い夢を見たら、いつもお母様のベッドに逃げ込んでいたのよ。……だからエルも、いつでもここに来ていいの……」
(怖い夢を見て母親に甘えるほど、子供じゃない!)
そう言いたかったが、オヴェリアは話しながらまた眠りの淵に落ちて言っているようで、その金の瞳は段々とまぶたの裏に隠れていく。
……数秒後には、オヴェリアはまた寝息を立てはじめた。
再び寝入ったオヴェリアの寝顔を見ながら、エルは服の上から隠し持った短剣に触れたが……。
もう一度それを引き抜いて、今自分を抱きしめて寝息を立てている女性に突き立てることは、できそうになかった。
(……今日はもういい。扉に鍵がかかっていないことは確認できたのだから、また機を改めるしかない)
そう思い、すっかり寝付いたオヴェリアの手をほどいて脱出しようとしたのだが、寝ているはずの彼女の腕は、驚くほどしっかりとエルの体に巻き付いている。
それでも何とか脱け出そうと、オヴェリアを起こさない程度に体をひねってみたり、腕の隙間を広げようとしてみたものの、その腕が緩むことはなかった。
(無理に抜け出そうとすると、また彼女を起こしてしまうかもしれない……。もう少し待って、腕の力が緩んだら抜け出すしかないな)
エルは一旦脱出を諦めて、オヴェリアの腕の中で力を抜いた。
抵抗を止めてみると……意外にもその場所は、心地が良い気がした。
温かく、柔らかく、甘い香りがする……優しい腕の中。
オヴェリアの規則正しい寝息のリズムが、こちらの眠気まで誘ってくる。
(……ほんの少し目を閉じるだけだ。腕が緩んだら、すぐ起きて出て行こう……)
そうして、エルはほんの一瞬のつもりで目を閉じたが……そのままスルスルと深い眠りに落ちて行ったのだった。
***
──同時刻。クロノス帝国王城内 第一皇子執務室。
「──奴はまだ見つからないのか?」
黒い軍服を着た男が、低い声で兵士にそう問いかけた。
「申し訳ありません。かなりの人数を割いて探させておりますが、まだ……」
兵士はそう返答した後、言いにくそうに続けた。
「殿下のおっしゃるように、瀕死の重傷を負って国境の森へ逃げたのであれば、既に亡くなって遺体は獣に食われた可能性も──」
「──ならその獣を捕らえて腹を裂いてでも、奴の死体を持ってこい!!」
男の怒鳴り声に、兵士は息を呑んで身をすくめた。
「──もういい、行け! 死体が見つかるまで戻るな!」
男の命令に兵士は敬礼で応え、足早に部屋を出て行った。
独りになった部屋で、男は……クロノス帝国第一皇子ギデオンは、低い声でつぶやいた。
「クソッ! あの時とどめを刺しておけば、こんな手間はかからなかったものを!」
そう言いながら、忌々し気に舌打ちをする。
「……見つけ出して、必ず殺してやる。リュシオン……!」




